「洒落猫の微睡み」は静観商路という、セイジュリオに近い、英断商路よりも小さな商店街にある。道をあれこれ左右に曲がっていった、奥まったところにひっそりと黒猫の看板を提げながら佇んでいる店だ。
取り扱うのは物品ではなくて、情報ではある点が他とは大きく異なるところだろう。
室内の明かりは眩しいとは言いがたく、温かな色のランプと窓から入る光に照らされることによって、静寂を保っている。差し込む光は猫が微睡みそうな心地よい熱を宿していた。
すでに通い慣れた店ではあるが、クレズニは緊張していた。
昨日に、「レクィエさんに依頼したいことがあるの」とサレトナから空板にメッセージをもらい、改めて二人を紹介することになった。
そしていま、目の前の二人がけのソファにサレトナが座り、その向かいにレクィエとクレズニが並んでいるという図になった。
サレトナは丁寧に頭を下げて、言う。
「本日はお時間いただき、ありがとうございます」
「きちんとした手順を踏む子は好きだよ。それで、用事の内容は?」
クレズニの緊張などお構いなしで、レクィエは悠々とした調子で話す。サレトナも以前の警戒が霧散していた。
交渉に臨む時の叔父の姿を連想させる。
クレズニとサレトナの前には紅茶が、レクィエの前にはアイスコーヒーが置かれている。レクィエはかろんとストローを気まぐれに動かした。
サレトナは紅茶に口を付けない。代わりに用件を切り出した。
「サフェリア・ギーデンノーグという方について調べてもらえませんか」
レクィエは背もたれに背中を預けた。
「対価を払ってもらえるのならその依頼を受けよう。あと、支払いは後になるけれど。その時に何を請求されても構わないかい?」
「それはさすがに頷けません。私が支払う対価は、金銭に限らせていただきます」
「手厳しいな。こちらとしてはある行為をお願いしたいのだけれど」
サレトナは静かな瞳で見返し、言った。
「ロストウェルスには、まだ帰りません」
「残念」
全くそう思っていない様子でレクィエはくすくすと笑った。
クレズニはどうして、いま自分はここにいるのだろうと考える。
考えて、気付いた。
サレトナは珍しく、自分を頼ってくれたのだ。素直になることが苦手な少女だから、正面から自分にレクィエに対する援護を頼みたかった。だが、できなかったのだろう。せめて、自分に同席をしてもらうことで安心を得たかった。
サレトナもまた、レクィエが怖いのだろう。
「レクィエ。私からもお願いします。サレトナに対価を求めるのでしたら、その半分は私も支払いますから」
「それさ、二人にアルスから立ち去ってくれっていうことが対価になったら、どうすんの。まさか二人とも体を半分に切断して戻るつもり?」
本気なのか、冗談なのかわからないことを言われる。だが、伝えたいことはわかった。
「そうなりましたら、私がロストウェルスに戻り、サレトナはアルスに残すようにしますよ。一足す一引く一は、一でしょう」
「一ばっかりでわかりづらいな」
冗談めかして言いながらも、レクィエの瞳は真面目だった。
以前に、レクィエはサレトナへ向かって言った。
『アルスのために、ロストウェルスのためにありがたい犠牲になってくれ』
その言葉が真意だとするのならば、レクィエはアルスとロストウェルス双方の企てに加担している。もしくは手先となっている。
サレトナの敵として、アルスからサレトナを排他したいのか。それとも、サレトナの味方として、ロストウェルスに戻るように勧めているのかはわからない。サレトナのお目付役としてよこされたクレズニも、ロストウェルスの望意は不明なままだ。
しかし、クレズニは決めていた。
兄として、妹と弟がロストウェルスという軛に囚われずに平穏な日々を過ごせるように尽力する。
己の幸せなど、とうに捨ててしまった。
サレトナがアルスとセイジュリオで過ごす毎日によって、あの雪と氷の土地で終わらせていく日々よりも、充足を得ているのならば、サレトナはロストウェルスに戻らない方が良いのだろう。
悔しいことに、いまのサレトナの隣には一人の少年がいてくれるのだから。
クレズニとサレトナはレクィエの言葉を待つ。二対の色違いの視線に見つめられて、折れたのか、レクィエは降参とばかりに手を上げた。
「確かに、後からなんでも請求はこちらに都合が良すぎるな。わかった。洒落猫の微睡みのレクィエとしては、金銭で請求をする。もう一つ、ただのレクィエとして二人に要求したいことがある」
背筋を伸ばす。何を言われても、動揺しないように気を引き締めた。
「二人は、このアルスという都市で『とあることをしてほしい』と俺から頼まれたら、命と尊厳に関わること以外なら一つだけ協力する。これでどうだ?」
「私は構いません。サレトナは?」
「そうですね。命と、尊厳に安全も付け加えてください」
条件としては甘いが、一つでも多く抜け穴を封じようとするサレトナの手管は紛れもなく叔父譲りだ。
依頼の条件と報酬は決まった。
レクィエが話を進める。
「では、サフェリア・ギーデンノーグと君との関係を初めとする情報を、知っている限り教えてくれ」
「サフェリア・ギーデンノーグ。女性。おそらく、十代半ば。現在は故人」
