夕方に、サレトナを見つけたのは偶然だった。
クレズニはレクィエの口利きもあり、一時であるがアルスでの就労先を見つけられた。夏にはロストウェルスに戻る気ではある。しかし、それまではアルスでサレトナを見守っていたい。
そのためには先立つものが必要であった。住居であり、物資であり、貨幣である。挙げたものを得るためには働かなくてはならない。クレズニはとうに学舎から離れている。
そして、クレズニは仕事のために英断商路から住宅街を通り、さらに黄昏通りに入ったところでサレトナを見かけた。いつもはカクヤ、タトエ、それにフィリッシュという少年少女たちと行動を共にしているというのに、いまは一人でうつむいて歩いている。
思わず、声をかけていた。だが、サレトナは歩いたままでいる。立ち止まる気配はない。
クレズニはサレトナの歩く後を追いかけた。
「サレトナ。どうかしたのですね」
「どうかしていないから。決めつけないで」
はっきりと言い切られる。そういうときのサレトナは強がっているだけだということを、長い付き合いからクレズニは知っている。十七年間は同じ揺り籠で育てられてきた。外から見えないサレトナの表情も、心境も理解できる。
いつのまにか周囲に人が少なくなっている。サレトナも、宿街ではなくて南にある学校に近づいていることに気付いたのか、方向を変える。その後をさらにクレズニは続いていく。
雑踏と呼ぶには静寂の割合が多い。それが黄昏通りだ。英断商路での華やかさとは異なり、黄色い布が壁に張られているか、巻かれている。夜が近づくにつれて確かに通り過ぎる人、もしくは精霊族、獣人といった存在が朧になっていった。
「彼は誰だ」と問いかけても答えられるものがいない。
クレズニやサレトナも同様なのかもしれなかった。二人はこの都市において、異端の存在である。いまここで息絶えても一部を除いたら、自分たちを証明できる存在はいない。
それが、狙いか。
クレズニは一瞬だけよぎった不躾な考えを、頭を振らずにサレトナを見つめて、やり過ごした。ロストウェルスの血族が身内の不幸を祈っているとは考えたくはない。仮にも、神職を務めるものであり領主である。
とはいえど、クレズニの頭に一人の壮年が浮かぶ。父であるコウクンとは利害関係にあるだけで、本質は全てがどうなっても構わなさそうな酷薄さを抱えている人だ。
その人がクレズニに自由を与えてくれた。
ロストウェルスで飼われて終わるはずだった、クレズニに外へ出る機会を与えたのだ。
「兄さん?」
立ち止まったことを訝しんだのかと思い、声をかけようとした。
違うことにはすぐに気付く。
サレトナの前には、一人の青年が立ち塞がっていた。赤々と染まり始めた太陽を背にしているために、翠の髪は不穏に照らされている。
瞳が、碧の瞳が妖しくきらめいた。
「帰りが遅いんで、文句を言われたよ。あんまり、お兄ちゃんを困らせたら駄目だろ。サレトナ・ロストウェルス」
「私のせいじゃないわ。兄さんが勝手に考えすぎて困っているだけよ」
レクィエは笑う。面白くのない冗談を聞かされた声だった。
眉をひそめたサレトナが通り過ぎようとしたところで、レクィエが前を遮る。クレズニはレクィエの隣に歩いていった。
後に、どうしてサレトナの隣に並ばなかったのかと後悔することになるとは、まだ知らない。
「でもさ、ここまで来ても。あんたはロストウェルスから逃れられていないだろ」
「そんなこと、ないわ」
サレトナは気丈に言い返す。レクィエはそれすらも楽しそうだった。生まれたての兎がまな板に転がされているのを見つけた大きな猫のようだ。
「そんなことあるだろ。結局、クレズニがここにいるんだから」
いきなり、自分が引き合いに出されて巻き込まれる。クレズニは困惑した。
レクィエとの出会いはあの男性が絡んでいる。本当に、あの人は何かしでかすつもりなのだろうか。アルスで問題を起こしたら、ロストウェルスとの関係が悪化する。彼は、そのような軽率なことをする人間ではないはずだ。
