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衛ときさらの様子を見にいく前に由為は花園へ足を向けた。青い花園と白い花園のあいだにある赤銅色のベンチに腰を下ろす。昼を過ぎた空は徐々に薄暗さを増していき、花の匂いも疎ましいほどに可憐だった。吸い込むとなにもかもがどうでもよくなり、吐き出すとそれではいけないと思い返す。
貴海に今回の真意と字の秘密を聞いて衛ときさらにも相談をする。ファレンとは特にすることはないだろうが。
七日。
尻尾の形に結んだ髪をなびかせて振り向く少女の姿が由為の頭に浮かぶ。笑顔をほとんど見たことがない、自分よりもちょっとだけ背が高いひとつ年下の女の子。
七日は今回のことに関わっているのだろうか。
関わっていないにしても、どうして此岸を憎むのだろうか。
由為は現状の複雑さに耐えきれず息を吐く。ベンチにもたれかかった。金属でできているらしいベンチは由為がだらけることを許さない。
「おなか空かないの」
「すいてないなあ」
「そう」
言って、七日は由為の隣に座った。手にはバスケットを持っている。中を開けると調理された花が入っていた。
「貴海先輩が食べられるならって」
「ありがとう」
言いながらも手は伸びなかった。信頼を無くしたわけではない。信用をしたわけでもない。ただ、いまは食べられない。
「……由為さんでも落ち込むんだね」
「そりゃあ人だから」
「私はね、生まれてから七日目に彼岸へ捨てられたの」
由為は言葉を失った。
急な告白に起き上がって七日を凝視するが振り向かれない。七日は風に揺らされる花を見つめながら、膝の上に肘をついて両頬を手で包みながら話していく。
「どうして捨てられたかは分からない。貴海先輩は託されたと言うけれど、私からしてみればそんなことない。意味ない。此岸ではいられないから、いらないから都合良く彼岸に押しつけたとしか考えられないくらいに。それでも彼岸の人は優しいから、私は彼岸を好きになった」
言葉を切ってから由為を見つめて、七日は言った。
「私を捨てた理由なんて何一つ分からないから、此岸は嫌いだったの」
捨てられる。いらないと、切り離される。
七日は望んで生まれたはずなのに、七日のことを望んだ人は七日で抱きしめることを諦めた。理由はあるのだろう。きっと、どうしようもない理由が。だけど捨てられた七日にはそんな理由などどうでもいいはずだ。七日にとっては此岸に拒まれて彼岸で愛されたのが事実なのだから。
由為は最初の自分が恥ずかしくなる。悲劇を知らずに七日を哀れんだ。ばかなのは、自分だ。
「でもね、何もしなかったわけじゃないんだ。二年前に私は一人で此岸へ行ったの。舟の人に頼んで」
話が続いていく。時折通る風がバスケットに挟まれているであろう花からしょっぱみのある調味料の匂いをさせた。少しばかり食欲はそそられるがいま大事なのは七日の話だった。
「結果は最悪だったよ。此岸の高い時計の下にあるベンチにこうして座っていたんだ。でも、誰も話しかけはしなかった。私なんていないみたいに此岸の人は自分の行くべき場所へ向かっていっただけ」
徐々に日が暮れて、青が消えていき七日の心と同じく、黒く塗りつぶされた空の下のことだ。
「貴海お兄ちゃんが迎えに来てくれた。私は、お兄ちゃんの手をつかみながらずっと泣いていたんだよ」
泣きじゃくる十二歳の七日の涙が由為の頬に触れた。冷たくて、頬を裂いて、傷口にしみていく。そんな涙だった。
私はいらない子なの。
それはない。
でも私はすてられた!
「貴海お兄ちゃんは立ち止まって、視線を合わせながら言ってくれたから。七日は託された。でもそんなことは気にしなくていい。俺もファレンも七日が幸せでいてくれたらそれでいいから。おしまい」
七日の手がバスケットにむかっていく。赤い花が挟まれたものを小さくかじりとった。由為も青い花に食らいつく。ささくれ立ちながら、困惑しながらでも花は美味しかった。
「由為君が貴海先輩に幻滅したのは分かる。そういうの得意な人だから」
「幻滅させるのが?」
七日は目を閉じて深くうなずいた。次に浮かんだ微笑には呆れと、それ以上に親愛があって由為の手が止まる。
「誤解させたり、幻滅させたり。そればかりなのに貴海先輩は言い訳しない。どうしてだと思う?」
「したことは、消えないから。だから言い訳しない」
「それもあるだろうね。でも、もう一つ大きな理由があるの。貴海先輩はすごく目がいいの、知ってる?」
由為が思い出すのは悶えの感情の発端になる談話室でのことだ。きさらが言っていた。「貴海はすごく目がいい」と七日からきいたことがあると。
七日は立ち上がった。バスケットを残したままなのは由為が食べるようにとの計らいだろう。そのまま立ち去るはずの背中は、緩やかに揺れる花園を背にして、七日は由為を見下ろす。
「目がいい代わりに耳と舌から入る情報の整理が苦手なの。だから、誤解させたり幻滅させたり。たまにおかしな答えを返してくる。本当は料理とかもできないくらい」
「そんなの……言ってくれれば!」
「『欠損があると言っても自分の業だ』」
その言葉を口にした七日は七日ではなかった。背後には貴海の影が揺らめく。孤独で、高潔で、寂しい黒が塗り込められていた。
