予期はしていても望まぬ来訪者を迎えたというのに、朝は平等に訪れる。
カクヤはいつも通りに起床して、朝食と身支度を済ませた。その後、ルリセイにある門の管理者に話を聞くと、十三時にロストウェルスとつながるという連絡を受けた。
瞬移の門は入口と出口の時刻を合わせなくてはならない。ロストウェルス側で門の調整が終わっていないとのことだった。
いまは十時であり、タトエはナルカにまた遊びに誘われたので相手を務め、サレトナはクシクと話をしている。カクヤは「時間までに帰るから、一旦街へ出る」と告げた。
サレトナに気遣われる表情を浮かべられたが、呑気に手を振って出ていった。ルリセイにいるあいだに、会えるかはわからないが会わなくてはならない相手がいる。
カクヤは人目に付かないように街の裏道を歩いていく。緩やかな坂の中腹に位置する緑の屋根の家はカクヤがアルスに行く前と変わらず存在していて、安心した。
茶色い木製の扉の横に付いている鐘を鳴らす。
「はい」
「アラタメだよ。久しぶりだな」
カクヤの返答で全てを察したのか、扉が開く。中からは友人のタクラ・クーレルメイが出てきた。清風やフィリッシュほど色の強くない細い金髪と、眠たげな空色の瞳は最後に出会ったときとほとんど同じだ。髪の長さは変わっていた。
「入れ」
クーレルメイは短く言い切ると、カクヤを家の中に入れた。
室内は静かで人気がなく、クーレルメイの家族は仕事に出かけているようだ。クーレルメイが家にいたのは幸いだったのだろう。夏期休暇の最中とはいえ、彼もふらりとどこかに出かけていない保証はなかったのだ。
クーレルメイはカクヤをリビングのテーブルまで案内すると、紅茶を用意してカクヤと自分の前に置いた。カクヤは白いカップに口をつける。
「相変わらず甘いな」
「好きなんだよ」
変わらない友人の好みに安心しながら、カクヤは笑った。
クーレルメイも甘い紅茶に口を付けてから言う。
「セイジュリオやアルスはどうなん?」
「楽しいよ」
「よかったな」
素っ気ないクーレルメイの言葉の裏側に安堵があって、カクヤは友人の労りに感謝する。クーレルメイは、サフェリアの事件があっても唯一カクヤへの態度に変化がなかった友人だ。それ以外の友人も、カクヤに対して悪感情を抱いているわけではないのだが、雰囲気が変わってしまった。怯えていると例えた方が的確な表現だろう。当たり前だ。大切な人を、傷つけた可能性のある人間を容易に信頼はできない。カクヤは身の潔白を証明できていなかったのだ。
だからとはいえ、遠くから見つめられることに慣れるほど自分は豪胆でもなかった。慰めが欲しかったわけではないが、忌避されることは辛い。
「今日はもう、午後にはここを離れるけど。クーレルメイには会っておきたくてさ」
「やめてよ。カクヤがそういうことをすると、わりかし面倒なことが起きるんだから」
「そうだな」
正確な根拠はないが、言いがかりともいえない妙な説得力のある言葉にカクヤは頷いた。
自身が何かしらのことをすると、連鎖して面倒な事態が起きるのはわりとあった。
クーレルメイはじっと、カクヤを見つめる。視線の意味がわからないので首を傾げると、クーレルメイは言う。
「よかった。本当に、アルスはいいところなんだな。お前が笑うところなんて百年振りに見た気がするから」
「……うん。最初は、逃げかもしれないと思っていたけど。アルスに、セイジュリオに行ってよかった。そのおかげで、大切な人にも出会えたから」
自分のために心を砕いてくれる友、厳しくも見守ってくれる先輩、そうしてたった一人、いまもカクヤの胸を穏やかにしてくれる少女がいる。誰一人とも、出会わない現在があってほしくなかった。だから、セイジュリオに進むことができたのは幸いなことだ。
「じゃあ、もうここには帰ってこない?」
想定外の問いを投げられてカクヤははっとした。
クーレルメイはすでに気付いた顔をしている。カクヤが気付いていないことを意外に思うほどに。
「ギーのおばさんがもう空板に書き込んでるよ。カクヤは今度はロストウェルスの娘をたらしこんだってさ」
カクヤはテーブル下の両手を強く握った。
恨まれることは堪えるが、自分に対してならばいくら憎んでもかまわない。サフェリアを奪ったとされる罪は確かにカクヤにある。だが、サレトナまで誹謗の対象にするのは許しがたかった。あの清廉な少女まで虚偽の罪で貶めようとする相手がいるというのなら、カクヤは万の大軍とだって戦える。
