ルリセイで最も目立つ建築物である「青の階段」を見かけたときに覚えたのは「帰ってきたのか」という懐かしさと、「帰ってきてしまったのか」という緊張だった。
カクヤにとってルリセイは生まれ育った故郷であるはずだというのに、楽しい思い出も両の指で数えられないほどあるというのに、最初に過ぎる記憶が拒絶なのだからどうしようもない。
胸の内にある憂鬱をサレトナやタトエには読み取られないように気をつけながら、ルリセイの停留所を魔車の窓から眺めていた。
半円を描くようにして魔車は停留所に到着する。完全に制止してから、カクヤたちは順に魔車を降りていく。いままで魔車を操縦していた男性と女性の御者も下車していった。魔車は停留所に留め置いて、今日はルリセイで休んでから、アルスまで引き返す予定らしい。
カクヤは御者たちに礼を言って、歩き出す。
停留所からルリセイの街へと続く門のところに、青い髪をした少年が寄りかかって立っていた。
少年の顔はカクヤを見つけると一瞬にして明るいものになる。一気に走り寄って、目の前で急停止した。
「兄ちゃん!」
「ナルカ、久しぶりだな」
自分そっくりだと昔から言われ慣れている、吊られた林檎色の瞳を見開いて、カクヤの弟であるナルカ・アラタメは満面の笑みを見せた。
ナルカはベージュ色のズボンを履いた足で器用に一回転しながら、サレトナとタトエにそれぞれ視線を合わせた。細い腕を白い帽子付きのシャツから真っ直ぐ上に伸ばしている。
「はじめまして! 俺は、ナルカ・アラタメ。カクヤ兄ちゃんの弟です!」
「はじめまして。サレトナ・ロストウェルスといいます」
「タトエ・エルダーだよ。よろしくね」
挨拶をするサレトナとタトエの声は柔和で、双方が悪くのない印象を抱いていることが伝わってきた。
ナルカは先頭に立って歩き出す。カクヤはそのあとに続き、サレトナ、タトエと並んでいった。この場にソレシカがいたらさらに賑やかなことになっていただろう。意外なことに、ソレシカは子どもが好きだ。
ナルカは歩きながら、青と白の街であるルリセイの様々なところに指を差して、紹介をしていく。ヘキサが半円の街ならばルリセイは縦に長い長方形の街だ。住宅街は西側にあり、東側にある停留所からだと街を横断することになる。
「それで、あれがルリセイの」
「うん、うん」
タトエはナルカの言葉一つひとつに相槌を打ってくれた。真摯な態度にナルカはますます機嫌をよくしていく。
「元気な弟さんね」
「ああ。やんちゃすぎるところがあるけどな」
「いくつなの?」
「十一だったかな」
カクヤとサレトナが話をしている間にナルカはタトエと共に先に進んでいた。ゆっくりと歩いていると、ナルカが「はやく!」とせかしてくる。カクヤとサレトナは少しだけ足を速めて、カクヤの家に向かっていった。
その途中だ。
「アラタメ!?」
脇道から出てきた、旧友に声をかけられてカクヤは立ち止まる。サレトナは急に立ち止まったカクヤの背中にぶつかることはなかったらしい。
旧友であるメイテス・ノクジはカクヤに視線をやったまま、ぼけっと立ち塞がっている。カクヤもなんという言葉をかけるか悩んだ。
「久しぶり、だな」
出てきたのは決まり切った挨拶だった。
「あ、ああ。帰ってきてたんだな。言って、くれれば……」
メイテスに対してカクヤは眉を寄せて笑みを浮かべる。複雑としか例えられない表情にメイテスは続く言葉を呑み込んだようだった。がしり、と頭を掻いてから言う。
「ギーデンノーグさんには、言ってもいいか? お前が帰ってきたこと」
「いいよ」
カクヤの答えが予想外だったのか、メイテスは目を丸くする。そのあとに哀れむような視線を向けてから、メイテスとは手を上げて別れを告げた。
そのあいだ、サレトナは何も言わなかった。カクヤを見上げてくる。
言いたいことは伝わってくるが無闇に心配させるわけにはいかないので、カクヤは微笑するに留めた。
再び、カクヤの家に向かって歩き出す。
その道中でも声をかけられることや遠巻きに囁かれることがあって、相変わらず自身は距離を計りかねられているのだと自覚せずにはいられなかった。仕方がないことだ。平凡であった街にかつてないほどの動揺をもたらしたのは、他ならぬ自分なのだから。
だけれど、その騒ぎにサレトナやタトエが巻き込まれることはあってはならない。
