花園の墓守 由為編 第一章『違う空を見るために』

 カーブを描く階段を上っていくあいだ七日はいくつだろうかと予想する。由為はまだ十五歳だ。七日が年下だったら、救われるが悲しい。
 憎むのも嫌うのも強烈な麻酔であって、抱えている苦しみはなくならない。此岸を好きになってもらいたいとは言わないが、せめて自分を追い詰めないでいてほしかった。
 多少の憂いを抱えつつ、二階の一番左にある自室の扉を開ける。 
 世界は崩壊した。
 誰かいる。それは分かる。だが、誰がいるのかは欠片しかつかめない。柔らかな塊をぱしぱしと叩いている。背中。男性のものではないようだ。
 由為が目をこすっているとそれは振り向いた。淡い軌跡を残しながら大仰に片手を差し出す。
「彼岸へようこそ!」
 金の瞳と由為の青い瞳がぶつかった。
 ようやく目の前にいるのが大人の女性だと認識できた。髪は長く甘い薄紅色をしていて左側に編まれている箇所がある。瞳孔は細い緑だ。ときめきが詰まっているだろう豊かな胸とくびれた腰。上下がつながっている服の丈は長いがブーツが見えた。
 とんでもない、という巨大な存在感に気圧される。
 吉兆も凶兆も全身に詰め込んでなお笑う。
 これはよわくてもろいのにこわいものだ。
「俺はファレン。忘れられつつの地、彼岸唯一の住人だ」
「あ、俺は由為です。はじめまして。ててて、あれ?」
 此岸にいるのは貴海と七日としか聞いていなかった気がする。由為が率直に違和感を告げるとファレンは意味の深い笑みを浮かべて問いを口にした。
「俺がいることを此岸の人は絶対に知ることができないだけさ。そう、たとえば由為はどうして彼岸があると此岸にいるときから知っていた? この地に来るのは今日が初めてだというのに」
「此岸の人は彼岸の花を食べているからです。此岸で作っていないものを、彼岸は作っている。だから彼岸があると納得できました」
 自分の疑問は置き去りにされたままだが素直に答える。ファレンは物分かりの良い弟子に会えた教師の余裕をもって問いを重ねていった。
「そうだ。なにゆえ此岸の人は彼岸の花を食す」
「先天であり共通の病にあたる痛みを緩和するためです」
「ああ。その病は正確に言うと、じしょう行為だ」
 じしょう。言われても当てはめるべき字がわからない。
 ファレンは扉のそばにいる由為のところまで近づいてくる。軽やかに刻まれるステップと揺れない服の裾を一緒に処理している頭はちぐはぐになっていくようだ。
 ファレンは空に指を滑らせながら由為の前に立つ。
「彼岸の花は此岸の人の体を蝕む字を消すんだ。だから、字消行為」
 あってはならない字が人体を侵食する此岸の理をファレンは不治の苦痛だと言いきった。
「その字は見えるんですか」
「いいや。そうらしいというだけさ。ある日、花を食べないでいた誰かの口から字が飛び出した! などということもなかったはずだ。おそらく」
 由為は思わず自分の手を見つめた。薄い皮膚の下に見知らぬ字がうごめているなど想像したこともなく、またできなかった。
 此岸において字とは祀られている利用できるが基本的に不可触の存在だ。由為は彼岸に住むにあたり書くことを覚えさせられたが、たいていの此岸の住人は、話し読むことができる程度ですまされている。自ら字を覚えたがる人がいたら驚かれて止められるのが落ちだ。いつからその慣習が生まれたかは不明だが此岸で字を扱えるのは特権ともいえる。
 文字を正しく扱える存在は異端であり、世界を変えることもできる。受ける側にとっては暴威である権利を行使する絶対の理不尽。
「ファレンさんはどうしてそんなことを知ってるんですか。誰も見たことがないのでしょう? 人の体を字が侵食していく様子なんて」
「聞きたいか。知りたいか。そうかそうか」
 嬉しそうにファレンは笑った。豊かな胸に五指をあてて堂々と言い放つ。
「俺が物語だから」
 理解が及ばなかった。最初はファレンのことを認識できなかったが、いまは由為たちと変わらない姿かたちをした人にしか見えない。変わっているとしたら少しだけ空想を捨てきれない女性なのかな、と思ったことが伝わったらしく、さらに笑われる。
「俺が物語なのに人らしく成立しているのは、貴海があらゆるものを読み解き現世に記せるものだから。貴海が俺を人の形に閉じ込めてくれた。故に、俺たちだけは彼岸の秘密を知っている」
 率直な答えすぎてわかりにくかった。
 物語とはなにか、貴海さんの名前がどうして出てきたのか、聞いても答えはわかりにくいままだろう。だったら自分で解釈をするしかない。
 ファレンさんは人ではないなにかで貴海さんは読み書き以上のことができるというところまでは察せられた。新たに出てきたのは彼岸の秘密という言葉だ。先ほどの書館を含めて、この地には此岸のままでいたらわからないものが隠匿されている。無遠慮に暴きたてることはしたくないが、いままでと違う景色を見るために彼岸に来た。
 謎があるなら明かすだけだ。
「いい目をしているな。澱みを目にしてなお腐らない光。俺たちが求めていた、素質かな」
「ファレンさんの目も独特ですよね」
「人じゃないからな。由為」
 名前を呼ばれて背筋が伸びる。目の前にいるファレンからは濡れた花弁のひそやかな薫りがしていた。不可思議な魅力に包まれている。
「大切な役割をその手に授けられる少年。幸多からんことを」
 そうしてファレンは由為の部屋から出ていった。
 気が付けば由為は一人でベッドに腰かけている。ノックの音の後に七日が入ってきて眉をひそめられた。
「何かあったの」
「あったような、なかったような。ここにファレンさんという人はいる?」
「いるよ。ここにしかいられない、ファレンお姉ちゃんは一人だけ」
 どうやら出会ったのは幻などではなかったらしい。由為は安心しつつベッドから立ち上がった。七日は「夕食はできてるから」と言葉を残して部屋を出ていく。由為も続いた。



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