竜が、口を開く。
本来なら巨大な顎を持って敵を噛み砕くはずの口は、いまは人と同じ程度の大きさで開かれて、確固たる言葉を紡いだ。
「リブラスを祝いたい」
言い出したのはアルトーという白銀の鱗を備えているはずの竜だ。しかし、鱗の代わりにその体を覆っているのは腰まで届く長い銀の髪だった。縦に裂かれた瞳孔の赤い瞳、肌は白くきめ細やかで顔立ちは端正だ。服装は緑色の緩い衣の上に白い布を巻いている。
その姿は百人のうち九十九人は人だと言える姿だった。残りの一人は何事にも例外があるということで残しておく。
両手で袋四つほどの荷物を持ちながらアルトーが口にした言葉に、共に買い出しに出ていたカズタカはなんと答えるか一瞬、ためらった。
カズタカは細い銀縁の眼鏡だけが特徴的な、平々凡々の青年だ。髪は黒で左分けにしながら短く揃えられていて、肌はわずかに黄味を帯びており、目は熟成された琥珀酒の色をしている。服装は青いジャケットに黒のシャツとスラックスといった特徴は薄いが機能的な格好でまとめている。
カズタカは荷物を二つほど持ちながら、右手のメモを見て買い残している物はないか確かめているところだった。後に回そうと決めていたバターを買わないと、と考えていたその時に、急なアルトーの発言が飛び込んできたため意識が持っていかれる。
現状を確かめよう。そのためにカズタカはこれまでの過程をたどっていく。
今日は晴月十日で自分たちは買い物に出ている。自分たちとは「銀鈴檻」だ。銀鈴檻とは爛市メロリアの市長を雇い主としながら宿「調律の弦亭」に属する、都市の万能屋の仕事をしている。
アルトーが口にしたリブラスも銀鈴檻の仲間の一人で、魔術師だ。魔術師なのだが傍迷惑極まりない感性と誰の起こした不穏なことをも迷惑だと感じない底の空いた広い器を兼ね備えている魔術の信奉者が、リブラスだ。
ようやく思考が追いついたカズタカはアルトーに尋ねる。
「リブラスの何を祝うんだ?」
「誕生日。あいつは十三日が、誕生日」
言われてみればそうだった。あと三日で、リブラスは一つ年輪を刻むことになる。
カズタカも纏月にささやかだが祝ってもらえて、アルトーも星月に初めての誕生日を銀鈴檻の全員で祝福した。それでリブラスの誕生日は放っておくというのは居心地が悪い気が一瞬だけする。
カズタカは結構な頻度でリブラスによる悪意のない被害を受けていた。賛月にはお気に入りのティーポットを爆破されそうになり、詞月には魔術の練習の相手をしてもらいたいと頼まれて、了承するまではよかったが、結果がよくなかった。リブラスが開発した新しい雷の魔術は成功したのだが、そのためにカズタカの水魔法は一時的にだが封じられることになった。そのせいでリーダーのハシンに二人揃って説教されてしまう羽目になったくらいだ。
他にも挙げていくと終わりがない。自分もリブラスに負担をかけているところはあるだろうが、それ以上にこちらの精神的負担が大きかった。だというのにリブラスが仲間から外されないのは、ハシンの判断を全員が信頼しているためだろう。実際に抜けられると補充できる戦力の当てもない。
結局は、自分もリブラスが嫌いではない。だから彼の誕生日を祝うことに反対しようとは思わなかった。
しかしどうしてアルトーはリブラスの誕生日を祝いたい、などと率先して言い出したのだろうか。彼は竜属なのもあって、無口であり人の機微も多少ながら疎い。いま学んでいる最中だから責めたいと考えたことはないが、純粋に疑問だった。
カズタカの視線に気づかずに、アルトーは真剣に考え込んでいる。
「リブラスがもらいたい、されて嬉しいことはなんだろう」
「魔術関連しかないだろうな」
三度の食事や睡眠よりも魔術の探求が好きなのだ。あれは。身だしなみには気を遣ってくれているが、それ以外のことは溜息を吐くくらいに言わないと気づかないのがリブラスだ。
アルトーはいまだに考え込んでいる。
「誰か、リブラスに詳しい人」
「いるのかね」
