ユユシの控え室は西棟の一階にある付与室だった。
用意された椅子に座り、愛用の靴の調子をフィリッシュは確かめている。何度も靴紐を結び直しながら一番安定する硬さを探していた。
落ち着かないのだろう。そのことは指摘されるまでもなくフィリッシュが一番理解している。
だって、サレトナと戦うなんてこと、初めてだから。互いに戦意を宿して向かい合う事態に陥るのは予想外がすぎる。
フィリッシュとサレトナは同じロストウェルスの地に生まれた。とはいっても、育った環境は大きく異なる。かつては名門であり、いまではごく平凡なロストウェルスの護衛の一族の末娘がフィリッシュだ。反して、サレトナは未だ神職と尊ばれる血筋とロストウェルス領家の子女である。だが、シルスリクにかつて存在していた身分制度などはすでに古びた遺物になって久しいため、フィリッシュとサレトナの友情に上下関係などない。
自分たちは親しい友人だ。いまだって、胸を張ってそう言える。
だけれど、これから始まる試合には敵同士として真剣に挑まなくてはならない。わざと講評試合で負ける気はないのだが、もしサレトナに怪我の一つでも負わせたら、家族やロストウェルスの面々からは大いに呆れられるだろう。
溜息にならないように、口を閉じて息を吹き出していると、影が落ちる。顔を上げると清風が目の前に立っていた。
いつものように緑のバンダナを巻いて、金色の髪を照明により輝かせている。清風の内面から発される光はいつだって眩しい。黄緑色の瞳から透けて零れ落ちている。
「どうした。腹でも痛くなったか?」
「違うわよ」
強い語調で否定した。そのまま腕を組んでそっぽを向くと、清風は椅子を持ってきて正面に座ってくる。
言葉は発しない。フィリッシュが自分から話し出す時を待っている。
清風の優しさがチャプターのリーダーによるものなのか、同級生によるものなのか、それとも清風自身の優しさに由来するものかがわからない。義理でされるのならば何も語りたくなかった。
清風の優しさによって触れてもらいたかった。
しかし、消えない静寂に根負けしたフィリッシュはぶっきらぼうに言う。
「これから、サレトナと戦うと思って。少し緊張してるだけ」
「なら、フィリッシュはロスウェルちゃんまで狙わなくてもいいぜ。点は俺たちが稼ぐから」
「だめ! そんな中途半端は許されない」
一度勝負に出たのならば、勝つか負けるかしかない。そのことは十二分にわかっている。フィリッシュも趣味や娯楽として蹴技を習得してきたわけではないのだ。
戦うのならば、誰であっても勝ちたい。それは本音だ。
しかし、同時にサレトナを傷つけたくない、傷つけてはいけないという自動思考が勝利への欲求を縛り付けてくる。
清風は黙ってフィリッシュを見ていた。口をゆっくりと開く。
「中途半端じゃない。これだって、戦略だ。もし争いが起きたのなら、できるだけこっちに有利に終わらせることは必要だろ。かといって、相手を全滅させる必要もない。相手を根絶やしにしてしまったら、必ずどこかで同じ争いが生まれる。だから、フィリッシュがロスウェルちゃんを倒すんじゃなくて、降伏させたいのなら、それでいいんだ」
「まあそっちの方が難しいけどな」と言うだけで、清風は「サレトナを倒せ」とは決して言わなかった。普段のチャプターでは勝利を目指して猛進しているというのに、相手を気遣うことができる。
フィリッシュは靴のつま先を床で叩いた。すでに、試合に望む体の準備は終わっている。あとは、心だけだ。
万理とルーレスに視線を移すと、それぞれゆったりと落ち着いた様子で椅子に座っていた。視線に気付くと頷かれる。
細く、息を吸う。
「清風。私とサレトナについて、聞いてもらっていい?」
「ああ。なるべくダイジェストで頼むな」
要件をまとめることは苦手なんだけどな、と内心げんなりした。
>第五章第七話