花園の墓守 衛編 第一章『花影との再会』

 三階の訓練場で硬い音が響き合った。
 衛が木製の剣で受け、七日は槍を突くのではなく両手で握って打ち付けてくる。力は拮抗していたが、七日の一瞬の弛みを見逃さずに衛は押し返す。均衡が崩れて七日は受身をとった。足は開かずに槍も掴んだまま両腕を曲げる。
「負けました」
「ありがとうございました」
 衛が剣を下ろして手を差し出す前に七日は一人で起き上がる。練習着の乱れを整えている姿を見ながら正直に感心するしかない。
 七日さんは強くなった。この手合わせを始めてから三年が経つが、心身の成長と共に技術も磨かれていっている。勝負の条件は単純な力による攻防のみだったので、衛が勝てた可能性も高い。
 三年のあいだに人は変わる。過ぎた年月に思いを寄せると、一人の少年がすぐに頭に浮かんだ。
 由為君。
 いつだって笑顔でいて、無茶をして、その結果として三年間いまだ一度も目を覚まさずにいる、三人目の彼岸の管理者だ。
 同時にこれから起きる戦いの引き金でもあった。
「衛先輩、大丈夫ですか」
 起き上がって訓練用の槍を片付けた七日が近くに来ていた。問いは心配や気遣いなどといった曖昧なものから生まれたのではなく、覚悟を確かめている。衛は頷いた。
「うん。大丈夫だよ」
「ですね」
 笑う七日を見て、本当に変わったと衛は切なくなる。
 三年前、由為が眠りに落ちて戻って来た日。それは花影という存在に此岸を侵略する意思を明確に告げられた日にもなった。その夜に由為を連れて帰った弦という青年と貴海から、彼岸の管理者の本来の役目は花を管理することではないと聞かされた。彼岸の管理者は此岸を襲う存在をなぎ払うためにあった。結果、花影に対し、彼岸の管理者は花影と戦うと決めた。
 花影にも準備があるためか、彼岸がいますぐ戦場になることはなかった。布告から三年後、つまりこれからが花影と戦わねばならない時だ。
 衛は戦うことに躊躇いはない。此岸を守るために、由為を助けるために花影を踏みにじらねばならないことも覚悟した。それは七日も同じなようで、衛がこの三年のあいだ一番信用できるようになった人も、七日になった。
 由為の件に関して衛だけに情報を伏せていた、貴海ときさらに対してはいまだ不信がくすぶっている。ファレンは特に変わらない、よくわからない人のままだ。
 六番目の管理者を自称している弦に関しては。
「お邪魔様です」
 三年間、屋敷で共同生活を過ごしても信頼は欠片すら生まれなかった。
「弦さん。大丈夫ですよ、もう鍛錬は終わりました」
「なら丁度丁度。いまから談話室に集合になりますよ、花影さんたちがいらっしゃるようなので」
 にっこりと笑う弦とは反対に衛の木剣を握る手に力がこめられた。七日は気づいているが何一つ言わない。

 談話室にはすでに、衛と弦と七日以外の彼岸にいる人たちが揃っていた。あとは一度だけ見かけたことのある、人ではないもの、少女と青年の姿をしたものたちが複数いる。
 集合に遅れてしまったような気まずさを覚えながら衛は下手の左側に腰を下ろした。右隣にはきさらがいる。七日はきさらの隣に、貴海は壁に腕を組んで寄りかかっていた。弦は椅子を持ってきて七日の斜め後ろに座る。人ではない来訪者たちは青年が中心に、少女が衛の向かい、最後の一人は立っている。
 会話が切り出される前に、貴海は談話室の扉を開ける。廊下から姿を現したのはワゴンを押しているファレンで、談話室にいる全員に平等な笑顔と茶を振る舞った。どちらの味方をしているのか分からないくらいだ。
「待たせたな」
「いや。随分と面白いもんが見られて眼福です。彼岸の花君手ずから給仕してくれるなんて」
 立ったままでいる青年が笑う。悪意はなかった。敵意もなく、純粋に面白がっている様子は衛に不快と困惑を抱かせた。
 花君とは何か、ファレンさんはあれらから敬意を抱かれている存在なのか。
「それで君たちはようやく交渉を始める気になったのか」
 全員分の茶が用意されるまでのあいだに本題を切り出したのは貴海だ。中心に座っている青年も話の場に立つ。
「名乗るのが遅れたが僕は影君。花影を統率する存在だと思ってもらってかまわない」
「私は花嬢。花影の代表のひとり」
「俺は影生。同じく花影の代表だ。ああ、そちらさんたちの自己紹介はいらない。弦から聞いているからな」
 彼岸の管理者側の視線が、貴海とファレンを除いて弦に集まる。怪訝そうな目を向けられても、弦は自分の調子を崩さないまま、前に置かれたカップに口付けている。ソーサーに戻すと悪びれずにいた。にっこりと笑う。
