花園の墓守由為編第八章三話『書館は神秘でできている』

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 自分の部屋でも、花園でもない、どこにいるよりも透明な匂いがして目を覚ました。少しだけ人工的で、大部分が自然のものによるさっぱりとした薫り。彼岸の花で言ったら青の花を抽出した薫水が近い。深く息を吸うと頭の奥を占領している熱や痺れが抜けていく。靄のかかった思考が晴れやかになる。
 由為は瞬きした。滲んでいた視界が鮮明になっていき、目の前にいるのは。
「ファレンさん……」
「久しぶりだな」
 カーテンの開けられた縦長の窓から差し込むのは空の網から振り落とさてしまった光で、桜色の髪は神秘として照らされている。滑らかな頬の輪郭も同様だ。色は白い。中心にある金の瞳と緑の細い瞳孔だけが折れることも曲げられることもないしなやかな意思を形にしていた。
 傍にいる女性を見つめて、思い出していくと同時に由為は強い罪悪感に襲われた。此岸に渡ってからいまこのときまで、一度たりともファレンのことを思い出したことがなかった。考えなかった。少しも脳裏をよぎることすらなかったのが、怖かった。尊敬している人が愛する人だと知っていたのに此岸にいるあいだは面影すら欠片も浮かばず、ファレンの存在は消去されていた。仕事の重圧や変革を覚えたてによる興奮が原因だとしても、忘却が異常なことだと分かる。
 由為はファレンという存在をこの瞬間まで無に帰していた。
 何も言えずにいる理由を察しているだろうにファレンは責めることなどしない。穏やかに心配してくれた。
「体はもう大丈夫か? 衛が驚きながら担いできたんだぞ」
「あ、はい。大丈夫です。ちょっとまだ、だるいだけで。心配かけてすみません」
「ははは、俺は見守っていただけで何にもできていない。だから謝らなくていい」
 何もできない。それはファレンがたまに使う言葉だった。
「ファレンさんは何もできないことが。辛くないんですか」
 口にした問いは唐突だ。由為の口から零れ出た疑問が続くのをファレンは待つ。無言の促しに、言葉は溢れるように流れていった。
「人から忘れられることとか何かしたくても、しても、できないことになるとか。生きていた爪痕を残せないのは悲しいことじゃないですか」
 何も残らないということは結局最初からいなかったのと同じことだ。それは由為が嫌う数少ないことでもあった。
 どうして生まれたかも分からないのが人だけれど、分からないからこそ答えを見つけるためにあがく。為せるものを手にする自由が人にはある。
 だが、ファレンにはない。彼岸以外の自由がない。囚われない風を持っている人なのにその風ができることは彼岸の花を揺らすだけだ。由為が願った違う空を見に行くことすら不可能だと定められてしまった人。考えると、苦しくて、やるせない。
 由為の訴えにファレンは同意することもなく、自分を哀れむ様子も見せなかった。
「忘れていたとしても由為は俺を思い出してくれただろう」
「思い出せたのは、ファレンさんがいま呼んでくれたからですよ」
 言うことをきかない体に無理をきかせて寝台から身を起こす。シーツが動きに合わせて皺を作る。由為は薄い布の中で膝を立てて丸まった。体はいまだにだるい。
 変革ができるようになったから分かる。ファレンは圧倒的に無力だ。自分の意思で存在することすらできない。少しでも無を願われたら消えてしまう儚い命で作られている。最初に会った時に自身を「物語」と言ったのは、比喩でも誇張でもない。
 誰かが綴った虚構としてファレンは生きている。
 その誰かは、おそらく。
「人の寝台でここぞとばかりに睦まないでくれまいか」
「すまない。由為があまりにも可愛いくてな」
「君は目を離せる隙が無いから困る」
 片手で扉を開けて、片手で椀を持っている貴海が近づいてきた。寝台の傍まで来ると腰に手を当てて呆れた姿勢を取られてしまう。
「誤解ですよ」
「それならいい。あと由為はこれを食べなさい」
 明かりは机の上にともされた薄青だけの部屋の中で、ファレンは寝台の足下に移動する。貴海は椅子を取ってきて丸まっている由為と距離を詰めた。匙で椀の中のものをすくいとると差し出す。
「一人で食べられます」
「ならば試しに腕を持ち上げてみるといい」
 言われた通りにする。
 できなかった。力がうまく入らずに腕はすぐに落ちる。けだるさが由為の全身を浸食しているようだった。仕方ないので黙って口を開けることにした。極端に熱くも冷たくもない、ほんのりと暖かい流動するものが中へ入ってくる。ぐにぐにと味わってから飲み込んだだけで頭痛が遠のいていく。貴海が用意してくれた何かの薬みたいなものかと納得して、由為は息を吐く。
