変奏曲より紡がれし明日への希望 第六話

 タトエは父に同情してしまう。普段、母のために家事も仕事も担っているというのに、父は一度だって愚痴をもらしたことはなかった。風邪を引いたときも無理に動こうとして、倒れてようやく止められるというほど、母の援護に力を入れていた。
 それなのに、この人にしておこうというのはあんまりではないか。
「私は嘘偽りなく話しているだけよ。それで、タトエがどう思おうとも、配慮する余裕はないわ。この話に関しては。私の仕事は知っているでしょう」
 タトエは頷く。
 ケレトは戦歴に関する知識を買われ、ヘキサ付近にある遺跡の調査を行っている。遺跡の探索は危険が伴うため、年々志願者は減っている。そのためケレトは貴重な戦力とされていると聞いた。
 だが、タトエにしてみれば母は自分のやりたいことをしているだけだ。母は幼い頃のタトエを省みることなどなかった。
 タトエは主に、父と教会に集まる人たちの手によって育てられてきた。
 いまはそのことを恨むほど子どもではない。ただ、母の中の優先すべき順位においてタトエと父が仕事より下に置かれたことは、忘れられない。
「まあ、私の仕事を応援してくれたのはトリルさんだけだったということ。あと、知ってる? 司聖長にだって、半分くらいは私のためになってくれたんじゃないかな。遺跡で怪我とかしても、すぐ治療できるように」
「父さんは、本当にお人好しだなあ」
 タトエの言葉にケレトは頷いた。
「トリルさんのお人好しに感謝しなさい。でないと、タトエはいまこうしていられなかったんだから」
 タトエのダイニングテーブルの下にある手が、強く握られる。
「母さん。それは、子どもに対して言うことじゃない」
「そうね。でも聞いたのはあなたよ。私は正直に話すしかない。嘘は、あなたも嫌いでしょう?」
 ケレトの顔からは笑みが消えていた。いまになって取り繕われたことを、少しだけおかしく感じる。
 母と向かい合いながら、腹の底が熱くなるこの感覚は久しぶりだ。この感情を怒りと呼ぶのだと、タトエは知っている。普段はタトエを苛むことはない。ちり、と湧き上がったら押さえ込むやり方も理解している。
 だけれど、母に対してだけはいつも上手くいかないのだ。
「私が子どもを、タトエを産めると思えたのはトリルさんが相手だったからよ。あの人が、タトエの面倒もがんばるよ、と言って実践してくれたから。私は正直、子どもが欲しいと思う側じゃなかったから。だけど、タトエ」
「いいよ」
 言わなくて。
 タトエは続く母の言葉を鋭く切り捨てた。
 涙をいただくように、母から「それでも生まれたあなたはかわいかった」などと言われたら、憤りが治まらなくなる。
 昔から分かっていた。タトエは父にも母にも愛されている。だけれど、母から注がれてきたのは絶対的な愛情ではない。幼子のように万能感を抱ける愛し方が今更恋しいわけでもないが、条件付きの愛というものを与えられてきたと突きつけられると苦しくなる。
 自分はいい子にしてきたのに、どうして、という情けない考えまで浮かぶのだ。
 タトエは俯く。 
 自分は結局、誰でもよいから愛されたかっただけだ。だから、常に礼儀正しく慎ましく振る舞ってきた。そうでもしたら愛されるという打算は醜く、そうした自分がタトエは嫌いだ。そして、紛れもない愛情を向けてくれるソレシカを信用できない矛盾が、息苦しい。
「タトエ」
 耳に落ちた母の声はいままでとは違っていた。大人に話す冷静な色をしている。
 タトエも思わず顔を上げた。
 ケレトはタトエを抱きしめない。だけれど、真っ直ぐに目を合わせることによって、受け止めてくれていた。
「トリルさんにとって、タトエは順番なんてものをつけるまでもないくらい、大切な存在なの。私は身勝手だから、自分の人生とやらを求めて、タトエやトリルさんを傷つけているけれど。それができると思ったのは、トリルさんはタトエの全てを惜しみなく愛してくれると信じられたからなの」
 ダイニングテーブルに置かれた、ケレトの手がテーブルクロスをつかんだ。
 母はいま、大事なことを伝えようとしてくれている。
「だからね、タトエも。愛であろうとも、夢であろうとも、もっと別の何かであろうとも。まずは選ばないとだめなのよ。その、惹かれあっている友達のことを羨ましく思うよりも。まずは告白してきた相手に、応える必要があるかどうかもよく考えて。そうして、何よりもタトエが好きだと胸を張って言えるものを見つけないと、何も始まらないわ」
「母さん」
「タトエ。教えて。あなたが好きなものはどういうものなの?」
 その問いに、タトエは喉を詰まらせた。
 結局、母さんは何を悩んでいたのかはとっくに分かっていたらしい。それくらい、セイジュリオに行くまでの間、僕のことを見ていてくれていた。
 傍にはいてくれなかったかもしれないけれど、母さんなりに僕のことを心配してくれていた。
 だけど、僕はまだ。愛されることを欲するばかりで、何を愛するかという始まりの一線すら越えていなかったんだ。
 タトエは目を閉じる。
 自分が好きだと言えるもの。奪われたくないもの。それらはまだ微かな輪郭ではあっても、確かにこの胸の奥に存在している。
 だから、言える。
「僕が好きなのは、カクヤやサレトナ。万理やアユナといった友達に、マルディさんというなんとなく気になる人もいる。他には星が好きで、祈りが大切で、最近は下宿先で教えてもらった、カクテルを作ることも楽しいんだ。ギターだって、始めたから」
 あとは、ソレシカの存在もあるけれど、彼に対してはまだ名前が付けられない。
 唐突な始まりから隣にいるようになって、最初は迷惑だとすら感じていた。だけど、短くも長い四ヶ月を過ごす間に、隣にいられても困ることはなくなっている。
 紅茶にミルクが注がれるように、ソレシカの存在は僕の中に染み渡っていた。
 ケレトはタトエの言葉を聞くとゆっくりと、頷いた。顔にはいつもと同じ笑みが浮かべられている。
「大切にしなさい。タトエの、あなたの心を動かすもの全てを」
「うん」
 五分間が終わりを告げる。
 それから、少しの間を置いて家の扉が開かれた。

第八章第七話



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