沈黙の楽器亭で、一人、本を読んでいるタトエは不満だった。
不満ではあったが、いつまでも表に出しているわけにもいかない。
だから、支度を終えて沈黙の楽器亭を出て行くカクヤとサレトナを笑顔で見送った。後で、サレトナからは今日の話を聞かせることを約束させることも忘れずにいた。
カクヤとサレトナの二人はアルスで縁が結ばれた最初の友人になる。その二人が、サレトナの誘いによって出かけるというのに一抹の秘密を感じないはずがない。友人とはいえ、何もかも開示する必要はないことも承知している。それでも、二人の間で揺らいでいる仄かな恋情を見通した身としては、今回のデートによって発展するだろう関係性を気にせずにはいられなかった。
それでも出歯亀をしなかったのは、二人からの信頼を失いたくなかったためだ。これからも仲の良い友人でいたい。だから、タトエはカクヤとサレトナを心で見守ることにした。
ソレシカも別の友人と出かける用事があると出ていったので、沈黙の楽器亭にはタトエだけになる。だから、ラウンジで本を読んでいた。日が差し込んで心地が良い。
頁を一枚めくるごとに心を落ち着かせていると、宿の鐘が鳴った。誰かが入ってくる。
タトエは顔を上げた。
一人の、少女がいた。
青い色の髪を首筋半ばで切り揃えている。顔立ちは一瞬だけ見えたが、柔和というよりも厳格だ。気品も感じられた。背中から察するに、タトエよりも少しだけ若い。
「すみません。こちらにカクヤ・アラタメという人はいませんか?」
「お答えできません」
獣人の業務員、サスレが答えると少女は落ち着いて頷いた。
「わかりました。失礼しました」
タトエは眉を寄せる。
少女はカクヤに、用事があるのかもしれない。だとしても単身で尋ねてくるとは、ただならぬ気配を感じてしまう。
受付から離れていくと、ラウンジに近づいて、タトエの後ろのソファに少女は手を預けてきた。
唐突な接近に、タトエは身構えてしまう。
「ねえ。いま、カクヤは誰かと一緒にいるでしょう?」
「答えにくいんだけど」
受付が答えられなかったことを自分が言うわけにもいかない。
少女は楽しそうに微笑んでいる。それなのに、感じる印象は無邪気よりも冷徹さだった。
「大丈夫。ただの最終確認だから、あなたの責任にはならないわ」
カクヤが沈黙の楽器亭にいることは確信している。少女は暗にそう告げていた。
まだタトエは黙る。少女の瞳は青色をしていた。髪と同じ色だ。
「あの、あなたのお名前は?」
「名乗るほどの者ではないわ」
どこかの英雄を気取って言われる。だが、不思議と嫌みではなかった。
「でも、そうね。強いて言うのなら、カクヤが世界で一番会いたくのない女が、私よ」
それだけだった。
簡潔に言い切って、少女はソファから手を放すと振り向きもしないで去っていく。
タトエはその背中を見送りながら、胸の内にざわめくものを覚えていた。決して、自分はカクヤとサレトナのことを応援しているというのに、強烈なライバルが登場することに動揺を覚えたわけではない。
あの少女の存在自体に謎めいた不吉を覚えてしまった。
先ほどのことは悪い夢を見たのだと思いたい。
少なくとも、あの少女が訪れたことをカクヤには伝えたくなかった。
>第四章第十七話