一人きりの台所でタトエは黙って料理を進めていた。
父の買ってきた野菜や主菜、食後のデザートはタトエの好物ばかりで、理解されていることに毎回恥ずかしさを覚えてしまう。
とはいえ、折角の好物を作らないままヘキサを離れるのも、もったいないため、タトエは自身のレシピにある料理を作っていく。
スープは塩とコンソメとタマノネギであっさりと味付けをして、サラダはトマトを切った後にキャレタスを千切って足すだけにする。これで、もう二品は完成だ。取り分けるよりも全員でつまんでいく形にしたが、サレトナはその形式で大丈夫だろうか。一応、サレトナの分だけ取り皿を用意する。
空板に連絡が入る。父から「二人と一緒に教会へ寄っている」と伝言が届き、「あと十分もあればできる」とだけ返した。
一息つくために、水を飲む。
家の扉が開いた。まだ、父たちは帰ってこないのだから、エルダー家の門をくぐる相手の心当たりは一人しかいない。
仕切りの布を女性がくぐる。
「あら。帰ってきてたの」
「おかえり」
「ただいまって、それはこっちの台詞じゃない」
もう、と唇を尖らせる、長身の女性はタトエの母のケレト・エルダーだ。緑の髪を短く切り揃えていて、タトエと同じ琥珀色の瞳はいまだに少女のように無邪気だ。
ケレトは脱衣所に向かっていく。荷物の整理を行うのだろう。ばさりと布が落ちる音がしてから、今度は自室に向かい、最後にタトエのいる台所に戻ってきた。すでにできあがっているスープを見てケレトはうっとりと微笑む。
「いい匂い。料理の腕は上達したんじゃないの?」
「下宿先で何度か手伝わせてもらったからね」
「それはいいことね。私がすることはある?」
タトエはフライパンに油をしき、小さく正方形に切られた肉を転がしながら答える。
「ないかな。あとは、皆が帰ってくる前にパンを焼くだけだし」
「そう」
ケレトは軽く答えると離れていった。ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。その姿が様になっていて、こういうところにトリルは惚れ込んだのかとタトエは思わずにいられなかった。
反対に、タトエは母が父を生涯の伴侶として選んだ理由を未だ知らない。尋ねたこともないのだから、知る機会はなくて当然だが、離れてみると不思議だ。
父であるトリルは善良でヘキサにおいては恥ずかしくない地位も持ち合わせているが、男としての魅力がどこにあるかを問われたら、息子であるタトエも答えられない。外見も常に身だしなみは欠かしていないが、格好良いや男前といった言葉は全く似合わない。
対して母は年齢に合わせて相応しい年の重ね方をしつつも、美しさに磨きをかけることは忘れていないため、父と母が並ぶと不相応であることがよくわかる。
「ねえ、セイジュリオでの毎日は楽しい?」
「うん。やっぱり、あちらを選んでよかったよ。珍しい経験ができて、友達も増えたし」
「それはいいわね。新しい友達はいくらできても困らないから」
ケレトは立ち上がると冷蔵庫から果実水をカップに汲んで、また座る。こくこくと飲み終えると、タトエに何度もセイジュリオでの話をねだった。
受験を終えた後にセイジュリオでの転入学の追加募集の話を持ってきたのはケレトだった。タトエはヘキサ以外の街での生活も経験した方がよいと進めてきて、受験まで持ち込んだ。タトエもアルスに住みながらセイジュリオで学ぶということには憧れがあったので、否定的な気持ちはないままに受験をして、カクヤとサレトナと出会えた。その点においては母に感謝している。母の発破がなければいつまでも安穏としていただろう。
だけれど、その安穏を爪の先程度だが懐かしく思っていることを、タトエは気付いていた。アルスでの日々は楽しい。セイジュリオの授業も充実している。
だけど、いつだって胸が騒ぐのは、ある人に隣に立たれる時だ。
すでに慣れたことと言い聞かせようとするのに、まだ納得してくれない。
タトエがその言葉を口にしようと決めたのは、二つの疑問に背を押されたためだ。
母が父を選んだ理由。
自分が選ばれた理由。
その理由が、わからない。だから、聞いてみたくなった。
「ねえ、母さん」
「ん? どしたの」