同時にレクィエにも初めて、違和感を覚える。最初は皮肉じみたことを言うところはあるが、同僚や上司の覚えも良くて友好的だったために、悪い人間ではないと判断していた。
しかし、いまは明らかに嗜虐性を滲ませている。
「クレズニはあんたが心配でこんなところまでやってきて、慣れない生活を送っている。あんたも同じだ。自由気ままに、セイジュリオで学生なんてするつもりはない。対価として渡されたつかの間の享楽を味わっているだけだ。いざ、という時がきたら。民のために遠慮なく命を賭してくれる女だよ」
「レクィエ」
クレズニは制止のために声をかける。通用しなかった。
レクィエは首をかしげて笑っている。そうして、首を断つ鎌を残酷に下ろした。
「あんたは生贄になるためにここにきた。いつか、俺たちのために。アルスのために、ロストウェルスのために。ありがたい犠牲になってくれ」
口調は柔和といって差し支えがない。紡いだ言葉の乱暴さが空に消えて打ち消されるほどだ。
サレトナは呆然としていたが、一転して厳しい視線を向ける。
視線を受けるレクィエは穏やかに微笑んでいた。針の視線を向けられても欠片も痛痒を感じていないようだ。クレズニが口を開きかける。
「やあ!」
快晴のごとく、清々しい声が響いた。
レクィエの後ろに視線を向けると、容姿端麗の青年がいる。初めて見る、万年雪のような少年だった。
その隣をカクヤが駆けてくる。サレトナを庇うようにして前に立ち、振り向いた。
「どうしたんだ」
「……なんでもないわ」
言いながらも、サレトナはカクヤの制服をつかむ。縋られるのが自分でないことに、一瞬の寂しさをクレズニは覚えた。
「そうさ、カクヤ。なんでもない」
レクィエの言葉の後に、カクヤはクレズニに鋭い視線を向けてくる。本当に何もなかったのかと、問う瞳だ。
クレズニは二人の意思を尊重して、何事もなかったことに同意した。
胸にわだかまる感情はある。だが、救われた思いもしていた。
カクヤは心からサレトナの心配をしてくれている。サレトナのことを気遣う存在が、自分以外にもいたことに安堵した。
これまではカクヤのことを得体の知れない存在としてみていたが、もう少しは信用しても良いのだろう。自分がサレトナの傍にいられない間も、守ってくれる存在としてサレトナを任せられると、いま初めて確信した。
三つ巴が作られている均衡を崩したのは、サレトナだった。カクヤの制服の裾から手を放して、歩き出す。
クレズニもレクィエも追いかけなかった。美しい青年もまた、同様だ。遠ざかる寄り添わない二人を見送っていった。
「さて、クレズニ。仕事は大丈夫か?」
言われてから思い出す。自分は職場に戻る途中だった。とはいえど、クレズニは職場に向かう前に、レクィエに言わなくてはいけないことがある。
「サレトナにひどいことを言いましたね」
「あのお嬢ちゃんには思うところを伝えただけさ。どいつもこいつも、甘やかすだろ? 俺くらいは突き放さないと割に合わない」
その発言は、あえて憎まれ役を買って出てくれたということなのだろう。
いまのところサレトナの環境には良心と善意が満ちている。喜ばしいことだが、それだけで世界は成立しない。
「サレトナに厳しくするというのなら、それは私の役目です」
抗議しても、レクィエは和やかに頷くだけだった。
そして、青年が自分たちのやりとりを眺めていることにクレズニは気付く。カクヤと共に来たというのに、共にこの場を去らなかった。
「あの。貴方は」
「僕はセキヤ・トライセル。君はクレズニ・ロストウェルスだろう?」
とある話を聞きたい、と言われる。
紫の瞳は、赤橙に染まった世界の中だというのに、一層鮮やかに輝いていた。
クレズニは背筋を伸ばす。
本能が囁くのは相手の内に潜む底知れない脅威だ。
>第四章第十二話