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まだ、彼岸に多少の光が差していた時代の話だ。
ファレンも世の中のことを自覚し始めたのは、いまより十二年前になる。遅い覚醒かもしれないが、それでも物語としてのファレンは十四歳になるまで眠り続けていたのだから仕方無い。目覚める以前のことは語られる以外に知ることはできなかった。
穏やかな字の海の中で眠りこけていたファレンを強引に起こしたのは、恋物語の王道の相手としては十分すぎる少年、貴海だ。正確にはファレンの父であるノクシスと一緒にファレンの目を覚まさせる手ほどきをしていた。だが、ファレンが目覚めて最初にあげた声は舌っ足らずに「たかうみ!」というもので、貴海は手柄を一人でかっさらってしまうことになった。ノクシスはその時点で「この子と貴海君は結びつきが悪い」と手を上げたと聞いた。あと父親としては寂しかったらしい。
ファレンが目を覚ました彼岸には四人の大人と三人の子どもがいた。
大人は貴海の父である貴弓、ファレンの父母にあたるノクシスと白姫、七日の面倒を主に見ていた水上。子どもは貴海とファレンと七日だ。
楽しい暮らしだった。悪戯好きの貴弓はファレンに新しい術を仕込んでは貴海を相手に実践させていた。たとえば眠っている貴海の腹の上や隣にひそかに花束を仕込むだとか、剣と花を取りかえるなどだ。
「ごめんね。僕たちの物語はなかなか手に負えなくて」
「ノクシスさん、謝らなくて大丈夫です。俺はファレンの悪戯ではなくて父の唆しにはらわたが煮えくりかえっているだけですから」
ファレンを隣に置きながら真顔でそんな返事をする貴海にノクシスは「君も拗らせているなあ」とよく、苦笑していた。
とはいえど貴弓と貴海も仲が悪かったわけではない。真面目な息子は父の所業を許容しがたかっただけだ。普段は気に障る程度でも、ファレンが絡むと一気に短気になるのが貴海という少年だった。
白姫はそんな様子を「あらあらみんな仲が良くてうふふふ」と見守り、最も世間ずれをしていなかった水上は苦笑して七日を膝の上であやしていた。
花の世話も、書館の整理も、なにもかもが楽しかった。
貴弓を先頭にし、ノクシスが危なくなったら止める役を担い白姫はその後ろにつき、貴海とファレンが並んで七日を見守りながら、列の最後に水上がいた。そんな関係だった。
話の中心を貴海に持っていこう。
貴海は父である貴弓よりもノクシスを師と仰いでいた。字の読み方や扱い方もほとんどがノクシスの教えと書物によるもので、剣術だけは貴弓から習っていた。
目の良さはうまれつきでその後に味覚と聴覚を視覚処理の一部になるようにした。舌はぽんこつになり耳も以前ほどうまく働かなくなったが本人は気にしていないらしい。
その点も特徴といえる。
貴海は気にしない。後悔する道を選ばないと決めたので自分に後悔を課すことを許さない。ファレンを守って生きていくにはそうするしかなかった。ファレンを守るために必要な犠牲は全て差し出す。そうして生きてきたのだから自己満足で悔やむことは許されない。
「君はどうしてそこまでファレンを守ってくれるの?」
十年前の白姫による問いへの答えも真っ直ぐだった。
「愛しているからです」
そうして頭を下げて許しを請うてからファレンの一生の供になることを決めた。
だが、大切にされているファレンもいまだにわかっていないようだ。どうして、貴海が自分の幸福はファレンの幸福であることを選んだのか。ファレンは何もできない。返せない。何かを選ぶとしたらただ貴海の傍にいることしかできない。
「おれは、おまえのそばにいるしかできないぞ」
幼いファレンの問いかけに貴海は微笑んで答えた。
「そのしかで十分だよ。俺の隣に君がいてくれる、……それだけでいいんだ」
ファレンはいまだに一つのことしか理解していないのだろう。何があっても貴海の隣にいようと、最期まで見守ろうと決めることしか自分にはできないということだ。孤独な存在に寄り添うためか口調も貴海に近いもので落ち着いてしまった。
「女の子なのにこれはいかがなものか」
と嘆いたのは貴弓だけでノクシスは「切り口の良い物語になったじゃない」と笑い、白姫は「物語に男も女もあるもんですか」と冷めた目で見返していた。
息子よりも責任を感じている貴弓は両親の素っ気ない反応に唇を尖らせた。
「確かに綺麗な桜色の髪をしているのに一人称が俺という女の子もときめくけれども」
「どういう意味なんだ」
「我が子よ真顔で得物を探しながら言うな」
そのような出来事もありつつ、つまり。
「貴海の唯一の弱点は俺だから、怒らせたり絡め取ったりしたいのならばぜひとも利用するといいぞ」
「そんなことしたら俺がろくでなしじゃないですか」
分かるような分からないような過去の話をさせられた由為はそう言い返した。
いまのファレンの話を聞いて分かったのは貴海がファレンに心底惚れ込んでいるということがほとんどだ。二日目あたりに、ファレンが衛に親しげな振る舞いをしたら七日が怒り出したのも多少は理解できる。互いの幸せを自分の幸せにしてしまった二人を長いあいだそばで見てきたのならば、純粋な少女は夢を見てしまう。理想が生まれたのだろう。貴海とファレンがうつくしいのも作用する。
「いまの話が実話だとして」
「本当だとも。俺はそれくらい貴海に甘やかされている」
「ごちそうさまと言えないほどですが、余計にわからないこともあります。一つは、俺にとってファレンさんは貴海さんに愛されている人だとしか情報がないということです」
「物語だ。俺は」
「はい。失礼ながら、どうして貴海さんが物語であるファレンさんに命かけるほど惚れているのかがつかめません。たとえずっと傍にいてくれるからが理由だとしても」
由為は切り込んだ。
受けるファレンはまた頬に手を当てて目を伏せながら考え込んでいる。一度だけ、大きく瞬きをして、頷いた。
「俺とてそこまで貴海に惚れられた理由がわからんのだが。せめて俺が何もできない理由くらいは言うべきだな」
由為は背筋をただした。
ファレンがどうして何もできないのか。それは。
「俺を構成する物語が古字によるものだから。彼岸でしか存在のできない古い文字。いまでは貴海と七日以外はおそらく読めないもの。君や衛やきさらなどは、此岸に戻ったら俺の存在を思い出すこともできないだろう」
言われて思い出した。初日、由為の部屋の寝台を整えるファレンに会うまで、正確には声をかけられるまで由為はファレンのことを認識すらできなかった。
「あの、古字に現字に新字。この三つはどうしてあるんですか?」
「理が字によって作られているためだ。年を重ねるごとに字も変化していく。同時に滅びの定めからは逃れられない」
「ほろび?」
心臓が、どくんと脈打った。思わず服の上から胸のあたりをつかむ。ファレンは由為の不安に気付いているのかいないのか、動じないままだ。
聞いてしまったらどうしようもないことをいま聞いているのではないか。不安とそれでも答えを知りたい好奇心がせめぎ合うなか、ファレンは無慈悲に、不思議そうに小首をかしげながら告げた。
「だって、此岸も彼岸も十四年前に滅びているだろう?」
由為は自分が愚かであることを知った。
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