吹き抜ける風の涼しさが一歩を踏み出す勇気を与えてくれる。
星月の中綴式も終わり、夏期休暇を迎えていまはすでに天月の三日だ。明日になったら、カクヤは自身の帰郷とサレトナの付き添いのために、絢都アルスを離れなくてはならない。その前の挨拶回りとして、友人である清風・ノックスが短期労働をしているという鍛冶屋へ訪れた。
紺青の鉱石の角を削り取り、丸みを持たせた石碑に刻まれている名は「トンテンカン銅」だ。
「失礼、します」
カクヤは大きく開かれた入り口に足を踏み入れた。低い段差の先には木製の床と受付台があり、受付台の横にある細長い通路が鍛冶場へ繋がっているのだろう。
いま、受付には誰もいない。カクヤは「不在の場合は鳴らしてください」と書いてある紙の上に置かれていた木製の魚を隣に並べられている棒で三回叩いた。
金物ではないというのに、音は聞こえるのだろうかと多少の不安を覚えていると、通路からではなく、受付台から見て左側にある扉から灰色のつなぎ姿の清風が現れた。
「なんだ。カクヤじゃん」
「急に悪いな。遊びに来た」
「いいよ、来いって言ったのは俺だから。抜けてくるからちょっと待ってろ」
清風は焦る様子もないままに扉の奥へ引き返す。入れ替わりに現れたのはフィリッシュだった。カクヤは小さく驚いた。
フィリッシュはセイジュリオでの制服姿とは異なる、胸元にフリルの付いたレモンクリーム色のワンピースを着ている。活発な印象を与える制服とは異なるが、慎ましやかに華があるワンピースはフィリッシュによく似合っていた。
「なんだ、アラタメじゃない」
「そのやりとりは清風とやった」
言葉にするほど正直になれる気はしなかったので、カクヤは先ほどの感想をまるごと呑み込んだ。
フィリッシュは相変わらず自分に対して当たりが強い。講評試合を終えてからは一層厳しくなってきている気がする。それも、サレトナとの関係を見透かされているとしたら。
「おまたせ。ほら、カクヤも中に上がれよ」
戻ってきた清風に急かされて、カクヤは靴を脱いで「トンテンカン銅」に上がった。清風が先頭になり、また左の扉に入っていく。その後をフィリッシュとカクヤが続いていった。
左の扉の室内は休憩室かそれとも給湯室なのか、簡易な台所になっていて、あとは広い水色のテーブルが置かれていた。テーブルの上には籠があり、その中には菓子が詰まっている。清風は菓子を二つ取り出して、カクヤとフィリッシュに差し出した。
「いいのか?」
「うん」
さらりと答えて、清風は自分も籠の中の菓子を一つ選ぶ。小さな焼き菓子が袋に詰まっていた。清風は口の中に放り投げる。
カクヤはなるべく淡々とした調子になるように、事情を説明した。
明日からアルスを離れて、サレトナとタトエと共にそれぞれの故郷へ帰省する。サレトナの故郷であるロストウェルスはアルスから遠い場所にあり滞在する期間も長いので、しばらくは会うことはできないだろう。ただ、ソレシカは課題のためにアルスに残る。
相槌は頷く程度で、口を挟まないでいた清風とフィリッシュだったが、カクヤが話し終えたことがわかると清風が重々しく言い放つ。
「カクヤは明日から、ロスウェルちゃんのところへご挨拶に行くことになるんだな」
「違うから」
すでに慣れたことではあるが、清風の口にする冗談は落とし穴のようで、何度混ぜっ返されても過敏に反応してしまう。フィリッシュはその様子を呆れた目で眺めていた。
「私も明後日にはロストウェルスへ戻るから。アラタメたちとは、あちらで会うこともあるかもね」
「夏の間とはいえ寂しくなるなあ」
「とはいっても、一週間くらいで戻るよ」
