至はきれいを作り出す

 初めて見た君の泣き顔は「生きては帰さない」という文字でできていた。
 時計の短針は四の数字を回ったばかりで、まだ空は高く濃い水色で夕暮れの気配も感じさせない。校庭ではボールを跳ね回す同級生や下級生たちの声が聞こえてくる。
 ここは二人だけのスクラップなのだろう。
 真道至は四年二組の教室で、涙の残る顔のままロッカーを整理する古仲鳴と出会った。
 真黒い髪と、吊り上がった丸さの残る闇夜の瞳に少しずつ精悍さが生まれ始めた至の顔を鳴はじっと見つめる。その鳴の顔立ちは穏やかではあるが、彫刻刀の危うさがにじんでいた。扱い方を間違えるとざっくりといく。クリーム色の癖のある髪と、白目が赤くなっている浅黄色の瞳、高い鼻に引き結ばれた薄い唇はどれも一級品の菓子のようなまろやかさがある。
 ただし泣き顔がその高貴を崩してしまっていた。
 悲しいことを作られてしまったのだろうな。
「見るな」
 初回からきつい言葉をなげかけられたが、それは崩れかけているビスケットを補強するための言葉だ。ホイップクリームの接着剤で割れたことをなかったことにしようとしている。
 至は鳴がどうして泣いているのかを知らない。
 知らないから、投げた。
 小さな四角い布が、鳴の顔にぽさりとかかる。ある日、入れ忘れても大丈夫なようにリュックの中に隠し持っている、新品の黒猫のタオルハンカチだ。これなら手を洗っても汚れを拭いてもいないから、気持ち悪がられることはないだろう。
 至はそのまま背を向ける。
「みないよ。じゃ」
 そうして昇降口に向かおうとしたのだが、ぐいっと乱暴な力で引き留められる。振り向くとあいかわらず厳しい顔のまま、鳴は下からにらみつけるように見ていた。
 本当に生きて帰してくれないのだろうか。泣くなんてことは、恥ずかしいことでもなんでもないのに。それとも、鳴にとって涙を流すことは許せないことなのだろうか。確かに小学生の後半にもなってぴいぴい泣くことは減ったし、自分が泣くことを許せなくなってはきているけれど。
「名前」
「ん?」
 早口だったので聞き取れなかった。鳴はいらだたしそうに続けていく。
「君の、名前は」
「真道至だ」
「しんどういたる……。あ、僕は」
 知っているよ。
「古仲鳴だろう」
 前に作文を展示されたときにお腹が空いた時みたいな名前だと思ったから、よく覚えていた。
 いつの間にか午後の日差しが濃くなりだしている。もうすぐ夕暮れが始まるのだろう。その前に至には行きたい場所がある。いままで友達の誰にも秘密にしていた、とっておきだ。
「鳴」
「い、いきなり呼び捨てにするな。僕たちは初対面だろう」
「うん。でも俺は、ずっと鳴を知っていたよ。だから行こう。この世界がいちばん、きれいに見える場所へ」
 そこに鳴を案内するのがふさわしいように思えたから、至は鳴に手を伸ばす。
 鳴は、その手をつかんだ。
 右手には顔に落とされたばかりのタオルハンカチを握ったままだ。
「あ」
「なに」
「リュック」
「悪かったな、僕はまだランドセルだよ」
 拗ねながら言った鳴はペパーミントのランドセルを背負って、至の隣に並ぶ。身長の差はさほどなかった。
 至は歩き出す。教室から廊下を抜けて、昇降口でスニーカーに履き替えてから、鳴がまた出てくるのを待った。出てきた鳴の外靴は革靴にも見えるスニーカーだった。
 学校を出てから坂道を下っていく。その間も鳴は無言だった。住宅街にさしかかったところで、普段は使わない帰り道なのか、顔を上げた。
 初めての人と歩く道は普段と同じであっても全く違って見えるのはどうしてだろう。いつもの友達となら、住宅街を歩いていると窓から見える赤と青のクッションも、ふんわりと漂うコロッケの匂いも、いつも人のいない枕屋の重そうな扉なんて気にもしないのに。
 鳴が視線をやるだけで、一つひとつ説明をしたくなる。
「あのコロッケは塾の帰りにたまに買うんだ。あげたてにあたると得した気分になる」
「ふうん」
「で、あそこの枕屋は俺が小さいときからずっとある。枕しか売っていないのに、一度も潰れたことがないんだ」
「入ったことはないの?」
 言われてみると、まだ幼稚園の頃に父に連れられて入った時の記憶しかなかった。
「あるけど。でも、ずっとない」
「どっちだよ」
 声に少し笑いが浮かんだけれど、鳴の顔はまだ仏頂面だ。これは、とっておきのとっておきで驚かせてやらなくてはならない。至はそんな使命感に燃えていく。
 商店街を抜けて、丸いおうとつがいくつもつくられている坂道を上っていく。小さな頃は踏んで歩いたが、いまはもうそんなことはしない。削られて、また整えられる丸がなんのためにあるのかはもう知っている。
 世界は丸いのだと感じさせる坂を登りきる。一番上に、たっとと軽い調子で立った。鳴は少しだけ息を切らしている。それでも、意地を張って至の隣に並んでいた。
 あともう少しだ。
 世界が、いちばんきれいに見える場所まで。
 至は歩く。鳴も歩く。
 そうして、また道が続く前に小さな公園を見つけた。子どもが五人も集まったらはじけてしまいそうなほど小さな公園だ。そこの中心に、どうしてかはしごのついた黄色い丸い物体があった。
 その頂上に座る。先に行ってしまった至を、鳴は初めて追いかけなかった。
「高いところ、苦手か?」
「大丈夫だけど」
「じゃあ、来いよ。俺は待ってる」
 溜息一つを吐いてから、鳴ははしごに手をかけた。一歩ずつ距離が縮まっていき、至の隣に腰を下ろす。何が見えるのか、と問う視線に、真っ直ぐ一本の指を伸ばした。
 それは、世界が溶けていく映画だ。
 見下ろした先には箱庭の家がぎっしりと詰まっていて、明かりはとつとつと息吹を上げるように点っていく。人工の光に駆逐されない星は一つずつ昇っていって紺色の空を照らし出す。世界に帳が落ちていく。
 今日という一日が、終わる。
「これが、世界でいちばんきれいなものなの」
「俺にとってはな。でも、いつかもっときれいなものを、作る!」
 鳴が振り向く。その驚いた顔に至は笑いかけた。
「俺の夢はな、げんそうを演じることなんだ。いまはないかつてあったもの。そんな、きれいなものを俺が表現したい」
 初めて語る夢を笑われたら傷つくな。
 それでも、言いたかった。
 生きては帰さないような目をして泣いていた鳴に自分が差し出せる秘密はこれくらいだから。
「……僕も、なりたいな。至が憧れるほどにきれいなものに。なってみたい」
「じゃあ、一緒になるか?」
「うん」
 そうして至は初めて鳴の笑顔を見た。
 いまだ赤い痕を頬に残しながらも、それでも花弁は開かれたことに、妙に照れてしまう。
 至は前を見る。
 夜という劇場の開演を、初めて誰かと一緒に眺めた。






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