「僕だって半分は花影ですからねえ。彼岸の管理者としての責務は当然まっとうしますけれど、多少は融通をきかせるくらい見逃してもらいたい。ね、貴海さん」
「ああ。情報の共有は必要だろう。管理者と花影は、敵対関係にあるわけではないからな」
「由為君はあちらの方に嵌められたのにですか」
 厳しい声を響かせた。隣にいるきさらが少しうつむくが気にしていられない。衛はさらに言葉を重ねようとするが七日に遮られた。
「はっきりと聞きます。どうしたらあなたたちは由為君の字を返してくれるのか、私たちが何をすることをあなたたちは望んでいるのか。教えてください」
 七日は本当に強くなった。最年少だというのに、真っ先に一歩を踏み出すことを任せられるのは彼女しかいない。話を感情論に持ち込もうとした自身を情けなく思いながらも、揺れない少女に敬意を抱く。
 七日の質問に一度だけ視線を合わせてから、花嬢が言い出した。
「そちらとこちらで花盗人を始めましょう」
 花盗人。聞き覚えがあった。
 また、三年前のことを思い出す。衛ときさらが彼岸に着いてから二日目にファレンが言い出した遊びだ。一本の花を宝とし、宝の護り手と盗人に分かれて花を手にした者が勝つ。三年前は単純な追いかけっこだったが今回の花盗人の内容は違っているだろう。
「彼岸の管理者は世界を止めた少年の花を求めて。私たちは此岸へ行くための花を求めて、争いましょう」
 きさらが衛に視線をやった。不安を抑えきれないらしく、指を組んだ手が震えている。向けられる瞳も恐怖に彩られていた。それでもきさらをいま落ちつかせることはできない。小さく頷くのが精一杯だ。
 花影たちから提案されている争いは望ましいものではない。だが、今回は由為君が生きるのに必要な字が賭けられている。きさらがいくら不安であろうとも、衛は拒むわけにいかなかった。
「どうする?」
 影生は笑いながら花嬢の椅子に手を置いて、不遜な態度で貴海に確認してきた。
「そちらも趣味がよろしくないな。今回の争いに俺が関われたとしても。援護するくらいだということは見透かしているはずだろう。だから、衛。今回の責任者は君だ。由為を救うかは君が決めてくれ」
「受けます」
 衛は即答した。
 貴海に責任を振られることを予想していたわけではない。それでも落ち着いて答えを返せたのは、きさらと相談することはできず、七日に押しつけるわけにもいかず、ファレンは置いておくしかなく、弦に投げるなどは管理者として、やってはならないことだから。
 同時に衛は由為を救いたい。
 断言された答えに七日ときさらは安心したようだった。特に反応を見せないまま弦が尋ねる。
「場所や細かい条件はどうするんですか?」
「舞台は滅びた彼岸になる。そちらが欲している由為さんの花はそこに眠らされているから、管理者側に不利だろうと言われても、譲らないよ」
「でしたら、条件はこちらに有利なものでもかまわないと」
 貴海は口を挟む気がないらしく、衛が尋ねる。欲得が絡む交渉は慣れていないが、触れるべきところがあるのは分かった。相手が有利な条件にすることは避けたい。
「最低限守ってくれたら、あとはそちらのご自由に。まず滅びた彼岸に行けるのはそちらも三人。貴海さんの援護は人数にいれないでおく。最後に偽りなく、僕たちの現し身となる花を持ってくること。これらだけが、同じ場に立つ条件になるよ」
「分かった。花は俺が用意しておく」
「滅びた彼岸にはどうやって行くんですか?」
 衛が聞くよりも先に七日が質問する。答えるのは花嬢だ。
「私が案内するわ。明後日の昼に、舟着き場で会いましょう」
「楽しみにしているぜ」
 影生は言い終えてから、花嬢の前で持て余されていたカップの取っ手に指を差し込んで一気に茶を飲んだ。軽快な様子で見せられた笑みに、花影たちが立ち去る前に、ファレンは落ち着いた微笑を返しながら、言う。
「そちらの花影たち。往復するのではなく、この屋敷に留まる気はないか」
 簡単に言われた内容への反応は驚く側と納得する側に分かれた。後者の代表である貴海は頷く。
「俺としても屋敷にいてくれた方が助かるな」
「待ってください、相手は由為君の字を奪ったんですよ!?」
 落ち着いたままファレンに賛成する貴海に、衛は食ってかかった。信じられない提案をしたファレンにも目で訴えかける。効果はなかった。ファレンは衛の憤りも承知していて、貴海は受け止めた。それだけで翻す意思はない。
