平穏の日を一日挟んでから、花盗人を決行する日は訪れた。昼食をすませて、勝負の条件に挙げられた花を手にして、屋敷を出る。
彼岸の花園で花影たちと対峙した。
青い花園には衛と弦、七日がそれぞれの得物を持って真っ直ぐに花影を見つめている。
赤い花園では影君と花嬢、影生が二日前と変わらない様子で立っている。
ファレンと並びながら二組の様子を見守っている貴海は衛たちに声をかけた。近づいて三冊の緑、赤、青の薄い本を差し出す。
「これは?」
「俺の援護だ。邪魔になったら投げ捨ててもいいが、必要になったら呼び戻すこと。そうしたらどれだけ離れていても本は君たちのところへ戻ってくるから」
「わかった。ありがとう、貴海先輩」
七日の返事が全てだった。
「では、そろそろ争いの地へ行ってもかまわないかしら」
視線は衛に集まる。期間が限定されているとはいえ、衛がこの場で責任者になっているのは間違いなかった。
怖じけず、ひるまずに言う。
「行こう」
そうして次に見た景色は赤黒い空だった。
衛は自分が誰でここがどこでいまがいつなのかも分からないまま、立とうとするが足にうまく力が入らない。ぐらりと揺れて、重心も定まらずに左右に振れている。体の内側が異常を訴えてくるがなだめる方法すら分からない。
手が、何かに触れる。顔を上げると七日に支えてもらっていた。
「ありが……とう。ここは」
「彼岸だよ。多分、もう滅んでしまった彼岸」
「そうか。……七日さんは、ここにいて、平気なの?」
「彼岸だもの」
きっぱりと言いきられる。強さがあった。
長年のあいだ彼岸で育ってきた七日には衛が感じている気持ち悪さに耐性があるのだろう。頼もしかったが、年下の少女を頼りにしてしまっていることが衛にはまた辛かった。
どうにかして立つことに慣れると、弦が戻ってくる。
「そんなに酔っ払ってまともに打ち合えるんですか?」
「正直つらいね」
「でもここに僕たちを連れてくることを決めたのはあなただ」
弦の言葉が鋭く突き刺さって字が破裂する錯覚を覚えた。
貴海から渡された本を大切に持ちながら、弦は言葉を続けていく。
「由為さんを助けて、花影を否定する行為を選んだのはあなたの意思だから。どれほど苦しくても、辛くても、僕はあなたに選択をさせる。これでもまだ幸いですよ、貴海さんからの援護があるんですから」
本を開くように言われて、頁をめくった。また変換が必要な内容で書かれていないか不安だったが、読める字で書かれていた。
『由為の花は赤の陣地にある。現し身の花もまた、赤の陣地』
一番に跳ねたのは七日だった。衛と弦に背を向けて赤の花園へ疾走していく。衛もすぐに追いかけるが重心がとれないためか、前に進んでいる実感がなかった。
「つる、さん。七日さんを援護してください」
「言われなくとも」
弦は直接七日の後を追うのではなく、花園を迂回していった。弦の得物は弓という遠距離から使うためのものだからだろう。
残った衛も歩く。重しが全身に巻き付いているようなけだるさが体に広がっているが、膝はつけない。ついてはいけない。少しでも前に進んで、由為の花を取り戻す。一心で進む。 ぼやけた視界に赤が広がった。確認する間もなく、衛は転倒して、押さえ込まれた。上に
は花嬢が乗っている。振りほどこうと腕を動かそうとするが、丁寧に触れてくる白い手に腕を押さえられては乱暴に振るうことはできなかった。
花嬢は淡々と言う。
「こちらも私が動けないからお相子ね」
「く……あ……」
青い瞳に見つめられている、それだけで衛の中の字がぷつり、とちぎれていく感覚が広がっていった。指先から手首、腕、肩、首などが動かない。どうやって動かしていたのかもわからなくなっている。
乾かされてはりつけにされた花弁のように、地面に張りつく衛に花嬢は触れた。
「あなたたちは、一本だけでも。あの少年の花を手にすればいい。全部を勝ち取る必要はないの」
花嬢に囁かれた内容が飲み込めなかった。あの少年とは由為のことだろう。いま由比の花は過去、現在、未来の三つに分かれて花影たちの手にある。一つも取りこぼしてはならないはずだ。一つでも失ったら、由為から字が失われる。