自分の記憶喪失も含めて銀鈴檻の仲間たちの過去も現在も、未来すらも謎ばかりだ。それぞれが己についての話をする機会はこれまでなく、いまだって特に知りたいわけでもない。それでも大仰な悲劇を隠していることはないだろう。
全員が答えのない影を抱えて生きている。それだけだ。
そうしている間に角を曲がって宿場通りに入り、アルトーとカズタカは調律の弦亭に帰ってきた。
扉をくぐり、広いラウンジを抜けてから食堂へと移動する。テーブルに買い物袋を置いて、調理場に持っていく物と仲間に頼まれた物へと仕分けていく。
リブラスの誕生日を気にせずに淡々と分けていると、ネイションが入ってきた。
吊り目で、カズタカと同じく眼鏡をかけている。緑がかった黒髪を緩やかに左側に流して、臙脂色のカットソーの上に服を肩から巻き、上着より色の薄いスラックスを履いている。
「お帰りなさい、お疲れさま」
「ただいま」
返事だけをすると、ネイションは仕分けられている荷物の小山の中から一つの果物を手に取る。それはつぶつぶした黄緑色の実だった。
「あら。これ、リブラスが欲しがっていた黄緑葡萄じゃない。よく見つけられたわね」
アルトーはネイションのその発言に手を止めた。びっくりしている。そのまま、恐る恐るといった様子で、ネイションに尋ねた。
「ネイション。リブラスの欲しいものを知っているのか?」
「それなりにはね。よくおねだりされるもの」
手を動かしながら話を聞いていたカズタカは、そういえばネイションは会計を務めていて、よくリブラスに無茶な発注をねだられていたことを思い出す。意外なことを知っている人は意外な場所にいるものだ。
「教えてくれ。リブラスがもらって喜ぶものを」
アルトーは実を手にしているネイションの手首を掴む。特に気にした様子のないまま考え込むネイションだったが、それを許さない存在がいた。
「アルトー、落ち着きなさい」
穏やかだが逆らいがたい静かな威圧に満ちた声は、リンカーの発したものだった。また面倒な輩が来たとカズタカはげんなりする。
リンカーは外見だけならば気品ある美しい青年だ。白金の髪は首筋まで緩やかに流れていて、青い瞳には長いまつ毛の影が落とされている。長身かつしなやかな肉体を青い神服に包んでいた。
その青年はネイションに恋をしている。明言しているわけではないが、銀鈴檻で知っているものは知っていて知らないものは知らない程度の匂わせ方だ。
アルトーはネイションの手首から手を離す。それに、よろしいとでも言うようにリンカーは頷いた。近くから見ているとなんて大人気ないのだろうと感心してしまう。
「それで、何があったのですか?」
「かくかくしかじか」
古典的な内容説明の言葉をリンカーは使ったが、当然それが伝わるはずもなく、リンカーは曖昧な笑顔で首を傾げるだけだった。
関わりあいたくないと黙っていたカズタカだったが、そろそろ会話に加わらなくてはならないらしい。
「アルトーはリブラスの誕生日を祝いたいんだとさ」
「すみません、カズタカの説明もよく分かりませんね」
やっぱりこいつはいやな奴だ。それともリブラスを祝うということを理解したくないのだろうか。リンカーもカズタカほどではないがリブラスの行動による害は被っていて、またネイションに素直に甘えられるからと毎回リブラスに圧をかけているのはカズタカも知っている。ただリブラスはそれに反応するほど繊細な神経を持ち合わせている相手ではないため、毎回徒労に終わっていることも気づいていた。
だからといって同情する気は一ミクロンも湧いてこなかった。そもそもリンカーとネイションの恋路を応援する気すらないのだ。積極的な邪魔はしないが応援もしない。
「リブラスの誕生日をアルトーが祝いたくて、そのためにリブラスの欲しいものを私から教えてもらいたいんでしょう?」
鈍感に見せかける相手とは違って、ネイションは理解が早くて助かった。アルトーも何度も頷いてそういうことだと示している。
