第七章 平穏と罪業の変奏曲はいずれ 一括掲載版

 土曜日の午後の沈黙の楽器亭は大抵忙しい。
 特に、星月最初の週の土曜日である今日は、ソレシカも初めて経験するめまぐるしさだった。客の回転が早い。注文も、別の件でも呼び止められる機会も多い。
 ソレシカは会計を担当していて、タトエは厨房で皿洗いを行い、サレトナは普段とは違う緊張感を漂わせて接客をしていた。
 だが、カクヤだけは以前から清風とルーレスと外出の用事があるために、短期就労をしていなかった。ソレシカは間の悪さに少々呆れている。とはいえど、沈黙の楽器亭の就労はできるときにできる下宿生が入る形であるために、文句はない。宿主であるナイテンも学生を主戦力とは見なしておらず、合間の補助に入ってくれるだけで十分だと言ってくれていた。
 それにしても、人の途切れることがない今日の忙しさは珍しい。たとえ自分たちがいなくても従業員だけで支障なく店を回すことはできるだろう。だが、一階に降りる度に食堂や受付を急ぎ足で歩く従業員を見ていると、自室で昼寝をするのも憚られて、つい「手伝います」と自分ですら言ってしまうくらいだ。
 ソレシカが四人の団体客の会計を済ませると、他の手伝いに入って欲しいとレングに言われる。厨房の様子を見てから、ソレシカはエプロンを取りに行き、ウェイターをすることにした。
 食堂に入ると、従業員はまだ優雅さを捨てずに注文を聞き取りして厨房に伝えたることや、空いた席の片付けを済ましている。その中で、一人だけ常の落ち着きを欠かしている人物がいた。
 サレトナだ。
 特に目立った失敗はしていない。それでも所作の端々から普段の冷静さが欠けていることはわかる。数ヶ月の付き合いだが、結構な時間を共にしているとわかるようになるものだ。
 ソレシカはサレトナに気を配りつつ、別の一人席に厨房からスープを運んでいく。
「お待たせいたしました。レグーのクリームスープです」
 鳥に近いがよりぷるぷるとした肉が主役となるクリームスープを置くと、盛大な笑い声が聞こえてきた。沈黙の楽器亭には似つかわしくのない、酒場で品のない興に乗るのと酷似した、大きな音だった。
 客は眉をひそめる。ソレシカも笑い声の大本に視線を向けた。
 二つのテーブル席を合わせた席に六人の男女が座っている。注文を取っているのは、まさかのサレトナだった。
「あの、ご注文をお願いいたします」
「だから、アイメン抜きのルルーソーに、のりなしのタコモドキのニギリ。他にはホットのアイスティーね」
「えっとー。俺はー。ノンカルビにバーゲットでー」
 客は早口で紛らわしい言葉をまくしたてるために、サレトナの注文を書く手が追いついていない。遊んでいるのは明らかだ。にやけた口元からは、慣れない少女をいたぶっている事に対する喜びが透けて見える。
 一旦、サレトナがかろうじてまとめ終えた注文の復唱を終えたかと思えば、また注文を細かく変えるといったことを始めたのでソレシカは動くことにした。
「失礼します」
 サレトナの前にソレシカは立ち塞がった。
「まともに食事をする気が無いのでしたら、ご退店願います」
「あります。そっちの子が、ちゃんと注文を取れないのが悪いんでしょ?」
 背後にいるサレトナの気配が弱まった。ソレシカはいま、カクヤが出かけていることを心底怒りそうになってしまう。
 その怒りを抑えて言う。
「あるのでしたら、こちらの店員を混乱させる真似はお控えください。ただいま当店は大変混雑しております。次のお客様を案内する方がこちらの利益にもなりますので、これ以上お戯れなさるのでしたら、どうぞお帰りくださいませ」
「へえ」
 髪を逆立てた一人の男が立ち上がる。ソレシカと向かい合うが、相手の背丈は七センチメートルほど低かった。体躯もソレシカの方がたくましい。
 これから先の展開をサレトナに見せるのは気が進まず、正規の従業員などを読んできてもらいたかったのだが、当人は視線を動かすことしかできていない。剣呑な雰囲気を前にすると、ぱくりと食べられて行動できなくなるのだろう。
 ソレシカと男はにらみ合う。同席している客は待っていましたと言わんばかりに、口元をやにさげていた。
 数秒の緊張の後、ソレシカが謝罪の意を見せないのを言い分に、男は拳を振りかざした。狭くはないが、広くもないテーブルの並べられた店内を暴力の嵐に巻き込むわけにはいかず、ソレシカは相手の腰を触れずに押さえて避けた。
 男はますます面白そうに、ソレシカに殴りかかってくる。
 ソレシカはスウェーの要領で、足を動かさずに上半身のみを上下左右に振って避けていった。男はそういった遊びだと思っているのか、拳のみを振るってくる。
 聞こえてくるざわめきに、どのようにして場を収めるかソレシカは考えた。
「お客様!」
 雷が鳴り轟いた。
 男は拳を下ろす。ソレシカも、サレトナを庇うようにしながら近づいてくるナイテンを見つめていた。
 ナイテンはソレシカたちに目もくれず、騒動の元に近づく。
「申し訳ありません。本日は、皆様のメニューを承ることができません」
「ちょっと、なによそれ。喧嘩を売ってきたのはあの子よ?」
「他のお客様のご迷惑になります。もし次のご来店の意思があるのでしたら、お気を静められてから、いらっしゃることを心よりお待ちしております」