伝える相手ではないとわかっていても、否定する。
「違う」
「うん。それはわかる。ただ、セイジュリオを通い終わったらどうするの? ここに戻るか、アルスに住むか。もしくは、それこそロストウェルスに行くのか、違う場所を目指すのか」
いままで考えなかった。
考えたくのないことだった。
だけれど、もう考えなくてはならない。自分がどこへ行ってどのように生きていくのかを選択する必要があることに、友人の言葉によって今更気付かされた。
教訓となる痛みを与えたクーレルメイは紅茶を口に運びながら淡々と話す。
「カクヤがどこへ行こうとも僕は友達だけど。ここには帰ってこない方がいいとは思う。きついだろ?」
「そうだな」
ルリセイはカクヤが生まれ、育ち、住み慣れた故郷だ。
同時に自身を強く憎悪する存在がいて、彼女の憎しみに巻き込まれないようにカクヤは隔離されるようになっていった。友と親しんだ相手から困惑と恐怖が混ざった目で見つめられるのはいつだって辛かった。
カクヤはサフェリアの命を失った。自分も同じ目に遭わないかと恐怖した、多くの目がいまも浮かぶ。カクヤを突き刺してくる。直接、間接を問わずに疑ってくる。
お前の手は本当に血に汚れていないのか、と。
その目から逃れたくてカクヤはアルスへ旅立った。そして、忌まわしい過去を知らないとはいえ、清風やフィリッシュといった友人たちは奇妙な遠慮などを必要とせず、カクヤを認めてくれた。拓けた未来は想像以上に居心地がよく、安心することができた。
だから、きっと、ルリセイは故郷ではあっても帰るべき場所ではない。
分かっていたことだというのに、改めて実感すると寂しかった。
カクヤは立ち上がる。
「変な空気にして悪かった。帰るよ」
「ん」
クーレルメイは止めない。自分も席から立つと、カクヤを玄関まで見送ってくれた。
色素の薄い青い瞳には変わらない心配と労りがあり、それだけで会えてよかったと思える。この友人と別れを告げられなかったら後悔していただろう。
カクヤは空板で時間を確かめる。まだ、瞬移の門を使うまでには余裕があった。しんみりとした気分を壊す気にはならず、また、もう一人の会わなくてはならない相手のところに向かう。
会ってくれるのかはわからないけれども。
カクヤはなだらかな坂を下りていく。途中ですれ違った壮年の男性に素っ気なく視線をやられながらも、そのまま北東の外れにある共用の墓地に作られたサフェリアの墓前に立った。白い石の墓は相変わらず汚れ一つない。毎日、キルシカが訪ねながら汚れを落としているのだろう。
しかしカクヤはアルスで、もう会えないと思っていたこの墓に眠る死人に、また会ってしまった。
問いは変わらず繰り返される。
サフェリアは何が目的だったんだ。恨みでも、憎しみでも、喜びすらなく、何を伝えたくて俺に会いにきたんだ。
「サフェリア」
呼びかける。墓は当然沈黙したままだ。
あの賢い少女は自分を恨んではいない、と思うけれど。サフェリアに何があったのかはやはり知りたい。どうしてサフェリアは亡くなることになったのか。自分は命の灯火が消える瞬間に居合わせたのか、それすら記憶は定かではない。
不意に、強い目眩に襲われた。
カクヤは目を閉じる。夏だというのに虫の声も、鳥の声も聞こえずに奇妙に静かだ。しかし耳の奥では強く、音か、それとも声が反響している。
わおんわおんわおん。わおんわおん、わおん。
音がぼやけて聞こえない。
倒れる、と思った瞬間のカクヤに降りかかったのは、冷たい水の塊だった。
「来るなと言っただろう!」
強い声に現実へ引き戻される。
カクヤは頭からずぶ濡れになったまま、声が聞こえてきた方向へゆっくりと振り向いた。
「キルシカさん……助かりました」
あのままでは倒れているところだった。
カクヤとしては素直に礼を言っただけなのだが、キルシカは苦い実を噛み潰した表情のままでいる。
「水をかけられて寝言を言うな」
「いや。立ちくらみを起こしてたので」
気を削がれたのか、キルシカは深く溜息を吐いた。そのまま、見逃すのは一度だけだと言う断固とした様子で言った。
「いきなよ。いまなら見逃してあげるから」