「俺とアルトーだけじゃ手に余るから、手伝って欲しいんだが」
「私はいいわよ」
「まあ、仲間ですしね」
ネイションという心強い味方とリンカーという力はある味方が加わった。これで大抵の問題には対処できるが、アルトーは言う。
「ハシンにもお願いしてくる」
それだけ言うとアルトーはハシンを捜しに部屋を出ていってしまった。食堂に残されたカズタカはまだしまい終えていない食料品を冷蔵庫にしまっていく。この冷蔵庫は溶けない冷気を常にまとい、冷気を発する氷を中に入れているため食材の劣化を遅らせることを可能にした。普及はしているが、大きさによって値段は変動する。銀鈴檻にある冷蔵庫は大きい部類に入るだろう。
カズタカは効率よく、見栄え良く冷蔵庫に買ってきた食料品をしまっていくが、残ったメロンミルクをリンカーに渡す。
「いりません」
「なら買い物メモに書くな」
「書いていませんよ」
静かに睨み合う。カズタカはメモを取り出して、リンカーに見せた。揺るがない証拠を突きつける。
「ならこのメロンミルクの下に書いてあるアールはなんなんだ」
「リブラスのアールじゃない?」
ネイションの意見を聞いて、一度舌打ちをした。
「ややこしいな!」
「八つ当たりしないでください」
そこにハシンとアルトーが戻ってきた。そのハシンにリンカーは押し付けられたメロンミルクを渡すが、ハシンは飲むことなく冷蔵庫に入れて、扉を閉じた。
アルトーから話を聞いていたらしく、ハシンはリブラスの誕生日を祝うことに反対しなかった。
「仲良きことは美しきかな、だよ」
しみじみと言って、推奨するくらいだ。
そうしてリブラスの誕生日という議題は机上にあがり、ハシンが上座に座るとその向かいにカズタカ、隣にアルトー、一つ席を空けてネイションとリンカーが向かい合って腰を落ち着ける。
即席のリブラスの誕生日を祝福する会が始まるが、最初に口火を切ったのはネイションだった。
「リブラスの欲しいものはそうね、限りがないわ。たとえば太陽の光を集めた魔力炉だったり、虹の結晶体とかね。他には」
「もっと平和なものを挙げてくれ」
元から魔術が関係すると暴走するがかろうじて事故を起こさない人間がリブラスだ。それほどの材料を与えて作られる魔術やアーティファクトがかわいいものであるはずがない。できるのならば、ただの装飾で済む程度の穏便な物を贈りたかった。
「そうね。ならインクとか」
「へえ」
「ただ、全属性分欲しいみたいだから一本1000クルツとして」
「もう少し安価なもので」
今度はハシンから注文が跳んできた。100クルツで四人家族の一ヶ月の生活費に相当するのだから当然の要求だ。銀鈴檻も結構な額の収入を得ているが、羽振りが良いわけではない。公務として働いているのだ。
ネイションはその要求にどうしたものかと案じる顔をする。その表情を見ながら、リブラスは無茶な強欲を知らぬ間に発揮していたのだと知った。本人は金銭をただの対価としか見ていないため、自分の望んでいるものがどれだけ高価なのか、どれだけの時間と労力を必要とするのかまでは気づいていないのだろう。本人は望んだ物を手に入れるための努力を苦に思わないのも、一層その無知に拍車をかけている。カズタカは今度、リブラスに注意する必要があると胸に刻むことにした。
「ネイションが案を出してくれているのに厳しくありませんか?」
「だからって、予算には限りがあるんだよ」
それぞれの立場で自分の意見を主張するリンカーとハシンの応酬を聞きながら、最初に考えついたアルトーはしょんもりとしている。余計なことをしてしまったのか不安なのだろう。
アルトーは悪くない。リブラスが強欲なだけだ。
「そうね。だったら、遠鳴石とかどうかしら?」
「とおなりいし?」
アルトーが返したので、カズタカは補足の説明をする。
「過去を閉じ込めながら鳴り響くって言われている石だな。手に入れるのはそんなに難しくないだろうが、どこにあるんだ?」