「食べられるか」
「はい」
「まずくはないか」
「はい」
 もう一度口を開ける。貴海がまた匙を運んでくる。病にかかった小さな子どもが親に甘えているようで恥ずかしいのだが、まだ腕はうまく持ち上がらないので好意に甘えるしかなかった。
 何度か繰り返されてから、由為は貴海に問いかける。
「俺は何かしましたか」
「変革のしすぎだ。いきなりそこまでするとは予想を越えられたよ、まったく。許可を出すのも考えものだな」
「そうは言うが貴海。だって彼は、由為だもの。お前の想像なんて越えるのが当たり前だ」
「ファレンみたいに手のかかる子は彼岸から一人減ったと思っていたのだが。由為も真面目な問題児だな」
「矛盾してません?」
 真面目なのに問題児なのか、真面目に問題を起こすのかよく分からない言い回しだ。
「してない」
 そう言って笑う貴海の顔はあくどいのに優しくて、ファレンの微笑も楽しそうで穏やかだった。くすくすと響く声は風に揺らされる鈴のようだ。久々に揃って座る二人の姿は自然というよりも当然で、見ているだけで安心する。
 また匙を運ばれた後に尋ねた。
「あの、前に貴海先輩はファレン先輩が好きだって聞いたんですけど」
「その通りだよ。俺はファレンに惚れている。俺の一生をかけることはたやすいくらいに」
 清々しくのろけられてしまった。貴海は照れではなく事務的に椀の中身をかき回して中身をほぐしながら、由為の質問の続きを待つ。そういう勘が良い人だ。
「好きだとしても。ファレン先輩は彼岸でしかいられないんでしょう。俺も此岸に行ってからいまになるまで、嘘みたいにファレン先輩についての記憶が消えてしまいました」
「仕方ないさ。それが物語だから」
 言葉には寂しさも悲しみもなかった。ファレンは虚空にむかって指を一回転、くるりと動かしてからうたいだす。
「越えてはならぬ河を渡り、彼岸のカタリは立ち向かう。此岸のために立ち向かう。花の影と目を合わせ。犠牲を承知で花を執る。全てが綴じられたのならば、此岸は彼岸へ贄を捧げん。感謝と憎悪を返して終われ」
「それは何ですか」
「昔々の、物語の断片だよ。由為は此岸で物語を聞いたことはあるかな」
「ないです」
 此岸に物語はない。だから由為は書館の話にのめりこんだ。いままでにないものをあるように描く奇跡の業に魅入られた。
「此岸に物語がないのは、物語は常に字を更新するから。物語があると新字が生まれる可能性は一気に跳ね上がる。それを止めるために、物語を読むことは彼岸の特権になったんだよ」
「そうなんですか」
「あと物語は武器になる。時に、人の命を止められるほど乱暴な凶器にさせないために、彼岸は物語を独占しているんだ。ずるいと思うか?」
「理由があるなら仕方ないことだと」
「物わかりが良すぎるな」
 違う。物語が併せ持つ弱さと急所をえぐる鋭い切っ先を知っているためだ。物語を読んで本を閉じられるだけなら良い。楽しかった、悲しかった、勇気づけられた。明日を歩く力になるだけならば、物語は背中を押してくれる心強い友でいてくれるだろう。
 だが、人によって物語は変わる。苦しい、痛い、心の臓を裂くことに使われる。物語自体もつたなく愚かしいと嘲笑われる。
 字によって、字を使った言葉によって、言葉の結晶による物語をばらまくように与えられない。いまある現字すら扱いかねている此岸の住人が物語を得るのは危険すぎる。
 由為は彼岸が物語を独占する行為を悪とは断じられなかった。
 貴海にもう一さじ、ぐにぐにする物体を口に運ばれて食べる。飲み込んでから口を開く。
「書館で、この世界を救いかける答えを見つけた気がするんです」
「どうやるんだ」
「そこまでは覚えてなくて。二階にあった本なので、また明日読んでみます」
 気合いを入れる由為に貴海はいつものあくどい苦笑を浮かべた。
「変革のしすぎで酔わないように。今日だって、衛と七日が気付いてくれなかったら朝まで置いていかれていたはずだ」
「……気をつけます」
 最後の一口を食べ終えると急に眠気が襲ってきた。由為があくびをすると貴海とファレンは立ち上がる。ファレンが貴海の腕に自分の腕を絡めると言った。
「ゆっくり休め。貴海は俺の部屋で眠るから」
 はい、とかなんとか曖昧な答えをしてシーツの海にもぐっていく。眠りが深かったのか、由為はその日も夢を見なかった。並んで去っていく貴海とファレンの姿だけが焼き付いて離れない。二人が共にいる姿は見慣れたはずなのに、いつだって寂しい気持ちにさせられるのはどうしてだろう。

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