学校のない休日に、タトエは祈りを捧げていた。
場所は沈黙の楽器亭の庭で、祈る方向は東だ。早朝であるために星は見えない。空には雲が漂って地上に陰りを与えているとしても、心の中に存在する星に向かって祈る。
貴方の奇跡に感謝します。
貴方の慈悲に感謝します。
貴方がいてくださるために、僕はいまも幸福を享受できているのです。
信仰の厚い一族に生まれ落ちたが、タトエは幸いにも神というものと相性が良かった。目には見えなくとも存在する相手に対して敬意を抱くことができる。両親が素直に愛情を注いでくれたことも理由の一端になるのかもしれない。
タトエは瞼を閉ざしながら顔を上げて、右手を空に向かって伸ばしていた。
「信仰熱心ね」
少女の声がする。
タトエは振り向いて、微笑んだ。
「それだけじゃないよ。いざというときのために、祈りの力を蓄えてもいるんだから」
現金な面もあるとあえて悪ぶってみたが、サレトナはタトエの信仰を俗物なものとは見なさなかった。
サレトナもまた、祈りの一族であるためだろう。使用する術法がタトエとサレトナでは、聖法と魔術という違いはある。けれども、サレトナは信仰を胸に抱いている少女であると、タトエは理解していた。
聖法では祈りの密度によって法の効果が変わる。普段から信仰の厚い存在はより手厚い奇跡を上位存在、いわゆる神などから受けることが可能となる。だからこそ、仮初めの信仰であっては意味がない。一片の疑念も怨恨も持たずに祈ることによって、聖法を行使することは可能になる。
また、タトエがサレトナに言ったように、祈りは蓄えることもできる。もとから人が聖法を借りて奇跡を起こす力には限りがあるが、日々の祈りはその力を増加させられる。信仰が強まることにより神はまた新たな力を得て、聖法はより深遠な奇跡を起こすことが可能となるのだ。
理屈だけならば様々なものがあるが、結局のところ、損得勘定での祈りには神は応じない。道具に成り下がることになるためだ。だから、人は常に慎ましくあらねばならない。人知を超えた力を行使できるということは、超越者の介添えがあるということだ。
忘れるなかれ。人は、完全ではない。
などといったことを話しながら、タトエはサレトナと並んで食堂に向かった。サレトナはすでに食事を済ませているという。
食堂の右端の二人がけの席を選ぶと、アレッサスの紅茶を用意して、再び話をする。
「タトエが信仰しているのはどういったもの?」
「僕が信仰しているのは『さいごまで遺る』だよ」
神の名前、いわゆる固有神名は具体的に述べてはならない。そのため、どの神であっても遠称という仮名がつけられている。
尋ねられたタトエがサレトナの信仰対象を問い返すと、ふと遠くを見ながら言われた。
「『忘却消失のための回路理論』。言いづらい名前よね」
「それはまた。なんというか。珍しい、存在だね」
無難な返答しか選べなかった。遠称が複雑であるということは存在の真意から遠ざけられている。サレトナの信仰対象は旧い神か、神とは別個の上位存在だということは伝わってきた。しかし、サレトナの口にした存在はロストウェルスに関係する上位存在だけではないという印象も受けた。
カクヤがどれだけ知っているかは不明だが、ロストウェルスはシルスリクの創造神によって「永遠の氷」という聖氷を託された一族だ。他にも「永続の炎」と「永劫の風」、「永久の岩」といった、シルスリクの自然を支える四つの要がある。四つの中のどれか一つが欠けても現在の平和は保てないだろう。
サレトナも本来ならば、ロストウェルスの地から出ることはなく、聖氷を守っていたはずだ。だが、外に出されたとサレトナは言い、その兄はサレトナ自身が違う土を踏むことを決意したと言っている。
友人としてできる範囲は超えている心配だと、タトエは承知している。けれど、サレトナのことはふとした瞬間に気にかけてしまう。
カクヤのことは笑えないな、と苦笑せざるをえなかった。
サレトナが言う。
「ここは、本当は神様がいない世界だ、と言われたら。タトエは信じることはできる?」
「頷くくらいならできるけど。心から、信じることはできないね。空板とか、聖法とか、人では不可能なことがシルスリクには多すぎるから。神が力を貸してくれているとしか思えない」
「私もそう。神様は、いるの」