驚く単語が出たのだが、サレトナはすらすらと話し続けていく。
「しかし、本人が言うには、現在は上位存在に昇格。生まれはルリセイという街だけど、アルスにいまは滞在しているらしい。そして」
サレトナは一度、言葉を切った。迷いではない。躊躇いではない。その言葉に込められた重さが理由だ。
三秒ほど間を置いた後に、真っ直ぐにレクィエを見つめて、言う。
「カクヤ・アラタメに、罪人の疑惑をかけた原因」
クレズニは眉を寄せた。
講評試合の際に顔を合わせた清風ほど快活ではなく、ルーレスほど落ち着いてはいないが、カクヤもそれなりに元気な少年だ。
彼が、罪人であるのか。
問いを重ねようとするクレズニを、レクィエは肘でつついて押しとどめた。
「大体は見えてきたけれど、カクヤは君が俺に依頼しようとしていることを知っているのか?」
「知りません。私の興味だもの」
「でしたら、この件を知られるとカクヤさんを傷つけるのではないでしょうか」
クレズニはサレトナに確認する。
この判断は正しいものだと信じられるのか。二人の間に埋められない溝ができてしまわないのか、諭していく。
だけれど、サレトナは考えを変えなかった。
「そうなるとしても。裏切りだとしても。私は、カクヤの教えてくれないことを知りたいの」
ここまで頑固になってしまったサレトナは、もう止められない。十七年の付き合いから、クレズニはよくわかっている。
今回の件が遺恨やしこりにならないことを祈るしか、できることはなさそうだ。
話を聞いていたレクィエが言う。
「俺は自分の責任しか取らない。それでもいいのなら、今回の依頼を受けよう」
「お願いします」
サレトナは再び、頭を下げた。
レクィエは「仕事は迅速が肝心だからな」と、場を離れる。
クレズニは冷めてしまった紅茶に口を付けながら、久しぶりに二人きりになったことを実感する。ロストウェルスでも、サレトナが十三を過ぎた頃から、二人きりになることはあまりなかった。
狼は相手も狼とみなすためだ。
過去に思いを馳せそうになるが、現在に意識を引き戻して、クレズニは穏やかに話す。
「貴方が、楽しそうに毎日を過ごせているようで、安心しました」
「何を想像していたのよ」
「もっと周囲に馴染めなくて、辛い思いをしているのかと」
サレトナは、故郷であるロストウェルスにおいて友人らしい友人など、フィリッシュとごくわずかの例外しかいなかった。その相手も、サレトナを相手にしても問題ないかなどを審査されて、認められた後も監視されての付き合いだった。
だから、サレトナ自身を見てから「友人になろう」と判断するのは、セイジュリオの学生達が初めてになる。
「お生憎様。ロストウェルスの外でも、私は呼吸することができたの」
「ええ」
喜ばしいことだと、クレズニは心から同意する。
クレズニの微笑にいたたまれなさを覚えたのか、サレトナは話題を切り上げた。
「兄さんは?」
「私が、なんです?」
「ロストウェルスを出ようとは、考えないの」
「ああ。考えさせられたことはありましたよ。ですが、私が骨を埋める土地はロストウェルスしかありえないとも、気付いてしまいました」
サレトナもおそらく同じ気持ちだろう。
セイジュリオでの日々を謳歌し、アルスでの日常を楽しみながらも、それは「非日常」あるいは「一過性」に過ぎないと理解している。
ロストウェルスには婚姻も引っ越しの自由もないわけではない。家を飛び出した者だっている。
だけれど、ロストウェルスの姫御子として生を受けたサレトナには、望まざる義務がある。それからは逃れられない。逃れるとしたら、別の犠牲を差し出さなくてはならない。
サレトナは自分のために別の誰かを犠牲にして、罪悪感を持たずに自由に生きられる人ではない。
だから、きっと、サレトナはロストウェルスに帰ることになるのだろう。
「サレトナ。貴方は、これからどうしたいのですか」
「それはまだ言えないの」
「でしたら、最近あった楽しかったことを教えてください」
未来を語れないというのならば、現在において、サレトナに刻まれた喜楽を聞きたかった。何を喜ばしいと思い、何を楽しいと感じたのか。
少しでも花開く思い出が刻まれているのならば、クレズニだって嬉しい。
サレトナは目を開いて驚き、視線を下に向けて手に目をやると、頬を赤く染めた。それから、何度か深呼吸をしてから「ええ」と了承する。
クレズニはサレトナの日々を聞いた。
友人、仲間、教師、店主に道行く人々とのやりとり。
その途中で、カクヤとだけは頭をはたきたくなった内容があったが、詳細は伏せておこう。
レクィエが店の奥から戻ってくる。大体の見当は付いたらしい。
サレトナはそろそろ店を辞すと言う。レクィエに連絡方法として、空板について尋ねた。
「ああ。俺は空板になんて登録していないよ。こっちの仕事は、神に背いていることだからな」
さっぱりと言い切ってから、レクィエはさらに付け加える。愛嬌のあるが、悪意もある笑顔だった。
「さて、ロストウェルスの姫御子さん。禁じられた道に足を踏み出した気分はいかがかな?」
「そうね。蛇に咬まれないように気をつけるわ」
二人のやりとりを見ていたクレズニは、ただただ心配だった。
>第六章第十八話


