猫の尊厳

 授業の終わりを告げるチャイムはいつも間抜けだ。
 間延びして響く重い音を聞きながら、羽崎珠利はシャープペンシルを筆箱にしまった。教師はもうすぐ試験だということを繰り返してから教室から出て行く。一週間後に迫った試験を考えるとげんなりしてしまうが、気持ちを切り替えるために正面の壁にかかった時計を見上げた。
 十五時十五分。これで今日の授業は終わりだ。ようやく一日の解放区となる。また明日は来るけれどもそれまでは何をするのも自由だ。
 珠利はリュックサックを背負って教室を出て行き、職員室に寄って出し忘れた漢字ノートを提出しに行く。担当の教師はいた。
「羽崎は忘れ物が多いなあ」
「人生に必要な物を抱えすぎていまして。たまに一瞬の荷物を忘れてしまうんです」
 真面目な顔でいうと呆れた顔をされた。
 職員室に背を向けて、昇降口を出ていく。
 バス停や駅に向かう生徒たちがぱらぱらと散らばったチャーハンみたいに歩いて行く中に混じっていった。これで珠利も中華鍋の中の一粒の米だ。
 そのことに羽崎珠利という存在が薄れていく不安と、集団の中の一つでしかない安心感を同時に覚えてしまう。自分のことは認めて欲しいけれど、かといってスポットライトの当たる舞台に一人で立っているのを見られるような注目の集め方はしたくない。ほどよく普通でいられたら、それで満足だ。
 友人の中には、もっと自分を見てと訴えてくる子もいるけれど、その欲求が珠利には怖い。自分が見られるということは評価されることだから。そしてその評価というものに値するほど立派な人間ではないことなんて自分が一番わきまえている。この年で何を自虐的なと言われても、特別なものなんて何も手にしていない。
 つまらなくとも。情けなくとも。
 それが現代を生きる女子高生が感じている諦め、といったものだ。たまに輝いている子もいるにはいるが、それはそれで光っているだけ影によって苦しむこともあるのだろう。
 だったら普通でいられたら、それでいいんだ。
 夢も希望もないことを考えながら歩いていく。
「たま-」
 聞き覚えのない声だったが、思わず振り向いた。
 しかし、呼ばれたのはやっぱり珠利ではなかった。目の前を首輪をつけていないが飼い猫でも野良猫でもなさそうな、三毛猫が駆けていく。
 それを見送った。
 いいなあ、猫は自由で。
 そんなことも考えながら。
 走る猫には珠利が抱える在り方の悩みなんて欠片もなさそうで、さらに名前をきちんと呼んでくれる人がいた。その、猫という在り方がうらやましかった。
「羽崎? なに立ち止まってるの?」
 後ろから声がかけられる。振り向くと、友人の岬深角がいた。
「みかど。いや」
「あ、たまって呼ばれたから自分のことだと思ったんだ。そのあだ名、懐かしいね」
 緩やかに事実を推測してきた。それが正解だから何も言えずに珠利は深角が並ぶのを待って、歩き出す。
 珠利は名前に「珠」という字があるためか、一時期のあだなが「たま」であったり「たまちゃん」であったりした。だからつい、定番の猫の名前に反応してしまう癖がある。
 いまの友人たちは名字で呼ぶことが多いため油断していた。
 駅まで続く住宅街を歩きながら、猫を見たのは久しぶりだということを思い出す。昔はこのあたりにも、頻繁ではないけれど走り去る猫を見かけることができた。たまにごろんとアスファルトに横になっているのに近づいて逃げられることも経験している。それらは首輪なんて付けていなかった気が、するので野良猫だったのだろう。
 縛られずに過酷に生きながらも、自由である野良猫。それは可愛くてたくましい。
「のら猫って響きがいいよね」
 珠利がつい口に出すと深角は疑問を抱かずに乗ってくれる。
「のら、ってなんだか発音すると鼻の奥から楽しい気分になる。でも、大変だよ」
「なにが?」
「こんなゴミ出し一つうるさい街になって、まあ、だから街が綺麗ではあるんだけど。そんなところで食べ残しのえさなんて見つけられないし、そうなると猫もばったんじゃない」
 言われてみると確かにそうだ。
 猫の表側しか珠利は知らないから、街が綺麗になって出されるごみのルールが取り締まれるごとに、野良猫の生きる余裕が消えていくなんてことを考えなかった。
 そうなっていくと、飼われていない猫はどう生きていけばいいんだろう。保護猫や地域猫、といった言葉は聞いたことがあるけれど珠利の生活では身近にない。この街にもいるのだろうけれど、知らない。
「まあ、猫も安全をたしなむ必要はあるんだろうねえ。もう野良ではいられないってことだよ」
 しみじみと言う深角の言葉に納得はする。
「でもさ。もっと自由に生きたい猫の『あるがまま』はどこまで守れるんだろうね。飼われないとか、自由に散歩するとか」
「うーん。『あるがまま』として生きることを許せる世界か。心の広さか。それって、私たちの方が重大な課題になっていそう」
「どうして?」
「だって猫は猫だもん。人がこうしろああしろと言ったって、するりとその枠から抜け出して、猫の都合で生きていくよ。私たちが猫のあり方を勝手に考えているだけで、猫はなーんにも気にしない。頭がいいわるいとかじゃなくて、猫は猫だもの」
 猫でもないのに深角はふんわりと断言する。
 そうだとしたら、猫の人の目も圧力も気にしない生き方はいいなあと珠利はまた思ってしまうのだった。




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