夏であっても冷たい手

 カクヤは鞄に洗濯を終えたタオルをしまい終えてから、もう一度荷物を全て取り出した。荷物に入れ忘れがないか確認をする。
 故郷であるルリセイの街に住んでいた頃は旅行などほとんどする機会はなかったというのに、セイジュリオへの転学が決まってからは外泊をする機会が増えた。初めはセイジュリオの転入学試験、次にアルスでの下宿先を決めるための見学、そして今度はルリセイにも帰郷するが、一番の目的はサレトナとタトエと共にロストウェルスへ行くことだ。
 鞄に入れ忘れた荷物がないことを確認したカクヤだが、喉の渇きを覚えて一階に下りることにした。明日について、サレトナと話でもしようと向かい側にある扉を叩く。
 返事はなかった。カクヤはもう一度、扉を叩く。
 だが、扉の向こう側からは声どころか物音もしない。サレトナはどこかに出かけているようだ。
 肩透かしを食らった気分になりながら、カクヤは一階に下りて、沈黙の楽器亭の厨房に入る。客のための食事を作っている調理人に許可を得てから、自分用の青のカップに冷やした紅茶を注いだ。こくこくと飲む。空になったカップを片手に、合間を見て、流しで洗うとまた食器棚にカップをしまった。
 さて、どうするか。
 食堂を見るとカーテンがふわりと揺れている。外に出て風を浴びるのもよいかもしれない、と考えて、カクヤは外に出た。その勘は正しかったのだろう。
 サレトナが沈黙の楽器亭の前でまだ明るい空を見上げている。風に揺れる橙色の髪は、猫であったら思わずじゃれついてしまいそうなほど、舞い踊っていた。
「どうしたんだ?」
「カクヤ」
 サレトナはゆっくりと振り向いた。カクヤも扉を閉めて、サレトナの隣に立つ。
 吹き付けてくる夏の風は春に比べると全身にぶつかってくるようだ。それでいて、わずかながら暑さを忘れさせてくれる。大陸の中心にあるアルスでさえもこの程度の茹だりですむのだから、明日から向かうロストウェルスはさらに涼しいだろう。
 だけれども、サレトナに「明日からロストウェルスだな」とはどうしてか言えなかった。故郷であるとはいえ、サレトナが積極的にロストウェルスへ帰りたがっていないのは態度から伝わってくる。それでも、サレトナは自身の生まれた場所に帰らなくてはならない。
 すごく苦しい思いをするとわかっているのに、アルスに留まることは許されない。
 カクヤはサレトナといると幸せになれる。自身の罪を突きつけられもするけれど、それでもサレトナといたい。ずっとずっと、一緒にいたい。これからも。このさきも、ずっと。
 だったら、ロストウェルスについて無知ではいられないのだろう。しかし、サレトナにロストウェルスについて聞くのは憚られるという無限の連鎖に陥ってしまう。
 腕を組んで眉間に皺を寄せてしまった。
「カクヤは、やっぱりロストウェルスに行くのはいや?」
「いやじゃないけど!?」
 いきなりのサレトナの言葉にびっくりしてしまい、思っていたよりも大きな声が出た。サレトナもびっくりしたようだが、言葉の意味を理解すると穏やかに笑ってくれた。
「よかった。急に難しい顔をしたから、気が進まないのかと思ったわ」
「サレトナにとっては嫌な場所に、サレトナが一人で行かなくちゃいけない方が俺は嫌だよ」
 返事はなかった。ただ、サレトナは嬉しそうに微笑んでくれている。そっと手を伸ばして、カクヤのパーカーをつかんだ。小さなつかみ方だった。簡単に振り払えるけれど、自分は絶対にそんなことをしないとカクヤは決めていた。
 サレトナにとって、誰かに手を伸ばすことはとても難しいことだから。本当は手を繫いであげたいけれど、いまはサレトナがつかんでくれたことを大切にする。
「明日から、ロストウェルスへ向かうでしょう。故郷に帰省する。それだけのことなのに、不安になってしまうの」
「大丈夫だよ」
「うん」
 ありきたりな言葉だけれど。
「俺が、サレトナのそばにいるから」
 それだけはどうしても伝えたくて、サレトナに信じて欲しかった。
 自分はありふれた学生で、数少ないおかしな点はもしかすると人の命を奪ってしまった可能性を抱えているということだ。その罪を許してくれたのはサレトナだから、カクヤはサレトナのそばにいたい。
 サレトナはカクヤを救ってくれた。だったら、今度は自分がサレトナを助ける番だ。
 あの夜に繫いだ手の温もりを忘れないためにも。
「さ、夕食でも食べるか」
「ええ」
 カクヤのパーカーの裾をつかんでいたサレトナの手が離れる。その手を、一瞬だけ、カクヤはつかんだ。
 細くて柔らかくて、夏であってもひんやりとした手だ。
 サレトナは驚いた顔をしたけれど、すぐに手を放されて、息を吐く。
「どきどきするから、やめて」
「はい」
 こういうところが可愛いんだよなあ。



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