普段通りの、平らかに広がる校庭に講評試合の名残はない。いまは祭りの浮かれた陽気が漂っている。
校庭の右側には屋台が並び、中央には簡単な椅子や机が並べられていた。左側には何もない。上空には、魔術による光が浮かべられていて、校庭を照らしていた。
幸いにも今日も雨はない。少しだけ曇りがちな空の下で、学生達は食事をし、肩を組んで唄い、その響きに合わせて舞うなどをしていた。
カクヤはその光景を、椅子を引っ張ってきて、校庭の左側から眺めていた。
同じチャプターの中まである、タトエはソレシカとマルディに両端から引っ張られている。食べにいくか、それとも踊るかで言い合っているようだ。タトエは順番にしようと言うのだが、ならばどちらからするのかと、今度は二人から詰められる。
その光景に呆れたのか、途中からアユナが三人の間に加わった。マルディとは同じチャプターであるためか、彼女がどういう性格をしているのかも承知しているらしい。説得を試みている。声は多少しか聞こえないが、マルディがそこまで不満に思っていないことは伝わってきた。これから四人で、食事でもするのだろう。アユナの背後でタトエが安心した顔をしている。
椅子とテーブルの並べられた方向に目を向けると、清風はフィリッシュとロリカと一緒にすでに、食事をしていた。紙皿に乗せられた平たい焼き物を頬張っている。ロリカは猫舌なのか、慎重に端を咥えては、息を吹きかけて冷ますということを繰り返していた。フィリッシュはもぐもぐと勢いよく食べている。
端のテーブルでは、クロルとルーレスが何事かを話し合っている。魔法を扱う者同士として、真面目に今回の講評試合についてまだ討論しているのかもしれない。
スィヴィアは惜しいところでユユシにも敗北した。二連敗は結構堪えるものだろう。
カクヤだって、そうだった。
さらに視線を動かせば、チケットを与えられた部外者も参加できるのか、レクィエとクレズニも隅で話をしている。他の保護者やアルスの店主らしき人も混ざっていた。
その輪から、一人だけ外れていく者がいる。
薄暗闇の中で、橙の髪を揺らしながらカクヤのいるところへ近づいてくるのは、サレトナだった。
用意していた右隣の椅子に、サレトナは腰を下ろす。スカートに手を当てながらゆっくりと座る仕草というものは、どうしうてこう、男心をくすぐるのだろう。
「おまたせ」
「待ってたよ」
軽く笑いあいながら、サレトナは周囲を見渡す。
「サフェリアさんは、セイジュリオには一度も来なかったわね」
「別にいい。サフェリアはいっつもああいう感じだから。好き勝手に行動して、こっちを振り回すんだよ」
数々の幼い頃の思い出がよみがえる。
カクヤの提案を却下して、強引に行動するのはサフェリアだというのに、いつも怒られるのはカクヤだった。
理不尽なことだ。
だけど、決してそれが嫌ではなかったというのに。
校庭に流れる音楽はアップテンポが多く、学生が持ち込んだのか弦楽まで届いてくる。打楽器の軽重入り交じった音が一層に場を盛り上げていた。
黄色や赤の弾ける音で昂揚の炎が燃えさかる。
カクヤとサレトナはその光景を眺めるだけだった。場に加わることもできたが、いまは外側にいて、遠くから多くの笑顔を見つめていた。
決して、二分されているわけではない。マーブル模様のように混ざり合っているのだが、距離があった。静寂の乳白色と、喧噪の赤褐色がたゆたいながら横たわっている。
その心境はこれからの告白がもたらす故だろう。
カクヤはまだ、サレトナにサフェリアのことについて全く話していない。サレトナも聞くことはしなかった。
講評試合が終わるまでは。
「あのね、カクヤ」
サレトナが前を向きながら聞いてくる。
「サフェリアさんは、あなたのこと」
「恨んでいるかもしれない」
言葉を奪うようにして言った。
そんなことはないとは、わかっていた。サフェリアは賢い少女だ。たとえ、理由があっても相手を恨むという選択をするような存在ではない。
サレトナもうっすらとサフェリアの気質を察しているのだろう。だが、カクヤが続く言葉を奪ったからか、本来口にしたかったはずの言葉を呑み込んだ。
カクヤもサレトナを見ずに、前を向きながら話す。
「サフェリアが亡くなった姿を最初に見つけたのは、俺だから。だから、サフェリアがどうやって亡くなったのかは誰も知らないんだ」
サレトナには言わない。
二年前にカクヤの瞳に焼き付いた、サフェリアの最期は異様な光景だった。水を汲みに行こうと部屋を出た。それだけの時間しか目を離していなかったというのに、次に部屋に戻ると、まるで天使が悼んだかのように、純白の花に包まれて亡くなっていた。
誰にも言えない。
カクヤしか、目にしていない。
だって、サフェリアの両親が駆け込んだ時には、すでに寝台の上には花も何もなく、サフェリアは一人で横たわっていただけだった。
自分が目にしたものは、衝撃の過ぎた妄想としか、思えない。
「だから。カクヤは、セイジュリオに。アルスに来たかったの?」
「ああ。さすがにきつかったからな。憎まれ続けるのは」
ルリセイも不便な街ではなかった。アルスほど裕福ではないが、ごく普通に一生を終えるには十分な街だっただろう。
だが、気遣いという薄皮の下に恐怖や蔑視を滲ませられた環境で過ごせるほど、カクヤはたくましくなかった。
アルスに来て、セイジュリオに入学して、数多くの人に指摘された。
カクヤの抑圧。傷。
それらは全て繋がっている。