「はい」
カクヤは地面にぽたりぽたと、水を垂らしながら歩いて、サフェリアの墓前を離れていく。先ほどよりかは意識がはっきりしていた。虫の鳴き声も耳に鮮やかだ。
キルシカの前を通り過ぎる、ときだった。
「待ちなよ」
「はい?」
行けと言ったり、待てと言ったりどちらなんだ。
カクヤの声に滲んだ疑問は無視してキルシカは問う。
「サフェリアに、会ったの」
「はい」
どこでともいつとも聞かれないまま、キルシカは眉を寄せる。そのまま変わらず憎しみの宿った目でカクヤを見つめていたが、再び息を吐くと方向を変えて歩き出した。カクヤもとりあえず後をついていってしまう。ここで別れても疑問は残り、互いにすっきりとはしないだろう。
キルシカの向かった先はギーデンノーグの家だった。カクヤを家に入れないまま、キルシカはまず水を拭き取るための布を渡してくる。カクヤが布でしたたる水を拭き終えると、今度は胸に突きつけてきた。
手紙だ。
サフェリアが気に入ってくれた、カクヤが近くの街の土産として買ってきた青色のくらげが刻まれた手紙だった。
まだ日焼けも色褪せもしていない手紙をカクヤは開く。一枚の便箋があった。
私を殺したのはカクヤではありません。
だけど、彼がいなかったら私は死ぬ必要なんてなかった。
二行だけの短い文章だった。
「これ、どういうこと?」
「わかりません。ただ、俺はサフェリアの命を奪ってはいない。少なくとも、直接は」
この手紙がいつ書かれたものなのかは不明だが、被害者であるサフェリアに潔白を証明してもらえたことは、強く力づけられるものだった。
他の誰もが自身を罪人だと拒絶しても、違うと言い返してくれる人がいた。それが、当の被害者なのは皮肉なことだが、カクヤは確かに顔を上げることができた。
俺の手はまだ汚れていない。
「あんたが直接サフェリアの命を奪ったわけではない。だけど、あんたがいたからサフェリアは亡くなることになった。その訳を私は知りたい」
キルシカはカクヤを真っ直ぐ見つめると、手紙と布を奪い返して念を押す。
「その答えがわかったら、教えなさい。それまで私はあんたを絶対に許さない」
背を向けて家に入っていくキルシカに頭を下げてから、カクヤも自分の家へ帰っていく。
もう、怖くはなかった。
答えを見つけなくてはならない難題は現れたが、人殺しなのかと疑われながらルリセイの街でずっと生きていく必要はないと知ることができた。
自分はサフェリアの命を絶ってなどいない。そのことがわかっただけで大きく前進した。
あとは、サフェリアから事情を聞くか、どうにかしてサフェリアの真意を知るだけだ。そうしたら、きっと、自分はサレトナの隣に並んで立つことができる。
何度だってあの手を取って笑いあうことができる。
カクヤは普段よりも大きな歩幅で家の扉を開けた。
「ただいま」
「おかえりって、兄ちゃん。ずぶぬれじゃない!」
驚愕する弟に笑いかけていると、ユエニも姿を現した。
「ああ。ちょうどよかった。ロストウェルスさんのパーティに出るんだろう。これ、丈が合うか着替えてみて」
動揺の一端も見せずに、ユエニは礼服をカクヤに渡す。カクヤは二階にある自室に上がって、着替えた。幸いにも丈が足りないことはなかった。多少は腹囲が余るが、ベルトをしたら問題ないだろう。
礼服を脱いで丁寧に畳み、カクヤはまた別の私服へ着替える。ロストウェルスへ行くことを考えて、帽子のついた上着ではなくて着慣れない薄手のジャケットに腕を通した。
カクヤが一階へ下りていくと、すでにサレトナとタトエはルリセイを離れる準備を終えていた。玄関で待っている。
カクヤも朝の内に用意しておいた荷物鞄の中に礼服を入れて、家を出ることにする。
クシクはこの場にいなかったが、ユエニとナルカが見送ってくれた。
「気をつけるんだよ」
「いってっらしゃーい」
「ああ」
カクヤは玄関を開ける。そうして、サレトナとタトエと共に瞬移の門が設置されている教会まで向かった。
教会の門をくぐると、司聖以外に人はいない。礼拝席を通り抜けた先にある、聖像の前に瞬移の門は用意されていた。
司聖が三人を見渡して言う。
「それでは。準備のほどはよろしいでしょうか」
「はい」
カクヤが答えると司聖は頷く。そうして、瞬移の門を起動した。
いざ、ロストウェルスへ。