「あのね。母さんは、どうして父さんと結婚したの?」
炒め終えた正方形の塊を皿に移しながら、タトエはさりげなく聞こえるように気をつけながら尋ねた。
ケレトはきょとんとした後に笑い出す。
「いきなりなによ」
「あのね、今日連れてきた友達二人もわりといい雰囲気で。僕も……告白みたいなことをされたから」
「ふーん」
ケレトはダイニングテーブルの上にタトエが用意した料理を並べ直していく。
「タトエも可愛い顔しているからね。私に似て良かったじゃない」
「ごまかさないでよ」
「心の準備をしているだけよ」
その言葉の不穏さにタトエは眉を寄せた。
ケレトは空板を起動させると、タトエとトリルと三人の宿り木に伝言を残す。「あと、五分だけ待って」というものだった。
五分。その時間はタトエのこれまでの人生において、もっとも濃縮された時間になるだろう。
タトエは四人がけのダイニングテーブルの右の下座に座る。ケレトはタトエの向かいに腰を下ろす。余裕は失われていない。覚悟はとうに決めていたようだ。
「それで、私がトリルさんと結婚した理由よね」
「うん」
タトエは用意した料理が冷めないように、聖法を先にかけおえてから、頷いた。
生まれた隙を縫うようにして、母はゆっくりと言葉にする。
「私にとって、トリルさんが一番条件が良い相手だったから、かな」
口にされた内容をタトエは何度も噛みしめる。条件が良い。それは何を指すのか。地位か。性格か。それとも、複合的な要因があるというのか。
唯一確かなことは、タトエの望む答えは一生かかっても、母の口からはもたらされないということだ。
「好き、という気持ちはきちんとあるわよ。でも、トリルさんより格好いい人も、頭のいい人も、優れた人もわりといたわ。それだけの数の人に私は想いを告げられてきた。だから、トリルさんを選んだときは散々言われたわね。『あんな平凡な男の何がいいの』って。でも、誰も気付いていないの。トリルさんの平凡さにどれだけヘキサという街が救われてきたか。私のやりたいことを、一番理解してくれていた人が、誰かということも。私はわかっていた。だから、この人にしておこうと決めたわ」
「もっと、穏便な言い方はないの」
震えそうになる声をどうにか抑えた。
タトエは父に同情してしまう。普段、母のために家事も仕事も担っているというのに、父は一度だって愚痴をもらしたことはなかった。風邪を引いたときも無理に動こうとして、倒れてようやく止められるというほど、母の援護に力を入れていた。
それなのに、この人にしておこうというのはあんまりではないか。
「私は嘘偽りなく話しているだけよ。それで、タトエがどう思おうとも、配慮する余裕はないわ。この話に関しては。私の仕事は知っているでしょう」
タトエは頷く。
ケレトは戦歴に関する知識を買われ、ヘキサ付近にある遺跡の調査を行っている。遺跡の探索は危険が伴うため、年々志願者は減っている。そのためケレトは貴重な戦力とされていると聞いた。
だが、タトエにしてみれば母は自分のやりたいことをしているだけだ。母は幼い頃のタトエを省みることなどなかった。
タトエは主に、父と教会に集まる人たちの手によって育てられてきた。
いまはそのことを恨むほど子どもではない。ただ、母の中の優先すべき順位においてタトエと父が仕事より下に置かれたことは、忘れられない。
「まあ、私の仕事を応援してくれたのはトリルさんだけだったということ。あと、知ってる? 司聖長にだって、半分くらいは私のためになってくれたんじゃないかな。遺跡で怪我とかしても、すぐ治療できるように」
「父さんは、本当にお人好しだなあ」
タトエの言葉にケレトは頷いた。
「トリルさんのお人好しに感謝しなさい。でないと、タトエはいまこうしていられなかったんだから」
タトエのダイニングテーブルの下にある手が、強く握られる。
「母さん。それは、子どもに対して言うことじゃない」
「そうね。でも聞いたのはあなたよ。私は正直に話すしかない。嘘は、あなたも嫌いでしょう?」
ケレトの顔からは笑みが消えていた。いまになって取り繕われたことを、少しだけおかしく感じる。