カクヤは真っ直ぐに自身の家まで進んでいく。タトエと共に前を歩くナルカも遠近問わず向けられる戸惑いに全て反応するほどではなくなっていた。カクヤがルリセイにいた頃は、万事喧嘩腰になっていたものだが、成長したのかそれとも慣れたのか。もしくは、カクヤがいなくなったことによってナルカにまで悪意を向けられることが減ったのだったらよい。
「ただいま!」
ナルカが扉を開け放す。カクヤよりも先に家へ入ることにタトエは考えたようだが、ナルカに引っ張り込まれて入っていった。カクヤとサレトナも続いていく。
「ああ、おかえり」
「おかえりなさい」
出迎えてくれたのはカクヤとナルカの父母である、ユエニ・アラタメとクシク・アラタメだった。カクヤとナルカにそっくり遺伝された青い髪と赤い瞳は父のもので、母は黒い髪に青い目をしている。着ているものは夏らしい麻のシャツとズボン、それにクシクは薄紫のワンピースだった。
困惑した感情を向けられないことに安堵したのか、ルリセイに到着してから抱いていた緊張がわずかに緩む。
ユエニはサレトナとタトエに向かって立ち上がり、手を差しだした。タトエが先にユエニの手を握って挨拶をする。サレトナもタトエに続いた。クシクはその様子を微笑みながら眺めている。
今日はサレトナもタトエもカクヤの家でに泊まることになっていた。ルリセイにはアルスほど設備の整った宿泊施設はない。外部から訪れた者のための共同宿舎と呼ばれる施設はあるが、二人を置いて枕を高くして眠れるほど安全な場所とは言いがたかった。夜のあいだに事件が起こらないとは言い切れない。それほど簡素な眠るためだけの施設だ。
カクヤとユエニ、クシクが話を進める中、ナルカはアラタメの家に初めての宿泊客が現れたことに興奮を隠さない。血族でいうのならば、父方の叔父がたまに訪れていたが、年の近い相手はいままでなかった。
ナルカは話を聞くことに飽きてきたのか、タトエの服の袖を引っ張る。
「なーなー。そんな話より、遊びたい」
「悪い。こっちも疲れてるから」
カクヤは話を切り上げようとする。その前にタトエが言い出した。
「だったら、僕と遊ぼうよ。ナルカ君は何がしたいの」
「カードゲーム!」
ナルカは即座に答えると、たっと自室へ走り出した。カクヤが「悪い」と視線で謝り、タトエが首を横に振ったところでナルカが戻ってくる。手には二揃いのカードを持っていた。
タトエはナルカに引っ張られて、玄関から続くダイニングの奥にあるリビングでカードゲームの説明を受ける。以前はカクヤが相手をしていたものだ。未だ、ナルカにとっては楽しいもののようだった。
四ヶ月もあれば変わることは多いだろうが、案外、そうでもないのだろう。
カクヤがしみじみとしていると、ユエニはサレトナをテーブルに案内していた。サレトナはユエニの斜め向かいに着いた。
「カクヤ。それで、部屋のことだけど」
クシクに呼ばれたので、カクヤは向き直る。
「ロストウェルスさんは私と一緒に、タトエさんはカクヤの部屋でいいかしら」
「ああ。こっちも部屋が余ってるわけじゃないのに。ごめん」
「いいわよ。カクヤのお友達だもの」
「俺も兄ちゃんたちのところで寝る!」
ナルカの声が飛んできた。クシクは即座に止める。
「だめよ」
「僕はいいですよ」
タトエが了承したので、ナルカもカクヤの部屋に泊まることになった。しばらく空けていた自室は三人も横になれるほど広かったかは疑問だが、ここまでくるとナルカは折れない。窮屈な思いをすることは避けられそうになかった。
それぞれの割り当ても決まると、一旦の落ち着きが訪れる。
カクヤはタトエとナルカのところに行き、カードゲームの趨勢を見る。タトエは初めての遊びだというのに善戦していて、ナルカを唸らせている。それでも、ナルカは慎重に一手を考えて、タトエのカードを打ち砕いていく。
二人の戦いを見ている途中で、タトエが使っているカードは自分の使っていたカードだと気付くと、カクヤは苦笑せざるをえなかった。こっそりとカクヤの部屋から拝借したのだろう。その点については後ほど声をかけておかなくてはならない。
だけど、いまは真剣に楽しんでいるナルカを見守りたかった。
サレトナのいるところに目を向けるとユエニと談笑していた。大分見慣れてはきた猫を八枚ほど重ねて被っている様子は品がよく、誰もが思い浮かべる令嬢の姿だった。