目の前の少女が口にした話の意図は分からず、体も動かせず、衛の視界を埋め尽くすのは赤い空と白い髪の少女だけだ。溶け合いそうだが混じり合わない、存在がいた。
遠くで声が上がる。花嬢は声の方向を見てから衛の上から離れて立ち上がった。髪をさばく。
「こちらが現し身の花を手に入れたみたいね」
感情のない声が告げる現実に何も言えない。何もできなかった無力が、衛の胸を焦がす。
「無力な彼岸の管理者、よく思い出すといいわ。かつて、どうやって管理者は私たちを追い払っていたのかを」
それだけ残して花嬢は去っていた。姿が遠くになってから衛は身を起こす。
勝負は決まった。
何もできなかった。
彼岸に帰る。
管理者と花影たちは並ばずに、距離を作りながら屋敷へ向かって歩いていた。影君の手の中には赤い花が二本ある。片方は現し身の花で、もう片方は由為の過去だ。見るたびに自分のふがいなさを突きつけられる。
うつむくことを必死にこらえて歩いていると衛は背中を叩かれた。叩いたのは七日だった。まだ下にあるはずの灰色の目が強く貫いてくる。
「衛先輩。まだ、大丈夫だよ」
「花は奪われてしまったのに、どうして」
「花盗人は終わっていない。私は由為君を取りもどすことを諦めない。だから、衛先輩もまだ終わりにしないで」
「そうですよ。一回負けたくらいでもうだめだあ、なんてなるほど衛さんの覚悟は弱いんですか?」
首を横に振った。
「二人の言うとおりだよ。まだ終わらせない」
諦めることはしない。由為を助けてきちんと怒りたい。
「だけど由為君の過去が失われたのも、確かなんだ」
衛の言葉で会話は一度止まり、再開することはなかった。それぞれの歩幅で進んでいき、屋敷が見えてくる。
ファレンだけが扉の前にいた。貴海ときさらの姿はない。
「おかえり」
かけられた言葉は勝者にも敗者にも平等に優しかった。贔屓をしないで、どちらが勝利したのかも触れないままファレンは扉を開く。先に歩いていた花影たちが入ると衛は思っていたのだが、花影たちは入り口で立ち止まっていた。凱旋する権利はない。自分たちは客人であると慎ましやかに分をわきまえている。
声をかけることもせずに衛は屋敷へ入っていった。七日と弦も続く。
「食事は用意してあるが、身を清めるのもよし、休むのもよし。疲れただろうから好きにしてくれ」
「はい」
かろうじての微笑を浮かべながら衛は言う。ファレンの横を過ぎていくと自室ではなく三階に上がった。
訓練場に入る。上着を脱いで、模擬戦用の片手剣を取り出すと素振りを始める。
こんなことをしてもいきなり強くなれるわけではないけれど。動かさずにはいられなかった。何もできなかった。自分。由為の花を取りもどさなければいけなかったのに、できなかった。
口で理想を語ることばかりして、結果は一つたりとも出せていない。
衛は責める。己を責める。やがて、自虐の種をすりつぶし終えた頃に、扉が開く音がした。貴海ときさらだった。普段と変わらなさそうに見えるが、きさらの表情はまだ硬い。
最初は珍しい組み合わせだと思ったがそうでもない。二人は由為の件で秘密を共有していた。いまさら意地悪く責めるつもりはなく、理解してはいるけれどやるせない。
「今日は、負けてすみませんでした」
「仕方ないわ。私たちはあの花影たちには……逆らえないもの」
「負けた理由は違うだろう。衛。まだ迷っているか」
貴海の目を見る。紫石は揺らがずに憔悴した衛を映していた。
どうして、この人は時折鋭く心意を見抜くのか。たいていの物事を素知らぬ顔してやり過ごすというのに、大切な部分では見逃してくれない。いまも今回の敗北は不完全な覚悟によるものではないかという、自分の中でもわだかまる疑いを示してくる。
そうだ、迷っているのだ。
由為は助ける。そのためにしなくてはならないことがあるのならば、何であれするが、花影と戦いたいわけではなかった。花影の行為に納得できない感情はあっても、害したいわけではない。戦うことはかつての自分が夢見た相互理解の願いを踏みにじるようで、嫌でもあった。
