千晶推参 惑乱アイスクリン

 世界で自分だけがきらめいているように誇るのも、自分以外が全てきらめいているように嘆くのも、どちらもきっと寂しいことだ。
 人であれ、鳥であれ、葱であれ、もしくは路傍の石ころであったとしても、世界に在るということだけで万物は何かしらのきらめきをその身に宿している。
 だからこそ真道至は笑うのだ。
「この世は全て千晶推参!」
 僕も控えめにつっかえながらうたうのだ。
「千晶推参!」
 そして古仲鳴も冗談めかして言うのだった。
「千晶推参ってね」
 

千晶推参

 雨が降ることの少ない水無月の終わりに、僕こと利原公約は悩んでいた。
 いまは家から徒歩七分で到着するスーパーのアイスクリン売り場の前。今日の夕食のための食材は選び終えている。長ネギやトマトだって早く素っ気ない籠の中ではなく家の冷蔵庫に入って涼みたいだろう、いくら店内の冷房が人にとっては肌寒いにしても。
 考え込む僕の隣には同居人かそれとも家主と言えばいいのかよくわからない、真道至という琴矢奈高等学校の卒業生がいる。つまり僕の先輩である。
 コシのある黒髪は短いがお洒落に跳ねていて、少し茶色がかった黒い瞳は僕の優柔不断な手を余裕を持って見つめていた。眉がしっかりとしている凜と言わんばかりの、骨のある格好良い顔立ちの青年だ。履歴書いわく二十三歳。大学を卒業してからはジムのインストラクターをしている。
 そんな体育会系の先輩の隣に生まれたときから文系の僕がいるのにはちょっとした因果があるのだが、目下重要な問題は。
 僕が至先輩におごってもらえるアイスをどれにするか、選べないことだ。
「あの」
「自分で選ぶんだ」
 とはいえ、先輩におごってもらうのに疲れた自分へのご褒美が売り文句の高いアイスクリンは気が引けるし、かといって百円ぴったりの氷菓で済ますのも申し訳ない。だったら、いつもみたいにスマートフォンを取り出しして、決めた候補の中からルーレットを回して天に託したいというのに、至先輩はそれすらも許してくれない。
 許してくれない、というよりもこれは修行だ。僕の優柔不断を断ち切るための。
 そうして僕が自分で食べたいアイスクリンを決められないがために、もう五分ばかり同じ場所で立ち尽くしている。スーパーは入り組んでいるし皆が目的の食材等を探して歩いているので、怪しまれることはない。ないのだが、いたたまれない。
 こうなったきっかけは大学受験だ。