ハシンが食堂にも置かれているアイテム図鑑を取り出した。該当するページに目を通すと顔を上げる。
「作れるし、買えるし、特定の生物から採集もできるけれど。買うのも拾うのも海沿いの街ではないと厳しいね」
いまから移動して、買い取るか採るという選択をするには少々時間が足りなかった。銀鈴檻たちが拠点にしている爛市メロリアは海よりも山に近い。
「じゃあ、作ろう」
「やる気は買うけれど、アルトーには少し難しいね。作るとしたらカズタカに頼むことになるだろうから、ネイションは作り方の本を借りてきて。リンカーは荷物持ち」
「承りました」
仰々しい言い方で丁寧に受けるのはネイションが絡んでいるためだろう。
見事に現金な相手だと呆れながら、カズタカはハシンの指示に了解と返した。
ネイションとリンカーは本を借りにいった。以前は司書として生計を得ていたネイションだから、本を調べて見つけるなど、一人でも容易いだろう。リンカーは文字通り荷物持ちと護衛でしかない。
アルトー、カズタカに加えてハシンがその帰りを食堂で待っていると、来た。
今回の望まれていない主役が寝ぼけ眼で扉を開けて入ってきた。
「あれ? 三人はなにしてるのー?」
「わくわくすることだ」
そんなにしてはいない、という言葉をカズタカは飲み込んだ。野暮であるし、礼儀や気遣いにも反している。アルトーが楽しみにしているのなら水を差すことはするべきではない。
リブラスは周囲を見渡す。ここにいない二人についてか、首を大きく傾げた。
「リンカーとネイションはいないけれど、ついにデートに誘うことに成功したのかな。いいなあ、僕もついていきたかった」
「何をするつもりだ」
「それは遠くからあたたかーく見守って、いい雰囲気になったら雪を降らせてあげるとか心ときめく素敵なフォローを入れてあげるんだよ。なんだかんだでリンカーも直接押すのは苦手だから、仲間としてそういう後押しをしてあげなくちゃね!」
「いまは夏だ」
親指を立てて言い切るリブラスに対して突っ込みたいところが数多くあり、的をずらす返しをしてしまった。それでも、リブラスは二人の恋路を応援する気があったというのは驚く。気づいていないか、どうでもいいと考えていると思っていた。
「まあそうだねえ。でも夏の雪もろまんちっくじゃない?」
その感性は理解しかねる。
「二人の楽しそうな会話はその辺りにしておいて。私たちはカレット遺跡に行くけれど、リブラスはこの後どうするの?」
ハシンが切れ目よく話題を変えてくれる。その辺りの間の繋ぎ方の巧みさは自分にはないものだから、カズタカは毎回感心してしまう。
「カレット遺跡かあ」
爛市メロリアの近くにあるカレット遺跡は未来が忘れて置き去りにした遺跡と呼ばれていて、中には解析途中の装置があり、その装置は指示された物か指定された任務をこなすと願ったものと交換してくれる機能を備えている。
遠鳴石の材料を調達するために、ハシンはその場所を選んだようだ。
「僕がいなくてもいいなら、行かないかな」
「ああ。三人で十分だろ」
リブラスの誕生日の贈り物のために行動するのだから、本人をついて来させるわけにはいかなかった。特段サプライズを企画しているわけではないが、秘密にしておいてから明かした方が粋だろう。それを察してくれる感性が当人に備わっているかは不明だ。
リブラスは大きな欠伸を一つして、去っていく。
その後ろ姿を見ながら、カズタカは自分もリブラスについて詳しく知らないな、と今更ながらに感じた。仲間になって最初に会った時は人懐こいという印象を受けたが、その後は人懐こいのではなく、人慣れしているのと自分に正直なだけだということを痛感させられた。いまだに初期にリブラスが引き起こした、あの騒動は忘れられない。無事に解決はしたが、ハシンも厄介な相手を仲間に選んだものだと怒りたかったが、じわりと響く頭痛を抑えるのに手一杯で文句の一つも言えなかった。
それからもう、どれくらいの時が過ぎただろう。
