無邪気さへの羨望

 か細く鳴く声が聞こえてくる。
 助けを求める声だ。
 そんなもの、どこにも届きはしないというのに。もし、届くのならば自分の運命はもっと恵まれたものへとなっていただろう。
 アユナは一種の憎悪すら込めて、枝の上で震えている猫を見つめていた。
 事の始まりといえば、修練の授業が終わったため、校庭から校舎へと戻る帰り道の途中に数人の学生が木の下に集まっていた。
 万理が足を止めて、何事かと見に行ってしまう。タトエとアユナもついていくと、あまり高くはないが跳んでも届かない木の枝の上に猫がいた。
 白い猫だった。毛並みは短いが艶があるため、飼い猫だと予想できる。無謀な冒険に出た代償として、地上に降りられなくなったらしい。
 全く間抜けなことだ。
 アユナは手に持っていたペンケースとノートを万理に押しつける。万理はぼへっとしながらも、何も言わないで受け取ってくれた。
 そうして、アユナは木を登ろうとする。くぼみに手をかけた。
 だが、いままで木に登ろうなどと一度も考えたことすらない人間をたやすく登らせるほど、木は優しくなかった。アユナは足を持ち上げただけで、ずるずると滑り落ちる。
 いたたまれない沈黙が満ちた。
「タトエ、頼む」
 自分よりも身軽で運動のできるタトエに放り投げた。今度はアユナがタトエの筆記用具を持つ。
 タトエも木に登っていった。するするとはいかないが、堅実に上へ上へと体を移動させていく。見ているだけの女子生徒達も聞いているだけで耳が痛くなる、黄色い声で応援してくれた。こういうところで、タトエの人気を察してしまう。
 タトエは猫のいる木の枝の近くまでいくのだが、手を伸ばしても猫までは届かない。何度か左右に振るが、猫は怯えているのか、縮こまるばかりだった。
 諦めたタトエがたん、と地面に足を着ける。
「僕の聖法とかを使ったり、緩衝材を作ったりしてなんとかする?」
「せやったら、僕がにゃんこはんを落とすよー」
 タトエが「彼の者に星の祝福を」とあっさり唱えると、万理の体がきらきら光る。
 万理はうん、と一度力強く頷いて、てってこと木を登り始めた。体幹が安定したのか、アユナやタトエよりも素早く進んでいく。
「がんばれ!」
「タンガーくん、気をつけてね」
 今度は青い声で、少女たちは万理を応援する。タトエも指示を出すのを見ながら、アユナは考えていた。
 どうして、こんな馬鹿なことをこの猫はしたのだろう。好奇心で空に近づきたかったのだろうか。だとしたら、周囲への迷惑を考える間もなかっただろう。
 猫だから当然といえば当然のことなのだが、アユナは猫の無邪気さが苛立つと同時にうらやましい。
 だが、目をそらした。認めることが屈辱だったためだ。
「君達、何をしているのだね?」
 世界で一番、聞きたくのない声がした。アユナはあからさまに嫌な顔をして、舌打ちをする。
 場に現れたのは、兄のセキヤだ。いつものように堂々としながらも、不思議そうな表情を浮かべている。
「猫助けですー」
 万理の呑気な説明に頷いて、セキヤも木の下まで来た。顔を上げる。
 あと少しで猫に届くところで、万理が手を伸ばす。そのまま、大人しく捕まってくれとアユナは半分投げやりに思った。
 だが、猫は違った。
 いままでの震えが嘘のように、飛び降りた。
 セキヤに向かって。
 周囲は唖然とする。猫は、セキヤの胸に張り付くとくるくる鳴き出した。セキヤも猫を抱き留めて、額を指の先で掻いている。
 どさりと、音がした。振り向くと、万理が猫に蹴飛ばされた衝撃で木から落ちてしまったようだが、タトエの星法で事なきを得たようだ。
「では、この猫は僕が預かろう」
 セキヤはかつ、かつと足音を高く響かせながら立ち去っていく。
 大分、もにゃりとしたすっきりとしない空気になりながらも、解散することになった。女子学生はきちんと、一番がんばったであろう万理にお礼を言う。万理は「たいしたことはできんかったからー」といつもの調子で手を振った。
 それぞれの手元に荷物を戻して、教室へと戻っていく。
「万理、大丈夫?」
「だいじょぶー」
「巻き込んですまない」
 けしかけた身としてアユナは反省した。淡々と謝罪の言葉を述べたのだが、万理は首を横に振った。にっこりと笑い、大丈夫だと教えてくれる。
「ま、セキヤはんにいいとこ取られただけやし」
 気にしない、と万理は言うが、アユナは思う。
 やっぱり、猫とあの男は大嫌いだ。



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