カクヤはクシクのところに行こうとする。
その時だ。
来客を知らせる鐘が鳴った。ユエニが立ち上がり、応対のため玄関に向かう。
玄関から聞こえてくる声は小さいが険悪な響きを帯びていて、カクヤはついに来たかと、諦めの境地で玄関まで歩いていく。
父はカクヤのために望まれぬ来客を帰してしまいたいのだろうが、それが叶うと手ひどい禍根が生まれることをカクヤは理解していた。
いずれは向き合わなくてはならない相手だ。
カクヤは父の後ろから声をかける。
「お久しぶりです。ギーデンノーグさん」
隙間の向こうには相手を圧するほど鋭い青い目をした女性がいた。口元は苦く引き結ばれている。会いたくない相手ではあっても、カクヤとは会わなくてはならないと決めている表情だ。
「久しぶりね。そちらも元気そうでよかったわ」
「ありがとうございます。ご用件は」
遮る父の前に立って、カクヤはサフェリアの母であるキルシカ・ギーデンノーグと向き合う。すでに身長差はカクヤが見下ろす側だ。それでもキルシカからの威圧はなくならない。
「わかっているでしょう。サフェリアの墓には絶対に来ないで」
「サフェリアさん?」
ぽつり、と洩らしたのはタトエだった。キルシカの鋭い目が室内に向く。ナルカはタトエの服をつかみながら踏ん張った。
キルシカは今度はタトエに焦点を合わし、当然の疑問を向ける。
「どうして、サフェリアのことをあなたが知っているの? その上でカクヤのオトモダチをやっているというの?」
タトエは答えあぐねている。サフェリアと会ったことがあるというのに、墓という単語が突然出てきて説明に困っていることが伝わってきた。カクヤもその点を、今この場でどのように説明したら最善なのかわからない。アラタメの家には困惑ばかりが滲み、キルシカの目は酷薄さを増していく。
一歩、カクヤの隣に進み出たのは、この騒動に無関係のはずのサレトナだった。
サレトナは薄紅の花の微笑みを見せて、キルシカに慎ましやかな衝撃を与える。
「初めまして。サレトナ・ロストウェルスと申します」
キルシカの顔が歪む。ロストウェルスの存在をこの場で聞くのは、キルシカにとって苦いことだろう。
目前の女性の不愉快を軽やかに飛び越えながら、サレトナは言葉を続けていく。
「サフェリアさんのことについては、どのように申したらよいのか……かつて、ロストウェルスにも訃報は届き、大変な驚きをもたらしました。とても優秀な神聴士としての素質をサフェリアさんはお持ちで、ルリセイの発展には欠かせないと言われた方だったとお聞きしています。タトエさんも、ヘキサの司聖長のご子息ですから。どこかでお耳になされたのでしょうね」
サレトナの冷静かつ滑らかな発声は聞く者の心を落ち着かせていく。キルシカからも荒ぶる気配は薄れていった。
しかし、決して彼女の怒りがなくなることはない。キルシカの怒りの波動を前にしても、動じることなくサレトナは厚みのある言葉を重ねていく。安易な同情でも、軽薄な慰撫でもない。
ただ、この場はサレトナによって支配されていた。加勢することも、否定することもできない。サレトナの言葉に耳を傾けることこそが正しいと、思考を委ねてしまう。
キルシカはしばらくサレトナの言葉を黙って聞いていた。話が区切りを迎えたところでカクヤとサレトナに背を向ける。
「カクヤも随分と、女をたらしこむのが上手くなったものね」
一刺しの言葉を付け足すのを忘れないまま、キルシカはアラタメの家から去っていく。そう思った直後だった。
「あなたもカクヤの刀で首飛ばされないように、気をつけなさいよ」
明確な敵意だ。カクヤは突きつけられた言葉の鋭さにうめきそうになるのをこらえる。
こらえられたのは、サレトナがカクヤの手に自身の手を添えてくれたためだ。
「ご忠告ありがとうございます。ですが、ありえませんわ。カクヤが私を傷つけるなんてこと」
扉は強い音と共に閉められた。
カクヤは動けない。
もう、疲れたという思いで一杯だった。かつて向けられてきた悪意には慣れたつもりであったが、久しぶりに浴びると堪える。
「ギーのおばさん、ほんっと性格わるくなったよな」
ナルカの一言が跳んできて、サレトナがくすりと微笑んだ。
どうやら自身が弟にまで気を遣われていることに気付かれたらしい。弟のナルカは、自分のうかつな行動によって周囲から痛い目に遭っているはずだというのに、いつも明るくいてくれる。