「由為……くん。貴海お兄ちゃんはすごく真面目で、ファレンお姉ちゃんを守るためだけにいままで生きてきたの。私たちはそれを知っている。だから、いままで何も言えなかった。でも此岸から由為君が来たのは何か変わるきっかけかもしれないから。お願いします」
七日が頭を下げるときに結われた髪がふわりと揺れた。深く頭を下げたてから振り向かずに去って行く。
消えていく背中を呆然と見送った後に、由為はバスケットの中に残された二つの花を食べた。底には一枚の紙片がある。読んでから握り潰した。
「すまなかったじゃないだろう」
生まれて初めて見る綺麗に書かれた謝罪の言葉に由為はうなだれた。
それしかできなかった。
衛は緊張していた。
貴海の手当を最初から最後まで見守ることはできたが、きさらの無事は確認できていない。何もできなかった自分を不甲斐なく責めながらきさらの部屋の前にいると、七日が通りがかった。衛は固まる。一瞬、とろけるような匂いが鼻をかすめた。
「入らないの? 衛先輩」
「あ。入る」
するりと返事をしてしまった。七日はためらいなく扉を叩いて部屋にいるだろうきさらに呼びかけた。すぐにきさらの声がする。
「入って大丈夫だって」
「ありがとう……」
木製の扉を開いてから七日が先に入っていき、衛もその後に続いた。気分は気まずい。何もできなかった自分が情けなくて謝罪したいくらいだが、それはただの自己満足でしかない。謝られるきさらも迷惑だろう。悶々としたまま顔を上げた。
「ごめんなさいね。こんな姿で」
「いえ!」
衛はとっさに答えた。きさらが髪を下ろした姿を見るのは初めてで、緊張のためから声がこぼれてしまいそうになる。普段はきちんとした印象が強いが、薄紅の髪を下ろしたきさらの姿は触れられないほど脆そうだった。簡単に崩れてしまう砂の城は寝台というシーツの海に建てられている。
お見舞いです、と言いながら七日は甘く煮られた白い花の瓶を持ってきていた。きさらの寝台の近くにあるテーブルに置く。衛だけではなく、きさらも驚いているようだ。
七日はあまり衛やきさらに親しくなかった。貴海ほど淡泊ではなく、ファレンほど快活でもなく、うっすらと敵意を滲ませていた。
いまはそれがない。なくなると、普通の相手との意思疎通を考える女の子だ。
二人が驚いているあいだに七日は尋ねる。
「きさら先輩は何を見たんですか?」
「私が、みたもの。貴海さんが変えたカードのことかしら」
「はい。衛先輩はきさら先輩の無事とそのことが気になってしかたないみたいですよ」
そこまで言わなくてもいいではないか。
衛は恥ずかしくなりつつもうなずいた。きさらが心配だった気持ちに偽りはなく、真実だ。何を見たかだけではなくてきさら自身を心配していた。
恥ずかしがる衛を見つめるきさらも驚いていた。七日が持ってきた花の瓶を手にして線をゆっくりと撫でながら、微笑む。
「わけの、わからないものだったの」
衛と七日の表情が同時に厳しくなった。
「甘くみないで、なんていいながら貴海さんを甘く見ていたのは私みたいね。貴海さんが作り出したあのカードは言うなら。字が、違った。意味じゃないの。私たちの理解している字とは根本が違うの」
きさらは近くのテーブルの引き出しから筆記用具を取り出した。紙の上にペンを置いて線を引く。衛は紙を手に取った。
読めなかった。
「私も意味はわからない。形をなんとか捉えただけだから」
「失礼します」
七日も紙を手に取り、一瞥するとあっさりと言う。
「カード。ここに書かれているのはそれだけですよ」
「七日さんはこの字を読んで何か思うことはある?」
衛から見たら読めない文字は薄ら寒かった。深淵がひたひたと近づいてくるような、同時に喜悦がゆるゆると笑みだけを残して去って行くような。
理解が及ばない。それでいい。この字を分かってしまったら衛はいまの自分ではなくってしまうから。
「思うことはないけど。この字は、此岸にはもう亡い字。葬られた字ですよ」
「読めるのかい?」
「うん。だから単純に『カード』とだけ」
七日の読み取りから、必要以外の情報を省いて構成される字が葬られた字であるのかと考える。唯一読めたと主張する七日が他の情報を伏せている可能性もあるが、いまの七日がそんなことをする必要があるとは思えない。敵意も悪意も隣にいる少女からは感じられないためだ。
いまはない字をどうして貴海は扱えるのか。疑問は増えていくばかりで収集はつかないが嘆いてばかりではいられない。
貴海は衛には「変革」ができないだろうと言った。変革ができなければ書館に入るのも難しい。不出来なことがあるのに衛を彼岸で採ったということは、衛にしかできない役割が彼岸にある。
いまはそう思うしかなかった。
とん、と扉が叩かれる。きさらが返事をするとゆっくりと開かれていった。
「あ」
しょげながら姿を現したのは由為だ。いつも着ている黄色のパーカーも背を丸めているためかすすけて見える。
落ち込んでいたらしい由為はためらいを見せたあと、はっきりと顔を上げてから口を開いた。
「此岸の字を解く方法を教えてください」
衛ときさらは顔を見合わせてから小さくうなずく。
安心した由為の表情に二人も安堵して、七日は微笑んだ。
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