Memome

同人誌の、葛藤についてもエッセイにできたらなあと思います。
SNSの、当時は自分しか知っている人がいなかった作品を全く知らない人たちが題材にして書いている。
それに、嬉しさや共感よりも狭さや息苦しさを覚える自分でいたいとも思います。
どうして、かは。
「繋がり」というものに惑わされたくないためでしょう。
やっぱり、一番は自分の絵が好きになれるかどうかかもしれませんね。
気合の入った絵は思い入れが生まれますが、好きで例えるのなら、自分の絵はラフの段階が一番好きです。
感情が滲んでいて。
てきぱき進めることも大事ですが、「今日は徹底的にだめになろう」と決めてゆっくりすることも大事なのです。
いくら相手が変わらないとはいえ、自分の良いところを変える必要はないんだよ、ということを伝えたいです。
一人称で書くことが苦手なのは、作品の情報管理に繋がるのですよね。
おそらく。
短編でしたら、書くこともあるので。
ふと、思いました。
これから変化する物語を歩むキャラクターなのか。それともキャラクター自体がすでに物語として完結しているかによって、大分キャラクターの設定や説明は変わりますね。
うーん。要思考。
短編小説でみっしりと内容を詰めて書くことも場合によってはありますが、その密度を長編小説でも途切れなく保てるかというと、また別のお話になってしまいます。
書き始めは密度があるのに、後半に行くにつれてシーソーみたいに持ち上がってしまうと、それもまた違和感。
長編小説で大切なのは、軽重のバランスなのかしら。
などと、いま創作長編小説を書きながら考えてしまいます。