貴海が雑貨店でせわしなく品定めをしているあいだファレンは水槽から一度も目を離さなかった。
銀のレジスターの横に置かれている、両手ですくった水の中にすら収まりそうなほど小さい赤やオレンジの熱帯魚は、視線を気にもせずに泳いでいる。装置は微かな駆動音をさせていた。泡が立つ。
貴海は家で使うグラスや皿を選び終えてあとは職場に持ち込む私用のマグカップを、ファレンを象徴する色である薄紅にするか控えめに黒にするか悩んでいたところだ。最後は新婚六年目の嫁への愛が勝り、薄紅色をした水滴模様のマグカップが雑貨店から引っ越すことを定められた。
会計をしているあいだもファレンは熱帯魚をじいっと見つめていたが、貴海が決済を終えて引き戸を開けると、ようやく同じ世界に戻ってきてくれた。二階にある雑貨店から順番に階段で一階へ下りていき、地面に足をつけると途端に風が細く吹き抜けてファレンの長い薄紅の髪を揺らした。
手に革製の手袋をはめてからファレンに手を伸ばすと素直に左腕へ腕を回してくれた。人が気まぐれにしか現れない住宅街から駅に向かって歩いていく途中でいつもよりゆっくりと歩くファレンに尋ねる。
「今日の夕食は何にしようか」
「キャベツとにんじん」
兎に似合いそうな献立表に苦笑するとコートの上から腹のあたりをつつかれた。
「昼は鶏肉を茹でたものがおかずだったのだから野菜を補うべきだ」
「ごもっともで。そういう君はさっきの店で魚に夢中だったな」
「やいてくれるか?」
しばらく考えさせられる疑問だった。斜め右を見上げながら、左右に開けた曲がり道に出たので左の道を進んでいく。ここからは緩い坂だ。
「君のために魚を焼くことはしないが、君のせいで魚を妬くことはできるな」
ファレンは食事をしない。できないではなくて、不要だからしない。水分も摂らないで生きていけるのは読みようによっては不気味だろうが、ファレンは物語だからそういうつくりなのもしかたない。
貴海は事実を受け入れている。
承知の上で六年前に結婚した。それからファレンとは穏やかな新婚生活が続いている。新婚とは一時の高揚や最大熱量の高さを表すものではなく、意思によって継続していく状態だと貴海は意味づけていた。
新婚だから物事への執着が薄い貴海だってファレンが気になるものを気にしてしまう。その気というものが惹かれる類のものだったらなおさらだ。
ファレンに食べさせるために魚は焼けないが、ファレンをそぞろにさせる魚は妬けた。
「君に俺だけを見ていろなんてことは言わないし、そうなって欲しくもないよ。ただ、わりと気が移りやすいところがあるのにさっきは魚だけを熱心に見ていたから、珍しいなって」
「だよなあ」
魚が気になった理由はファレンもよく分かっていないらしい。顎をマフラーに埋めながら絡めている腕の力を強くする。
「さて、俺はこれから君に三つの質問をしよう。まず一つ目、魚は美味しそうだったか?」
「食欲は当然わかなかった」
「二つ目。魚はかわいそうだったか?」
「いや。そういうことはない」
「最後に。魚は綺麗だったか?」
「それはもちろん」
思った通りの答えが並んだので、貴海は笑う。普段の所作を知っている者ならば出目金ではなくとも目を丸くして驚きそうなほど、快活な笑いだった。
嫌味は含まれていないが楽しげに笑われる理由の見当がつかないようで、ファレンは何度も貴海の名前を呼ぶ。しばらくしてから笑いを引っ込めると、貴海は言う。
「ファレンはあの魚たちに心動かされたんだよ」
「心動かされた?」
改札に入って階段を上っていく。屋根しかない閑散としたホームにまた風が吹き抜けていく。今度は強い。びゅおう、とコートの裾が派手にはためく。貴海はファレンの肩をつかんだ。電車が来るまであと四分ある。
「先ほどの心動かされたに関する話になるが」
ファレンは黙って耳を傾ける。
「俺がした三つの質問は俺から見たファレンそのままだよ。魚は美味しそうで、かわいそうで、綺麗だ。つまり俺にとっての君は美味しそうでかわいそうで、綺麗だ。それに対し君は魚は美味しそうではなくかわいそうでもなく、ただ綺麗だと答えた。君にとっての君は、美味しそうでもかわいそうでもなく、綺麗だといえる」
「俺は確かに俺のことをおいしそうとも、かわいそうとも思っていないが見惚れるほど綺麗なほど自惚れてはいないぞ」
重要な説明はここからになると、いまだ話の意図をつかんでいないファレンのために言葉を厳選していく。
「似ていると思ったんだよ。水槽の中でゆうゆうとしていた魚と、自分が。だからファレンはあの魚たちから目が離せなかった」
「それは違う」
「どうして?」
だって、から続くファレンが口にする答えは「魚と俺の境遇を同じ箱に入れたのは貴海であり自分ではない」というものだ。反論しない。それどころか、貴海の推測を否定する自我があることが微笑ましくて、嬉しかった。
貴海がファレンにべったりしていて、ファレンも貴海の甘えを許容してくれるから、外から見るだけだと重度の依存関係に映るだろう。だが案外そうではない。少なくともファレンからの依存は軽い。
ファレンにはファレンの感性がある。
「そう言うのなら君が心動かされた理由は、君がきちんと見つけないとこの話に落ちはないよ。俺はもうお手上げだ」
「まだ一つしか答えを挙げていないのに」
「ファレンはまだ一つも答えていないのに?」
ぐっと口を結んだところで電車のアナウンスが入ってくる。静かにホームへ止まった電車に乗り、空いていたボックス席に並んで座った。
首を少し動かせば窓を越して景色がよく見える。緑と渋いトーンの家や建築物が混ざっている町並みは凡々たるもので、異国の華やかさはない。
電車が動き出す。振動と一緒にファレンの声が届く。
「俺はいままで生きている魚をこの目で見たことがなかった。だから、水槽の中とはいえ動いているあの小さないきものたちがすごく不思議に映ったんだ」
そこで言葉は切られた。貴海に寄りかかってきたので、さらにその後が続くかと思えば続かない。ファレンは未知なる感情を言葉にするという難題に取り組んで、言葉をくっつけては分解し、ばらばらにしてはまた当てはめている。努力する姿は健気で可愛らしくて「もういいよ」とも言えたのだが、言わない。
些細なこととはいえ紛れもなく戦っているのだ。思考の言語化に水を差すなど無粋極まりない。
貴海は応援する傍ら、そこまでファレンの心を奪っている熱帯魚に、少しだけ妬くことができた。それもまた口にしないで、心の暗所の中で苦しんでいる横顔を眺める。
これは魚にはできまい。
「なあ貴海。俺にとって魚はやっぱり魚だ。それだけでしかない。綺麗だから眺めていて、珍しいから見つめて、多分次にあの雑貨屋に行くときも多少の興味は持つだろうが今日みたいにずっと見ていることはしない。なのに、どうして今日はあの魚を見ていたのか。一番正解に近い答えは」
「答えは?」
「生きている姿が美しいからだ」
それは貴海がファレンに対して抱くのとまったく同じ感性だった。
俺と君との数少ない同調現象
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