サレトナが、振り向く。
「どうしたの?」
「いや。なんで休日にセイジュリオ?」
セイジュリオの校門にいる警備員に話しかけて、手続きをすませて鍵を借りたと思えば、サレトナが入っていったのは紛れもなく自分たちの所属しているセイジュリオだ。
デート、ではないが二人きりの外出だというのに、向かう場所がセイジュリオというのはどういうことなのだろう。
サレトナは西棟へ進んでいく。その隣をカクヤも並んでついていった。
休日のセイジュリオだが、校庭では運動系のアクトコンが活動している様子が見受けられる。
サレトナは階段を上がっていく。四階まで昇るのはカクヤは初めてだ。
「スタジオを借りるためにセイジュリオに来たのよ。カクヤも、広場で大勢の前で歌いたいわけじゃないでしょう?」
カクヤはいまだサレトナの言いたいことがつかめない。
イノコードで楽譜を買っていたことから、音楽が今日の主題なのかも知れないが、その点にカクヤの歌がどのように関わってくるのだろう。それに、スタジオが借りられなかったら、広場で歌う羽目になっていたのだろうか。
サレトナはスタジオの鍵を開ける。カクヤはゆっくりと重い扉を押して、内側へと開いていく。
「よく来たな!」
聞き覚えのある声を聞いた。
「どうして、セキヤ先輩がここに!?」
目の前には、スタジオの照明に照らされて銀糸をきらめかせる、セキヤが木製の椅子に座ってふんぞり返っていた。
「先輩、今日はお付き合いくださり、ありがとうございます」
「構わんよ。ただし、相応の面白いものを見せてくれないとな。僕がすぐに帰ってしまうぞ?」
カクヤの疑問はなかったことにされた。
サレトナはセキヤに頭を下げて、セキヤは鷹揚に受け入れている。
いまだ立ち尽くすカクヤの前で、サレトナはキーボードの準備を始めた。空間接続という、音を鳴らすための調整をしながら、音程を確かめている。
セキヤは未だ足と腕を組んで堂々と座ったままだ。
サレトナはキーボードが鳴ることを確かめると、二歩前にスタンドマイクを設置する。さらに前へ、楽譜台を置くと先ほど買った楽譜を開いた。
「さ。カクヤ。歌いましょう」
「と、言われましても。何を」
いきなり歌唱の準備をされても心の準備ができていない。二人きりでの外出、からセイジュリオに来て、その場に第三者が加わることすら予想していなかったというのに、歌えと言われても難しい。
サレトナはカクヤの動揺など気にせずに、腰に手を当ててお冠の様子だった。
「この曲なら歌えるといったじゃない」
「いや、歌えるけど」
その後に続く抵抗の言葉は、一瞬にして霧散することになる。
「カクヤは歌が好きじゃなかったの?」
挑発ではない。ただの事実の確認だ。
サレトナの問いかける言葉に、縋る響きがあったために、カクヤは素直になることができた。
そうだ。自分は、歌が。
「好きだよ」
一つのやりとりで覚悟は決まり、カクヤはサレトナの用意したマイクスタンドの前に立つ。マイクの位置を調整しながら、おぼろげながらに理解し始めていた。
サレトナは自分の猫を剥がそうとしている。自分もまだ、自覚していない窮屈な着ぐるみがあることを、せめて気付いて欲しいと願っている。
だったら、歌うしかない。自分が最も愛する行為に誠実に取り組むしかなかった。
サレトナがキーボードを弾く。軽やかだが、哀しい旋律から曲は始まる。
カクヤは振り向かずに、唄い始めた。
届け。
九番目の音階は存在しないはずの旋律
踏み台にして月へ跳べ
十の音を掴み取れ
ウート・レミ・ファ・ソラ・スィ
音律に統一された楽園の遺跡
砂塵の海 灼熱の風 清玄の岩 混沌の炎
全て久しく暗夜へと
眩いものは遠き講和
千の首級を挙げし者へ捧げられた賛嘆
それを貴方は栄光とうたった?
叫びは赤い血と共に
嘆きは白い爪と共に
刻まれたのはただ一つの抵抗
時はすでに訪れた
孤城の月へ舞い上がれ
一番目を終えた時点で、サレトナの演奏が止まる。上から下に鍵盤を鳴らして、止んだ。
カクヤもつかんでいたマイクから手を放して、顔を上げる。
ぱち、ぱちと規則正しく手を叩くのはセキヤだった。普段の精悍な笑みではなく、柔らかな微笑みを浮かべて、礼賛する。
「やるじゃないか、カクヤ」
「ありがとうございます。でも、サレトナとはどういう繋がりなんですか?」
気になっていたことを尋ねると拍手は止まり、胸を張られた。
「僕のアクトコンのかわいい後輩だ」
「憧れの先輩よ」
あの、奇人仮面として登場する以前からサレトナはセキヤと出会っていたようだ。だから、セキヤが乱入してきたときも、驚きはしても動揺しなかったのかと納得する。
その後もサレトナは演奏のアクトコンに加入して、セキヤと交流を深めていったようだ。だとしても、後輩の頼みを聞いて休日に足労までしてくれるとは、セキヤの面倒見は良いのだろう。あまり意外ではなかった。
セキヤは自身の強さを誇りにしているが、振りかざして周囲を威圧させることはしない。その姿勢は何事に対しても同様なのだろう。
セキヤは椅子から立ち上がる。何をするのかと思えば、壁に立てかけていたケースからベースを取り出す。そして、演奏の準備を始めていた。
軽く弦を鳴らしながらカクヤに微笑みかける。
「刀を握っている時よりも、いい顔をして、良い歌を唄うんだな」
優しい声だった。これまでの語気の強さが拭われたように消えている。
「見直したよ。君にも、譲れないものがあると知れてよかった」
そこまで話してから、セキヤは演奏を始める。ベースを低く鳴らし、全体を支えていく。サレトナもキーボードをセキヤのベースに合わせて鳴らす。鍵盤を叩き、徐々にリズムが整っていくのを感じた。
二つの楽器に耳を傾けていくと、何の曲を演奏しようとしているのかが伝わってくる。
カクヤもマイクを構えた。
ばらばらであった楽器が、声が、一つの流れに吸い込まれていく。
奏でられるのは、音楽だ。シルスリクに生きている者ならば、一度は聞いたことのある曲が始まった。
名前は「切り取られた瞳」という。