だが、花影に勝たなければ由為は助けられないという矛盾。つまりは迷っている。本当に花影から花を奪うだけが正しいのか。
「降りるか」
「いえ。最後まで抗います」
「それしかないと衛は思うのか」
曖昧な問いかけに、他に何があるのかと反対に聞きたくなった。貴海はファレンと彼岸の平和さえあれば良さそうだが、自分は違う。多くの平和と幸福を求めている。
険悪な雰囲気が漂いかける中できさらが口を開く。それは結果として衛の覚悟を決める質問だった。
「前から、一つ聞きたくて。だから貴海さんといま来たのだけれど。衛さんはどうして由為さんをそんなに助けたいの? 私たちが由為さんと一緒にいたのは少しのあいだだけなのに」
「時間は関係ないよ」
言葉はためらいなく滑り出た。
由為を救いたいのは、これほど悩んでも花を争うことを諦めない理由については、分かっている。された行為。いまは新字の侵略を抑えるためには、花を食すことが不必要になった此岸。痛みから解放されている此岸。衛も望んだ結果だが、過程があってはならないことだった。
「由為君は払うべきではない犠牲に自らなった。その行為を俺は尊重しない。止めなくては、怒らなくてはいけなかったことだから、今度は助けて言うんだ」
もっと自分を大切にしろと。
「衛はしっかり現実を見ているな」
貴海が近づいてくる。一歩、二歩と距離を詰められて少しだけ離れた場所に立つ。紫の瞳がまたたいたときに、違和感を覚えた。眉をひそめる。
「目をそらさずにいまあるものを確認してみろ」
「いまあるもの?」
「そうだ、変革を行うとき多くのものは目に力を入れる。一点に集中する。そうして現実から不可逆の変化を起こすから、君はそれを止めるんだ」
言われても、と思いながら現実を確かめた。貴海。離れた場所にきさら。見つめられている自分。握っていた剣が花弁を落としていたことに気づくと、否定する。
剣は剣で花ではない。
一瞬前が嘘のように剣は木製のものでしかなかった。慌てて顔を上げるが貴海は変わらない。
「そうだ。衛は現実を見ればいい。揺らがず、落ち着いて、変わらない現実を変革者に突きつける。それは君だけができる抗い方だ」
仕組みはまだ分からない。力と呼べることなのかも、技術であるのかも不明なままだ。
それでも貴海は衛に一つの可能性を与えてくれた。
「これくらいにして休もう。明日も花盗人だから」
貴海は言うが動かない。衛ときさらは先に訓練場を出て行く。二人でまだ明るい廊下を歩くのは久しぶりだった。夜に顔を合わせることはあっても、昼はそれぞれの仕事で忙しかった。
「何もしないのは楽だけれど、何もできないのは辛いわね」
「いまはできないだけだよ。きさらさんが必要になるときは必ずくるから」
正直なところを言ったのだがきさらの表情は悲哀に彩られていた。変化には気づいたが、衛は触れないで、いままで聞けなかったことを尋ねる。
「きさらさんはどうして三年前に由為君を手伝ったのかな」
「あまりにも真剣だったから。由為さんがしたいことに少しだけ手を加えて、悪い結果だけは避けられるようにしたかった」
もしかしたら、由為が眠り続けていることは最悪の手前くらいには悪くないのかもしれない。
それでも衛は言う。
「由為君の選択を優先したかった気持ちは分かる。だけど俺は、止めたかった」
「考えの違う私たちは、一緒にいられないのかもしれないわね」
「そうだとしても、わかり合うことを俺は諦めたくない。由為君の行動も、きさらさんについても理解したい」
自分の正義を肯定するために彼岸へ来たのではない。まだ見えない可能性を掴みたくて、彼岸を訪れた。相互理解を叶えるためにここへ来たから。
「理解して、どうするの」
答えは決まっている。
「最良の未来を選ぶだけだよ」
笑って伝えれば、きさらは悲しげに微笑むが、歩く速度は変わらない。
衛の隣をきさらは歩く。
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