同級生の実家で長期滞在していても優雅にいられるほど太い神経をカクヤは持ち合わせていない。また、サレトナは自身の家であるというのにロストウェルスにはそこまで長居をしたくなさそうだった。それよりも道中にあるタトエの故郷のヘキサやカクヤの故郷であるルリセイに寄ることを楽しみにしていた。その点についてはフィリッシュに聞きたくもあったのだが、清風のいるところでは話してくれないことも分かっている。だから、カクヤは常と変わらない余裕を持つように気をつけていた。
「一週間で無事に帰れるといいけどね。知っているの? ロストウェルスには幽閉塔というものがあるのよ」
「あのさ、人様の土地でそんな罰当たりなことしないから」
カクヤの反論に対して、フィリッシュは指を三回振った。その手を戻してから言い直す。
「サレトナのことを『好き』なのがばれるだけで、相当危険な目に遭うんだから。ただの友人の振りをがんばりなさいよ」
その言葉には、普段のフィリッシュにはない心配や憂いが滲んでいた。カクヤはフィリッシュのアドバイスを真面目に聞く。普段なら面白がる清風すらも間抜けな様子で口を開けていたのだから、フィリッシュの言葉の重みは相当なものだろう。
その言葉を最後にして、清風は仕事に戻ることになった。カクヤとフィリッシュは結局もらった菓子に手をつけないまま、「トンテンカン銅」を後にする。
アルスを吹き抜ける風は涼やかだった。フィリッシュの金の髪も勢いに任せてなびいていく。
カクヤがフィリッシュと二人きりになるのは珍しいことだ。サレトナや清風、ロリカといった共にいる友人の共通項はあれども、カクヤとフィリッシュの関係はおそらく、ただの同級生でしかない。好感は抱いていても好意にまで発展するかは不明だ。フィリッシュなどカクヤに好感を抱いているかすら疑わしい。
ただ、嫌われてはいない。それは確かだ。
「そうそう。多分時期的に夏の鎮撫祭に参加することになるわよ」
「鎮撫祭?」
カクヤが聞き返すと、フィリッシュは想像していたよりも丁寧に説明してくれた。
鎮撫祭では人族のノーブル・マテリアルとされる「永遠の氷」の守護をロストウェルスの者が編み直す。同時に「永遠の氷」から穢れを払い、聖なる輝きもまたロストウェルスの血族が与えるという。
「永遠の氷」も性能が固定された不朽の宝物ではない。機能を果たすために外部と関わりを持ち自身の中で魔力と聖力を循環しているため、どうしても不純が生まれる。その不純を可能な限り取り除き、魔力と聖力の均衡を保つ必要がある。
その鎮撫祭を取り仕切るのはロストウェルス家の当主だが、実行するのはクレズニ、またサレトナだ。
そして鎮撫祭が無事に終わりを迎えたら、立食式のパーティも催される。
「アラタメもきちんとした服を用意しておきなさいよ」
フィリッシュはカクヤに念を押すと、そのまま自身の下宿先である「闊歩する青箒亭」に帰っていった。
カクヤは一人になって「沈黙の楽器亭」までの道を歩く。
フィリッシュは自分よりも下の者たちに対して面倒見がよい。アユナや万理といった後輩たちにも細かなところで世話を焼く。面倒見のよさを発揮される対象に自分が含まれていることを考えると、フィリッシュのつっけんどうな態度は、カクヤのことも甘く見てしまうことに対するもどかしさの裏返しに感じられた。
例えば、フィリッシュは清風にだったら自身の面倒見のよさを発揮しないだろう。それどころか、頼る相手として見ているはずだ。しかし、カクヤに対してはフィリッシュは世話を焼いてしまう。同じ同級生の男として、頼りがいの違いがあることにフィリッシュは腹を立てているのかもしれない。
この推理が正しいのなら、自分もこれからはさらにしっかりしなくてはならないだろう。
カクヤはうん、と頷く。
しかし、目下の悩みは違っていた。
出立の前日に礼服がいる可能性があると言われても困る。サレトナに鎮撫祭について聞いてみて、必要ならばルリセイに戻った時に両親に相談してみよう。
最初から分かっていたが、ゆっくりとした帰郷にはならなさそうだ。自分も、サレトナも、タトエだって。
>第八章第二話