「奪ったな。だが、今回返す用意はしてくれている。あとは目が届かないよりも、読める範囲の行動しかできないように制限することも重要だろう」
「貴海さん、ファレンさんはそんな策略から提案したんじゃないと思いますよ。優しさです、優しさ」
 弦まで勝手な解釈を言い出して収集がつかなくなるが、場が混沌とするよりも先にきさらが問いかける。
「花影、の方たち。あなたたちは結局どうするんですか」
「管理者たちが構わないならば、ここに残らせていただく」
 呼吸が止まる。一瞬だけで感情の波をやり過ごし、震える声も抑えながら言うきさらの様子は健気だった。
「私は大丈夫です。七日ちゃんと弦さんも気にしないのよね」
 貴海はもとから肯定していて、眠っている由為には気にするも何もない。この場で反対を示していたのは自分だけになったので、衛は仕方なく現実を受け止めた。姿勢を正す。改めて、花影たちを見た。
 青い髪に赤い目に白い服の青年。影君。
 白い髪と青い瞳に赤い服の少女。花嬢。
 赤い髪に白い目に青い服の青年。影生。
 気分の悪さは花影たちの外見や性質ではなく、由為を奪ったことだと自分の感情を確かめながら、衛も花影の滞在を承諾した。

 屋敷にはここ数年にないほどの人たちが集まっている。花影は人ではないけれどかたちは人だから、人と数えても支障はないだろう。
 きさらは湯から上がって身支度を整えたあとに、屋敷の二階へ出た。二階は管理者たちの居住する階で、花影たちは三階に泊まっている。分かっていても会う気はなかった。会える気がしなかった。会っても、何をすれば良いのかすら分からない。
 きさらにとって花影は怖れの対象だ。理由は不明なままだが、害をもたらされるのに抗う手段は一つも浮かばない。見つめられるだけで体の中の字が分解していく感覚に囚われる。今日の談話室での光景を思い出すが、おそらく、彼岸の管理者の中できさらだけが花影に対して弱くなる。貴海やファレンに聞いたら理由は分かる可能性があるが、自分の心情を告白できなかった。したい相手ではなかった。
 したらいけないと教えられていたから。
 きさらは心許ない照明に支えられている廊下を歩く。一階に下りていくと、調理場の明かりが部屋を照らしている。誰がいるのだろうとのぞくと、眉をしかめている衛がいた。
 まだ心安い人がいてくれたことに安堵して、きさらも調理場に入った。あえて冗談に聞こえるように話しかける。
「おじゃまかしら」
「そんなことないよ。と答えても、ごめん。今日の俺は機嫌が悪かったからね。不安にもなる」
 強がりの笑みを残しながら視線を下げている衛は何を見ているのだろう。明後日から始まる花盗人の結果を映しているのだとしたら、敗北を見ていないことを願わずにはいられなかった。
 始まる前から衛の心も折れさせたくない。きさらは明るくなるように意識して話しかける。「何を飲んでいるの?」
「純粋な白花だよ。前にきさらさんと七日さんが作ってくれたもの」
 衛の言葉に頷くが、拭いきれない不安がまた顔を出してきた。
 花盗人。
 三年前にファレンが言い出して一度だけ六人で戯れた。宝である白い花はファレンが手にし、護り手の赤い花は衛と七日が、盗人の青い花はきさらと貴海と由為が手にした。誰ひとり企んでいたわけではないだろうが、奇妙なことに現在の彼岸の管理者の状況が重なる。
 きさらと貴海と由為がしたことは争いの発端になり、衛と七日は協力して由為を助けようと抗っている。花盗人で宝であったファレンの心情は読めないが、それはいつものことだ。弦は三年前にはいなかったから除外するとしても、花盗人の構図は現在の信頼関係に繋がってしまう。
 きさらは衛から多少の不信を抱かれていると理解していた。
「今回は守れるかしら」
「取り返して守るよ。そうしないと、由為くんの字は奪われたままだ」
 弦に背負われて返ってきた由為はただの容れ物でしかなくなっていて、中にある字がごっそりと抜け落ちていた。だから目を覚まさないが死んでいるわけでもない。花影たちが奪ったとされる字をまた戻せば目を覚ますはずだ。
 きさらとしてもそうなってほしい。衛の横顔を見ると確かな願望と同時に長らく抱いている疑問も浮かび上がってくる。
 衛さんはどうしてそんなに由為くんを助けたがっているの。
 答えを求めるか悩んでいると衛が言う。
「きさらさんは何か飲まないの?」
「ええ。ちょっとだけ、一人でいるのが辛くなっただけだから」