カズタカが感慨に耽っている間に、アルトーがハシンに質問をする。
「カレット遺跡でとおなり石はもらえないのか?」
「まあ、それも考えたのだけれどね。今回は作る石にどういった過去を刻むかが大事だから。というわけで、頼むよカズタカ。繊細な指先の本分を発揮してくれるね」
「はいはい」
いつも厄介なことばかりを押し付けてくるリーダーだ。
また、扉が開く。リンカーとネイションが戻ってきた。
「お待たせ」
そうしてネイションはリンカーが持つと譲らなかったであろう本を開く。遠鳴石の項目に書かれている製作に必要な材料は、以下の通りだ。
「静海の雫」、「鯨の鳴き声」、「タタエ石」の三つになる。
「鯨の鳴き声に関しては他のものでも代用がきくみたいだけれどね」
ネイションが補足する。ハシンは素早く三つの材料を持ち歩いている手帳に記して、顔を上げた。
「ありがとう。私はカズタカとアルトーとこの材料を取りにいくから。留守番と、リブラスを頼むよ」
「気をつけてくださいね」
ハシンは頷いて宿を出ていく。その後にカズタカとリンカーも続いていった。
整備された街道を歩き、カレット遺跡に辿り着く。
カレット遺跡はわずかに発光していて、青緑の石材に魔力を込めたのか、それとも別の材料で組み立てられたのかも定かではない。外見だけでも現在の技術では解明できない未知が詰め込まれている。さらに未来の人は清潔好きなのか、経年してすすけはしても不快な匂いが漂っていたり、道が悪路になっているといったことがない。
何度も訪れて慣れた通路を歩く。時折用意されている警報装置だけは外すように気をつけることは忘れない。それは主に探索を得意とするハシンの担当だった。だからハシンを先頭にして、カズタカ、アルトーといった順番で進んでいく。
何度も左右に曲がり、直進したところで一つ目の交換所へ出た。部屋は正方形の形に広がっていて、中心には赤い台座が立てられている。台座の上には透明な箱があった。
ハシンはためらいなく素材交換のための装置に近づき、音声で入力していく。
「タタエ石が欲しい」
『当方は紫真珠を対価に求めます』
そんなもの用意していただろうか。常に持ち歩く背負い鞄を開ける前に、ハシンが紫の真珠を透明な箱の中に入れていた。一瞬、箱の中が光で染まる。その眩しさに目を閉じてから、開けると箱の中にあるのは緑色のタタエ石へと変化していた。
「持っていたのか」
「ここにくるのなら、収集品の本は持参して当然でしょう」
もっともだった。ぐうの音も出ない。
タタエ石を回収してから、また遺跡を歩く。たまに階段を見かけることもあるが、先頭を進むハシンはそちらに目もくれずに進んでいくので、カズタカも従うことにした。道具の鑑定や知識も年下のハシンの方が詳しい。階層を移動するほど、今回必要な素材の対価が高くないことを知っているのだろう。
次の素材交換の装置にたどり着く。先ほどと変わらない作りだ。正方形の部屋の中心に装置が佇んでいる。
ハシンが鯨の鳴き声を要求すると、また声が返ってくる。
『鯨の鳴き声は熊の爪と交換です』
それは幸運だった。
以前に、アルトーの誕生日を決めた日に熊らしき生物と戦ったことがある。その爪が認められたらこれで二つ目の素材回収は終了だ。
カズタカはハシンに視線をやるが、その顔が気難しいものになっていたので驚く。
「忘れた」
「前に、戦わなかったっけ?」
アルトーも疑問を口にするが、ハシンは首を縦に振ってから横に振った。特に弁明もしない様子から察すると、純粋にしまい忘れていたらしい。
装置はまたも問いかけてくる。ハシンは「ない」と答えた。
それで装置は交換を諦めてくれるほど情け容赦はないシステムではないらしく、一つの提案をしてくる。
『いまこの場で素材を収集しますか』
つまりは熊と戦えということだ。
「うん。そうしよう」
「いやだな」
「どうしてだ? リブラスのためだぞ」
「いーやーだーなー」