互いに神に関係する家庭環境で育ったからなのかもしれないが、サレトナもタトエも神の実在を信じている。疑いの可能性を知っている時点で、その信仰は揺るがぬものではないのかもしれないが、それでも神を受け入れていた。
だけれど、もし存在するのが神ではない別のものだとしたら。悪意を持った摂理として存在しているものを神と敬しているのだとしたら。それによる力に頼るのは危険なことではあるが、人は直接神と対話できる身ではないため、真実を見極める事は不可能だ。
ただ、善良なる神がいることを信じて感謝するしかない。
重たげになった話題を振り払うためか、サレトナはこれからの予定を聞いてくる。
「今日はどうするの? 久しぶりのお休みだけど」
「うーん。僕はゆっくりするつもりだけど。サレトナは?」
尋ね返したところで楽しげに厨房を指さされた。あと少しでモーニングの時間が始まる。どうやら、サレトナは宿の手伝いをするようだった。
「一人で大丈夫?」
「ええ。がんばるわ」
いかにも名家の令嬢といった振る舞いのサレトナが、給仕として立つことにタトエは一抹の不安を覚えた。客商売というものは、いついかなる時に理不尽に襲われるのか不明なものだ。
タトエはまだティーポットに紅茶が残っているため、助けに入れるように食堂からサレトナを見守ることにした。
十分ほど経ってから、サレトナはナイテンに呼ばれる。それから、桜色のエプロンを従業員に手渡されて、細々と指示を出されていた。サレトナはポケットにひそませていたメモ帳を取り出して、生真面目に記載しながら話を聞いている。
熱心そうだが、大丈夫なのだろうか。
タトエの心配などまったく気にしないまま、モーニングの時間が始まった。並んでいた三人の客が入ってくる。
沈黙の楽器亭の食堂はカウンターが五つとテーブル席が七つある。サレトナは左の窓際の席に腰を落ち着けた老人に、声をかけた。老人は細い目をさらに細めながら、サレトナに注文を伝えていく。
途中で、起きてきたらしいカクヤが食堂に入ってくる。タトエを見つけるとサレトナが座っていた正面に腰を下ろした。
「おはよ」
「おはよう。朝ご飯は?」
「んー」
席に置いてあるメニュー表をカクヤは見る。気分はパンであるようだが、付け合わせをジャムにするのか魚卵で塩辛く決めるのか悩んでいるのが見て取れた。何度もメニュー表をひっくり返している。
その間にサレトナがカクヤの隣に立つ。透明なグラスに入れられた水を置いた。
「ご注文はお決まりですか」
老人の注文を聞き終えて無事に厨房へ届けられたのか、サレトナの表情は満足げだ。
「ふんわかパンにベリーのジャムで。あとスープとサラダのセットも」
「わかりました」
手にしている帳面に書き込んで、サレトナは厨房へと急ぎながらも駆けずに戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、言わなくてはならないことに思い当たった。
「サレトナの仕事に合わせて、起きてきたの」
カクヤは返事をしない。それが明確な答えだった。黙って冷や水で喉を潤す様子は「恥ずかしいからわざわざ言うな」と言いたげだ。
「カクヤもサレトナのことをよく見るね」
「だって、心配だろ。あんなすきだらけ」
それはカクヤが言えた台詞ではないんだけどな。
つい、言いたくなる言葉をタトエは呑み込んだ。カクヤも十分に隙だらけだということを指摘するのはかわいそうだった。本人はしっかりしているつもりなのだろうが、脇が甘い。
「たとえサレトナが鉄壁の防御を誇るとしても、カクヤはついて回りそうだけどね」
「人をソレシカみたいに言うな」
「彼と違って、カクヤの場合は純粋な心配だったらいいんだけど」
「それ以上はないから」
ただ心配なだけだ、と意地を張るカクヤについ笑ってしまった。正直者で嘘が吐けないというのに、些細なことで頑固になる。
知れば知るほどカクヤも面白い人物だった。
むくれるカクヤの視線が、サレトナを追い、今度は老人のところで止まる。サレトナが最初に声をかけた老人のところに湯気の立つスープとパンを乗せたプレートを運んでいるところだ。
「あの人、前もいたな」
呟くカクヤに応じず、タトエはカップの紅茶を飲み干した。
やっぱり気にしているじゃない。
第三章 出逢った音は千変万化の色を鳴らして 一括掲載版
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