母と向かい合いながら、腹の底が熱くなるこの感覚は久しぶりだ。この感情を怒りと呼ぶのだと、タトエは知っている。普段はタトエを苛むことはない。ちり、と湧き上がったら押さえ込むやり方も理解している。
だけれど、母に対してだけはいつも上手くいかないのだ。
「私が子どもを、タトエを産めると思えたのはトリルさんが相手だったからよ。あの人が、タトエの面倒もがんばるよ、と言って実践してくれたから。私は正直、子どもが欲しいと思う側じゃなかったから。だけど、タトエ」
「いいよ」
言わなくて。
タトエは続く母の言葉を鋭く切り捨てた。
涙をいただくように、母から「それでも生まれたあなたはかわいかった」などと言われたら、憤りが治まらなくなる。
昔から分かっていた。タトエは父にも母にも愛されている。だけれど、母から注がれてきたのは絶対的な愛情ではない。幼子のように万能感を抱ける愛し方が今更恋しいわけでもないが、条件付きの愛というものを与えられてきたと突きつけられると苦しくなる。
自分はいい子にしてきたのに、どうして、という情けない考えまで浮かぶのだ。
タトエは俯く。
自分は結局、誰でもよいから愛されたかっただけだ。だから、常に礼儀正しく慎ましく振る舞ってきた。そうでもしたら愛されるという打算は醜く、そうした自分がタトエは嫌いだ。そして、紛れもない愛情を向けてくれるソレシカを信用できない矛盾が、息苦しい。
「タトエ」
耳に落ちた母の声はいままでとは違っていた。大人に話す冷静な色をしている。
タトエも思わず顔を上げた。
ケレトはタトエを抱きしめない。だけれど、真っ直ぐに目を合わせることによって、受け止めてくれていた。
「トリルさんにとって、タトエは順番なんてものをつけるまでもないくらい、大切な存在なの。私は身勝手だから、自分の人生とやらを求めて、タトエやトリルさんを傷つけているけれど。それができると思ったのは、トリルさんはタトエの全てを惜しみなく愛してくれると信じられたからなの」
ダイニングテーブルに置かれた、ケレトの手がテーブルクロスをつかんだ。
母はいま、大事なことを伝えようとしてくれている。
「だからね、タトエも。愛であろうとも、夢であろうとも、もっと別の何かであろうとも。まずは選ばないとだめなのよ。その、惹かれあっている友達のことを羨ましく思うよりも。まずは告白してきた相手に、応える必要があるかどうかもよく考えて。そうして、何よりもタトエが好きだと胸を張って言えるものを見つけないと、何も始まらないわ」
「母さん」
「タトエ。教えて。あなたが好きなものはどういうものなの?」
その問いに、タトエは喉を詰まらせた。
結局、母さんは何を悩んでいたのかはとっくに分かっていたらしい。それくらい、セイジュリオに行くまでの間、僕のことを見ていてくれていた。
傍にはいてくれなかったかもしれないけれど、母さんなりに僕のことを心配してくれていた。
だけど、僕はまだ。愛されることを欲するばかりで、何を愛するかという始まりの一線すら越えていなかったんだ。
タトエは目を閉じる。
自分が好きだと言えるもの。奪われたくないもの。それらはまだ微かな輪郭ではあっても、確かにこの胸の奥に存在している。
だから、言える。
「僕が好きなのは、カクヤやサレトナ。万理やアユナといった友達に、マルディさんというなんとなく気になる人もいる。他には星が好きで、祈りが大切で、最近は下宿先で教えてもらった、カクテルを作ることも楽しいんだ。ギターだって、始めたから」
あとは、ソレシカの存在もあるけれど、彼に対してはまだ名前が付けられない。
唐突な始まりから隣にいるようになって、最初は迷惑だとすら感じていた。だけど、短くも長い四ヶ月を過ごす間に、隣にいられても困ることはなくなっている。
紅茶にミルクが注がれるように、ソレシカの存在は僕の中に染み渡っていた。
ケレトはタトエの言葉を聞くとゆっくりと、頷いた。顔にはいつもと同じ笑みが浮かべられている。
「大切にしなさい。タトエの、あなたの心を動かすもの全てを」
「うん」
五分間が終わりを告げる。
それから、少しの間を置いて家の扉が開かれた。
変奏曲より紡がれし明日への希望 一括掲載版
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