情けない訴えを繰り返すが、すでにハシンとアルトーは熊を探しに行動している。ここで一人になるのも二人だけにするのも危険なため、カズタカはついていくことにした。
それにしても、この時点でリブラスの誕生日に対して割に合わない労力を使っている気がする。すでに一仕事片付けている気分だ。先程「熊と戦うのはいやだ」と言ったのは本心だが、ここで投げ出すのも癪な気がする。
決して、リブラスに強い好意も深い慈愛も持っているわけではないのにどうしてここまでできるのだろう。
ハシンとアルトーも義務ではなく、積極的に行動できているのだろう。根が純粋なアルトーはともかくハシンは計算して行動する。その計算した上で得るものがあるのか、それともリーダーとしての義務感か。聞くに聞けなかった。
考えて歩いている間に、ハシンが静かにするように指示を出す。
熊は、広い空間に用意されていた。丁寧なことに眠っているわけでもなく、うろついている。
戦闘に入る前に、カズタカは敵の攻撃の威力を和らげる魔法を編んだ。
「五賢人の知恵を掴みし我はこの場に守りを敷かんとす、緩護陣!」
周囲に淡い緑色の光が漂ったあとに、それぞれの体へ収束していく。
「じゃあ、いこう」
アルトーの言葉を皮切りにして戦闘は始まった。
熊が気配に気づく前にアルトーは剣を抜き、駆け出していく。そのまま腹に横薙ぎの一撃を喰らわせて、相手の怒りを喚び起こす。人の身勝手によって生贄と定められた熊は、それでも強者のプライドからか咆哮を上げてから、アルトーへ傷など負っていないかのような俊敏さで攻め寄ってくる。鋭い一撃を、アルトーは剣で逸らした。
その間にハシンは翔ける。ただ翔ける。アルトー以上に興味を惹かないように気をつけながら銀の軌跡を残していく。
カズタカは情勢を見ながら、熊の機動力を削ぐことにした。
「我が法によりこの場へ導くのは、痺れの七滴!」
熊の傷口、足元へ麻痺をもたらす液体を落としていく。だが、熊だけあって毒や麻痺の耐性が強いのか、効果は十全に発揮されなかった。歩みは止まらず、鋭くアルトーに襲いかかる。猛撃を堪えるアルトーだったが、一瞬、熊の動きが止まった。
ハシンが広げた銀糸に引っかかる。
盾役となるアルトー、妨害を行うハシンとそれぞれ役割は手一杯だ。
自身が止めを刺さなくてはならないと、カズタカは攻撃魔法に転じる。詠唱を普段よりも短く、済ませて得手の水魔法を二連撃喰らわせるのだが、熊はまだ立っている。
目を爛々と輝かせ、全身を血と水で濡らしながらもいまだ剛と立つ猛獣に対しどう相手をするべきか、行動ではなく思考にリソースを割く。
できたらハシンに、動いてもらいたい。
自分では一撃の威力が足りない。だから、一人。
あと一人。
戦闘において、訪れるはずのない最悪の一手に思考が辿り着いた。
それが、割れる。
空間を引き契って現れた甚大なる雷撃は、熊だけに襲いかかり、縦横無尽に駆け巡るとその身を焼き焦がして、息絶えさせた。
唖然として、言葉が出ない。
かつ、こつと靴音を響かせて一人の人間が現れる。
「やっぱり楽しそうなことしてた!」
呑気に笑うその表情を見て、近づかれて手を差し出されると、一気に力が抜けていった。
どうして、こいつは。いつも厄介なことを引き起こして散々迷惑をかけるというのに、美味しい場面もさらっていくのだろう。それが腹立たしいというのに。
どれだけの悲しみや苦しみを味わおうとも、素直に生きることの楽しさを証明する。その強さが眩しい。
カズタカはリブラスの手を掴んで立ち上がった。ハシンとアルトーは、熊の爪をもう回収している。これで、鯨の鳴き声を手に入れたら、あとは静海の雫を手に入れるだけだ。
あと少しで、この傍迷惑な誕生日に捧ぐ一日も終わる。
「で、カズタカたちは何をしているの?」
「あとで話すから、いまはやらなくてはいけないことを終わらせるよ」
唇を尖らせるリブラスに言う。
「あとでわかるから。いまは、感謝しろ」
ここできょとんとした顔でリブラスを見つめているアルトーに。