サフェリアを守れなかったということ。
自分が、もしかしたらサフェリアの命を、何かしらの方法で奪った可能性があるということ。
他者の想像によって、自身は受容されるべき存在ではないと、思い知らされたこと。
鋭い妄想の針が、荒い奇異の眼差しが、きりきりきり、ざくざくざくと、カクヤを追い詰めていった。
自分は婚約者になるかもしれなかった少女一人すら守れなかった。挙げ句の果てに、最も疑わしき者として無言の責め苦を受けることになった。
アルスに、セイジュリオにいる人たちはそのことを知らない。だから、呼吸することも笑うことも許された。
そういう気になっただけなのかもしれないが。
カクヤは視線を落としたまま、口元を苦く緩ませる。
サレトナは沈黙したままだった。沈黙の意味は不明なままで、カクヤはようやく、自分の本音と向き合う機会を得た。
サフェリアのことをサレトナに知られたら、いままで向けられていた柔らかな笑顔も、優しい温もりも、全て失うことになる。
だから、言えなかった。言いたくなかった。
過去からは逃げられないというのに。逃げられない以上、過去に対してできるのは、隠すことだけだ。
だが、その行為すらも不誠実だとしたら、自分はどこに行けばいいんだろう。
「サフェリアさんが」
カクヤはいままで伏せていた、瞼を上げる。サレトナを見つめる。
サレトナも、カクヤを見つめて微笑んでいた。
「もし、命を落とすことがなかったら。私とカクヤは、一度でも出会うことはなかったのね」
告げられた言葉に、カクヤは返すべき言葉を失った。
思い出す。まだ半年も経っていない、冬の終わりと春の始まりの狭間の季節だ。期待と不安に揺れながら、カクヤはサレトナと出会った。
サレトナはどの線を辿ることになっても、アルスに来てセイジュリオを受験しただろう。だが、カクヤはサフェリアのいなくなった道の果てに、アルスとセイジュリオに進むという選択をした。
サレトナは続けていく。
ほろほろと溶けるようで、一層に残酷な言葉を、カクヤに笑顔で伝えてくる。
「私はね、カクヤが知っているよりもひどい人なの。だから言うわ。カクヤと出会えてよかった。カクヤが人の命を奪った結果として、ここにいてくれることに感謝すら覚えるの。私と出会うことのなかった綺麗なカクヤよりも、私と出会ってくれた、血に手を染めているカクヤの方が、ずっといい」
紡がれるサレトナの声は、常と変わらず凛としながらも、端々に甘さが滲んでいた。
首を小さく傾げて、両の手の指先を顔の近くで合わせながらにこりと微笑むサレトナに、カクヤは伝えるべき言葉を探す。
それは、違うということもできた。
恐れによって、嫌悪することもできた。
だけれどカクヤがサレトナから与えられたのは、言葉では定義しがたい救済だった。
いまの自分はきっと、さぞ滑稽でおかしな笑みを浮かべている自覚はあった。
「それが、ご褒美?」
「違うわ」
「よかった。ときめきすぎて、心臓が止まるかと思った」
カクヤの冗談めいた本気の言葉に、二人揃って声を上げて笑った。傍から見ているだけなら、朗らかと言えただろう。
だが、次の瞬間には二人とも笑みを消した。
「いいの? 私で」
「いいのか。俺で」
問いは一瞬だ。
答えを出す時間も、一瞬しか必要としなかった。
カクヤは椅子から立ち上がる。サレトナの前に立ち、未成熟の聖女に向かって手を差し出す。
サレトナも手を伸ばして、カクヤの手をつかんだ。椅子から離れて、立つ。正面から向かい合った。
顔をわずかにうつむかせながら、カクヤは少しずつ、指を動かしていった。サレトナと手を繋ぐ形から、丁寧に寄り添いながらも強引に絡み合うようにして、カクヤはサレトナの指の間に自身の指を差し込んでいく。
脆く、儚く、だけれど強く。
カクヤとサレトナは初めて、手を繋いだ。
「いた!」
びくっとした。
慌てて、カクヤはサレトナと繫いだ手を後ろに隠しながら、向かってくるタトエに目を向けた。
どうやら、アユナでもソレシカとマルディは抑えきれなかったのか、二人から逃げ出してきたらしいタトエが駆け寄ってくる。その後を早足で追いかける、ソレシカとマルディも大分怖かった。
さらに、食べ終えたのかフィリッシュやロリカ、ルーレスやクロルたちまで連れてきて夜風がやってくる。
「よっ! お二人様で何してたんだー?」
「べーつに」
カクヤは清風に向かって舌を出す。まだ、サレトナの手は放したくなかった。
だけれど、サレトナは手をもどかしそうに動かすので、大変心惜しく思いながらも、指をなぞりながら自由にさせた。
どん、と一度だけ背中を強く叩かれることによって、カクヤはサレトナに抗議された。先ほどまでの甘さは欠片しかない。
「なあなあ、終わりに甘茶配るんですってー。いきましょ」
万理が呑気に呼びかけてきたので、一同は揃って、試後祭の締めとなる甘茶をもらいにいくことになった。
結局はいつもの日常に戻っていく。
そのことに、安堵と些少の残念さを覚えるが、カクヤはこれでよいと思うことにした。
許されなくとも。罪を抱えていようとも。
カクヤ・アラタメを恋うてくれた人がいる。
それ以上に何を望むのか。
カクヤは後ろを歩く。タトエの小さな背中を前にしていると、さらに後ろにいるサレトナに服の袖を捕まれた。
振り向く。
サレトナの真一文字に引き結ばれた唇と、うすらと見える赤い頬が全てを教えてくれた。
カクヤは少しだけ、歩みを緩めてサレトナの隣に並ぶ。
指を、一本ずつ、折り重ねていった。