 一歩の譲歩も許さないナイテンの言葉を受けてか、それともは迫力に負けたのか、六人の客は渋々立ち上がって食堂を出て行く。
「潰れちまえ」
 暴言を吐き捨てることも忘れなかった。ナイテンはそれでも、頭を下げ続けて客を見送った。
 それから、穏やかな食事の雰囲気を壊してしまったことを全ての客に謝罪する。戸惑いの声も上がったが、一応の落ち着きは取り戻せたためか、席を離れる客はいなかった。食事が再開される。
 ナイテンは再度、謝罪の言葉を述べてからサレトナとソレシカを応接室へ連れて行った。ソレシカはサレトナだけを座らせて、ソファの後ろで手を後ろに回す。
 自分が喧嘩を売ったことは褒められる行為ではないことなど承知している。可能ならば穏便になだめる選択を取るべきだった。
 わかっていても、ソレシカは嫌だった。その結果として、怒られるのならば全ての叱責を受け止める構えでいた。
「さて。今日の件ですが」
 ナイテンが話を始める。
「タトエさんが知らせに来てくれて、大変助かりました」
「さすが、タトエね」
 サレトナが小さく呟く。
「はい。そして、サレトナさん。今日のことはミスではあります。ですが、人を相手にしていたら避けられないことでもあります。自分でどう対処すれば良いのかを考えるためにも、この後はお休みください」
「……はい。申し訳ありませんでした」
 ロストウェルスの申し訳ないを聞くことができるのは、貴重だと思わずにはいられなかった。
「ソレシカさん」
「はい」
 背筋を伸ばすソレシカとは反対に、ナイテンは肩をすくめた。
「よく、手を出さずにいてくれましたね。次からはもっと穏やかな言い方をお教えします」
 それだけだった。
 褒めることもないが、怒ることもなかった。
 ソレシカは拍子抜けしてしまう。
「仕事、特に人を相手にして金銭のやりとりをする場合には、互いの利益のために理不尽なことが起こります。今後、同様のことがありましたら、まずはこの宿の従業員か私をすぐ読んでください。あなたたちは、できるだけ対処しないように。それはあなたたちを軽んじているのではなく、サレトナさんを初めとする皆さんは、私が大切に保護者の方から預かっている守られる子だからです。有事の責任は私が負わなくてはなりません。だから、まず怪我をしないこと。危ないことをしないこと。困ったら、すぐに助けを求めてください」
 そこだけは、と強く念を押される。
 流れで下宿先を変えたソレシカだったが、ナイテンの真摯さを初めて目にして、言葉が出なかった。
 こちらは下宿の対価を払っているのだから、ナイテンの責任は当然のものだろう。だが、義務以上の慈愛を持って、ナイテンは自分たちを守ろうとしてくれている。今更ながら、そのことに気付いて少々恥ずかしさすら覚えた。
 相手がまだ強くないため派手な喧嘩にならなかったが、場合によってはこの店に迷惑をかけていたのだと思うと、一層羞恥は強くなる。
「ありがとうございます」
 サレトナとソレシカはナイテンの寛容さに対して、心からの感謝と礼をした。
 ナイテンは一度頷くと、そのまま食堂に戻っていった。扉が閉じられる。
 ぱたり、という音を聞いてから、サレトナは顔を覆い隠した。ソレシカは様子をうかがう。泣いてはいないようだった。
「まあ、今日のことはいい意味で気にしとけ」
「うん……」
 一度頷いてから、サレトナは顔から手を離す。それでもまだ、しょんぼりとしていた。
 ソレシカはサレトナが憤ったり悔しがるところは見てきたが、ここまで落ち込んでいる姿は初めて見た。カクヤだって、見たことがあるのかどうかわからない。それほどサレトナはいつでも強気で背筋を伸ばして、凛としていた。
 その矜持の高さはロストウェルスという名を背負っていることに由来するのか、それとも相当の教育を受けてきたからなのか、ソレシカにはわからない。サレトナについても知らないことが多すぎる。
「何が辛いんだ」
「わからないの。注文を聞き取れなかったことも悔しいし、相手の揶揄を上手く流せなかったことも恥ずかしい。どうしたら正解なのか、考えられなかったことも自分に腹が立つし。とはいっても、闇魔法を使うわけにもいかなかったから」
「まあ、今日は単純に舐められたんだろうな。もう来ないだろうから、あれは不運な自己だと思って、安心しろ」
「でも」
 ごねた言葉の響きに、ああ、とソレシカはサレトナのことを少しだけ理解することができた。
 彼女は常に完璧でいたいのだろう。間違いからも正解を手に入れないと自分の気が済まない。同時に、対人との衝突の経験を得る機会が少なかったことは容易に察せられる。なんといっても、ロストウェルスのお嬢様なのだから。彼女を傷つけることを選べる存在はあまりいない。長年の友人であるだろうフィリッシュだって、サレトナには遠慮している。
 それなのに、なんでも上手くやろうとするのは無理だ。
 ソレシカは出かけた言葉を呑み込んだ。
 傷ついているサレトナを追い詰めることはしたくなかった。
 ソレシカは応接室の外を見る。今日は晴天だ。濃さを増した青が窓枠に切り取られながらも、木々の緑と共に輝いている。
 カクヤは今頃、楽しく遊んでいるのだろうか。

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