ユエニはナルカの発言に「言い過ぎだよ」と抑えはしたが、決して怒ることはなかった。
そのあとに場を仕切り直したのは、クシクだった。
「さて、少し早いけれども、夕食にしましょうか」
「手伝いますよ」
タトエが声を上げるが、クシクは首を横に振った。
「お客さんですもの。ゆっくりしていて」
「そうそう。俺とさっきの続きをしようよ」
ナルカと遊ぶことが一番の手伝いになるとタトエは察したのか、再びリビングでナルカとカードゲームを始めていた。屈託なく笑う二人の姿を確かめてから、カクヤはタトエと自分の荷物を持って二階に上がろうとする。
サレトナも荷物を持って二階へ上がっていった。
カクヤは先にサレトナをクシクの部屋まで案内し、荷物を下ろさせる。そのあとに自室へ入った。久しぶりに見た部屋はどこか子供じみているように映る。趣味が変わったのか、アルスの簡素な部屋になれてしまったのかは不明だ。
サレトナはまだ後ろに付いてきている。
カクヤは気付かれないように深く呼吸をしながら、まだ悩んでいた。
でも。
いま、言わないでいたらサレトナは何と思うだろう。
「サレトナ。いままで、ごまかしていて、ごめん」
静止した空気を感じる。サレトナはいるはずなのに、気配は薄い。だけど、確かにいると信じて、カクヤは言う。
「俺は、サフェリアの命を奪ったらしいんだ」
「らしい、の?」
「ああ。俺も、当時の記憶は曖昧で」
だから、ずっと逃げていた。
続くはずの言葉はサレトナに奪われる。
「どうして?」
「え?」
カクヤはサレトナのいる背後へ振り向いた。サレトナは真っ直ぐ、杏色の瞳でカクヤを見上げている。
「どうして、カクヤはサフェリアさんを傷つけるような真似をしたの」
口を二度、開いては閉じてから、答える。
「わからない」
「そう。じゃあ、カクヤはサフェリアさんのことが好きだったの?」
カクヤは考える。
ここで「違うよ」と言えたらどれだけ楽だろう。しかし、その言葉を選ぶことは全てに対する裏切りだ。
サレトナには確かに心惹かれているけれども、それでもカクヤが最初に選んだ少女は違うのだ。
「ああ。俺はサフェリアが好きだった」
カクヤは言葉を早く続けていく。
「俺とサフェリアは婚約者に近い関係で。将来はルリセイで生きるサフェリアの隣で、俺もずっと守って生きていくと思っていた。それくらい、傍にいることが当たり前で。……初めて恋を教えてくれた人、だった」
サフェリアは身体が丈夫ではなかったからか、つれない態度を取られることも、からかわれることも多々あった。だけど、その全てが嫌ではなかった。自分にだけは許している我侭があり、歌夜に憧れていると告げた時は心からその道を歩くことを応援してくれた人だ。
いまだって覚えている。ベッドの上で身を起こしながら、カクヤの歌を聴くことを誰よりも楽しんでくれた人だった。
だけど、もういない。
サフェリアはいなくなったはずだというのに、今更姿を見せて何を俺に望むんだ。
カクヤは目をつむる。
サレトナは扉を閉めに向かった。廊下の明かりがなくなって部屋は真っ暗だ。
サフェリアがいなくなった時と同じ気持ちを噛みしめていると、そっと、サレトナがカクヤの手に触れてくれる。
「大丈夫」
「サレトナ」
「私は、カクヤがいいの」
口にされた言葉から思い出されたのは試後祭でのことだ。二人だけになった時に、問いかけあった。
サフェリアの未来という灯火を消した、自分でもいいのか。
サレトナはそれでも、カクヤがいいと言ってくれる。他の誰でもないカクヤのことを選んでくれる。
そのことが嬉しくて、同時に申し訳なさが湧き上がってくるのをこらえきれず、カクヤは顔を歪めながらサレトナを抱きしめた。
「俺も、サレトナがいい」
暗闇の中だから、はっきりしたことはわからない。だけれど、サレトナは微笑んで抱きしめ返してくれた気がした。
どれくらいの時間をかけて抱きしめあっていたのかははっきりとしないが、サレトナに触れている時間は確かにカクヤの心の傷を癒やしてくれていた。
愛する人が自分を愛してくれている。
何物にも代えがたい、幸福だった。
変奏曲より紡がれし明日への希望 一括掲載版
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