 三時間ほど遡って、土曜日の昼下がり、僕は青みがかった黒髪に手をやりながら、この瞬間も悩んでいた。
 至先輩とその親友である古仲鳴さんの住まうアパートの一室に一部屋借りるようになって、二ヶ月が経った。先輩達は正直すぎるのと悪戯が過ぎる両極端な性格ではあるが、基本的には優しくて僕は楽しい高校生活を送っている。
 高校生になって個人所有を許されたパーソナルコンピュータやスマートフォンを初めとする端末を入り口にして電子の海を潜水し、現実では料理や紅茶の淹れ方を先輩達に教わっているのどかな毎日だったが、そこに暗雲が一つ現れた。
 それは、進路希望調査だ。
 専門学校も考えたが可能ならば大学に行きたくて、両親も進学を認めてくれているけれど、どこに進むとなると目の前が急に暗転してしまう。
 機械は好きだが専門的に工作するほどではなく、芸術の才能はあまり期待していない。国語は結構好きだけれど古典は難しいし英語以外には触れたことがない。
 だったら何ができるだろう。
 僕に何が、できるだろう。
 どしんと壁にぶつかりつつ調査票を見つめていると、扉がノックされた。
「はい」
「入るぞ。おいしいさくらんぼをもらってな」
 片手に瑞々しい初夏の恵みを手にして、至先輩が入ってきた。几帳面に三人に分配されたさくらんぼのうち二つは、透明な器に入ってきらきらしている。
「輝いていますね」
「ああ。千晶だ」
 千晶というのは至先輩の口癖だ。輝きの宿っていないものはない、とその後か前に付く。
「で、何を悩んでるんだ。社会と理科なら相談に乗るぞ」
「何を勉強すればいいかもわからなくて」
「テストが終わった後なのに」
 中間試験は無事に潜り抜けたが、それから一ヶ月が経つか経たないか程度で期末試験が立ち塞がる。追試を受けたことは一度もないからそこの心配はないが、調査書を輝かせたいのならば手の抜けない時期に入っている。
 至先輩はローテーブルの前にお気に入りのカモノハシのクッションの上に腰を落ち着けると、手を合わせて自分のさくらんぼを食べ始める。
「公約はどういった道を目指しているんだ?」
「なんともかんとも」
「どこに行ってもいいんだろう?」
「はい。どこに行ってもいいんです」
 だから困るんです、とは付け足せなかった。
 僕は、利原公約は贅沢なことに金銭の不自由も親の不理解もいままで感じたことがなかった。やるべきことは示してもらえたし、あまりわがままを言いたいとも思えなかった。
 だから、今になって思う。
 縛りが欲しい。もっと、不自由があれば、選択するべき道の数を減らせられたのなら困ることはなかったのではないか。
 公約先輩は何も言えない僕の口に「開け」と言う。ぱっかりと開いた間抜けな穴にさくらんぼを押し込むと、にっと笑った。ロングシャツのまま、立ち上がる。
「道を示すことはしてやらないが、道の選び方の練習くらいは付き合うさ」
「面倒見がいいですね」
「先輩だからな」
 そうして連れて行かれたのがスーパーのアイスクリン売り場だった。
 そうしていま、悩んでいる。
「公約。ここにあるアイスに、正しいも間違いもないぞ。あるのはお前が食べたいものは何であるかだ。心の声に耳を澄ませろ」
 そうは言われても、といったところだ。
 好きなアイスクリンならバニラよりかはチョコレート、最中より棒アイスよりもカップアイスを選びはするが、相手に買ってもらうのにどれがいいかを考えると選べなくなる。たとえ、おごってくれる相手がどれにしてもいいと言ってるにしてもだ。
 さらに二分、悩みに悩んで至先輩に降参の目を向けた。
 アイスクリンの一つも選べない己の優柔不断たるや、水にふやけた巾着がごとし。
「公約」
 穏やかに名前を呼ばれた。
 至先輩はその瞬間に舞台へ上がったのだろう。いままで素通りしていた人たちが、何人か足を止めた。
「選べることができるあいだは選ぶことを止めたらいけない。それは、自分の声や感覚を塞ぐことになるからだ。これから歩んでいく道では、どうしたって譲らないといけない、我慢しなくてはならない瞬間があって、君は何度も譲ってきたんだろう。それは美徳だと思う。だが、いまは何を怖がっているんだ? 公約の声を聞けるのは、公約しかいないんだ。隣にいたって俺は君が食べたいものが何かはわからない。だから待っている。耳を澄ませ。自由になれ。人が後悔を覚える瞬間は選択しなかったことじゃないんだ。選択することを諦めてから歩いた道を振り返って、何もしなかったことを悔やむんだ」
 しん、とキャスターを引く音も響かない静けさが広がっていく。動かない。誰もが真道至という青年の舞台に立ちすくんでいた。
 ぱちぱち、ぱちぱち。
 一人だけ拍手をして、近づいてくる足音に、僕も至先輩も顔を上げた。至先輩の左隣に立って舞台から下ろすように手を引いているのは、鳴先輩だった。クリーム色の髪に薄い虹彩の、神様が慎重になって一つ一つの部品を繋げたようなとてつもなく整った顔立ちの、モデルをしている先輩だ。至先輩の幼なじみでもある。
「で、決まった?」
 僕は覚悟を決めて、チョコクッキー味のカップのアイスを手に取った。
 至先輩は期間限定の桃のシャーベットにして鳴先輩はレアチーズの棒アイスクリンを選ぶ。そうしてレジに並んだ。会計は、宣言通り至先輩がしてくれた。
 家までの道を、アイスが溶けないように早足で辿る。鳴先輩が真っ先に鍵を開けてくれて、冷房の効いている玄関に飛び込んだ。
「後は任せろ」
 そう言って、至先輩はアイスクリンたちを素早く冷蔵庫にしまっていく。鳴先輩は靴を脱ぎ、水出ししているハーブティを三人分、グラスに注いでくれた。僕は手を洗った。
 ダイニングルームの中心にあるテーブルに、左から至先輩、僕、鳴先輩と座りながらハーブティで乾きを癒やす。ライムの味わいが外の暑さをすっきり流してくれた。
 はあ、と揃って息を吐く。
「随分と強引な方法だったね。でも公約。ここは至の言うとおりだよ。選べる時は選ばないといけないんだ。どれだけ辛くともね。じゃないと後がより辛い」
「はい。自分の声を聞くことですね」
 それはまだできる、とは胸を張って言えない。でも、したくのないことではなくしたいことを、嫌いな物より好きな物を選んでいけるようになっていきたい。そして、利原公約のその感覚を一番知っているのは、利原公約である僕だった。
 いまなら少しだけ、希望調査票を埋められる気になれた。
 至先輩のスマートフォンが鳴り「悪い」と部屋を出て行って、扉が閉まる。
 その瞬間だ。
 鳴先輩の目が変わった。撫でられるだけで鋭く脈を切られてしまいそうな色は、至先輩を傷つけるものに向けられる。
「公約。今回、至がこんなことをしたのはね。至は自分の声を聞いて、自分の道を歩いていたけれど。その先が崩れていたからなんだよ」
 悲しみと叱責の滲む声に僕は小さく頷いた。
 僕の道を探す助けをしてくれる、至先輩にはかつて夢があった。
 でも、それを諦めるしかなくて、それでも至先輩が立ち上がったことは、最初の夜に教えられた。
 輝きを亡くしたことがあっても、再び宿るからこそ、至先輩は万物のきらめきを信じているのだと。

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