「彼岸での生活はやっぱり大変かな」
 意外な質問をされた。三年も過ごしている環境にいまだ適応できないほど不器用ではないつもりだ。
 きさらが否定を口にすると言葉はさらに続けられた。
「まだ、きさらさんだけ彼岸に落ち着けていなさそうだから。心が此岸に戻りたそうにしているような」
「そうかしら」
「うん。俺の思い込みだったらごめんね」
 きさらは衛に曖昧な微笑しか返せなかった。
 沈黙する。
 静かに貴海が入ってきたのでびっくりした。
「無粋だったか」
「いえそんなことないです」
 「なら失礼する」と貴海も湯を加熱し直して青い茶を淹れて飲み始めた。用事はなさそうだと油断していたら、話しかけられる。
「彼岸の管理者の本来である役割を、二人にはより深く話さなければならない」
「此岸が花影の脅威にさらされたときに、彼岸の管理者は此岸を守らなくてはならない。ですよね」
 衛の返答に頷き、貴海は話を続けていく。
「過去の此岸は花影に狙われていた。だから、此岸の人は彼岸の人に花影を追い払うように頼み、彼岸は花影退治を繰り返していたが、それは無償の行為ではない。彼岸の管理者は此岸から対価を得ていた。得ていたのだが」
 対価を得る。此岸にいた頃はなんとなくしか理解できず、彼岸に来てから意味が分かった言葉だ。此岸では与えられるか与えるしかない。得るために払う、払ったから得る、という感覚にまだ馴染みはない。
「大分昔にまずい事が起きてな。此岸の人が花影を追い払った。何も対価を求めずに」
「良かった、で終わる話ではないのですね」
 貴海の表情は普段と変わらず淡々としていたが、続けられた話は気まずいものだった。
 対立する二つを仲裁してきた第三者を挟まずに片方が力で片方を追い詰めたため、均衡が急に崩れた。第三者は追い詰めた側にとってはもうどうでもよく、追い詰められた方は第三者を糾弾したという。「なぜ約束を破らせたのか」と。
「人、花影、そして彼岸の管理者たちの関係が壊れた以外にも被害はあってな。此岸の人は対価を誰にも求めなかった。話を聞いた側は高潔な行為だと胸打たれるだろうが、また次に花影が来たときに彼岸の管理者が追い払い、その対価を請求したら。此岸の人たちは考えたんだ。前の人は何も求めなかったのにどうして今度は、払わなくてはならないのか、と」
 貴海の話が本当だと仮定しての考えになるが、続く話も納得できた。いままで儀式めいていた問題が、自分たちの側で解決できる課題になり、さらに何も払わなくても事が済んでしまう。だとしたら、次から彼岸の管理者たちの求めに応えるのを拒む人も出てくるだろう。与えることを忘れて、与えられるのに慣れてしまう。
「此岸の人たちはまた此岸の人を捜し出して、彼岸からの助けは断るようにした。彼岸が対価を求めるのにも理由はあった。そちらが重要だったのだが、此岸はその頃から彼岸の話を聞かないようになってしまってな。そのまま長い間隔が生まれ、誰も知らないいまになって、花影は三年前に現れた」
「もし、俺たちが花影と争わずに花を譲り渡したら」
「どうなるか、話にいくか」
 貴海は結論を言わずに、指で上を指し示した。
 いま花影たちは同じ屋敷にいる。談話室で字が通じていたことから、話をするのも不可能ではないと分かった。いまは花影側の主張を聞ける数少ない好機だ。
 由為くん、ならおそらく「いってきますね」とけろりと言う。誰とでも話をしようとするのはあの子の強みだから。
 反して自分は悩む。私はできない。胸を冷ます恐怖を抱えたままあの影たちと対峙できない。
 手にしているカップの中身はすでに冷めているだろう、少しの静けさのあとに衛は言う。
「俺は、明後日が終わってから考えます」
「わかった。おやすみ」
 貴海はすぐに引き下がって調理場を出て行く。残された衛ときさらは曖昧な表情のまま顔を見合わせた。
「衛さんは花影たちが怖くないの?」
「怖くないよ」
「私は、怖い」
 ようやく伝えられた言葉を衛は丁寧に受け止めてくれた。
「きっと、たいていの此岸の人はそうだったんだろうね。分からないのは花影を追い払えた此岸の人は、誰だったのか。彼岸の管理者は此岸に何を求めていたんだろう」
 貴海さんは相変わらず言葉が足りない。
 でも、それは聞かなかった自分たちの問題でもあるのだろう。高い天井を眺めながら息を吐いた。

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