出会えるとしたら、今日でもいいな。
自分の運命に出会えるとしたら。
そのようなことを考えながら、カクヤ・アラタメは薄紅の霞をぼんやりと見上げていた。賛月になると世界全てに色のついた陽光が降り注ぐ。花弁は春の来訪を告げて、やがて緑へと代わり、青や橙が咲き乱れていく。転変する春の光景をカクヤは林檎色の目に映していた。
四大都市の一角、絢都アルスの南西にある公園に例年よりもゆったりとした時期に姿を見せに来た、春。カクヤの青い髪は風に揺らされ、険なく吊られた瞳は見慣れない都市を楽しんでいる。
まだ青年の精悍さにはたどり着かない、少年の輪郭と体躯をしているカクヤだが、それはまだ何者にもなれる可能性として残されている。
暁光の影踏み去るは青き若虎、と詩人がいたらうたうだろう。
当のカクヤは猫がするようなしなやかさで体を伸ばしつつ、周囲を見渡していた。シャレート公園にいるのはベンチに座って陽光を浴びている老人や、いまカクヤのいる広場の中心にある巨木の周囲をくるくる回っている子どもたちだ。他に目につくのは、先ほどサンドイッチを購入した屋台の店主と、右端のベンチで昼寝をしている男性くらいになる。
カクヤと同じ年代の存在はいない。
視線を動かし終えたカクヤはレタスとトマトのサンドイッチを食べることにした。これが最後の一切れになる。あとは、奮発して買った苺のゼリーもあった。
カクヤはサンドイッチに歯を立てた。潰れていくトマトの果肉は口中に酸味を広げていき、遅れて飛び込んできたレタスはしゃきしゃきとした歯ごたえを与えてくれる。何度も咀嚼し終えてからサンドイッチを飲み込んだ。最後にハーブティーで喉を潤していく。さっぱりした。
カクヤの育った街でもいま食べていたものと同じ食材は扱われている。同じ食材を使った料理もある。だけれど絢都アルスの屋台でサンドイッチを買って食べるのは初めての経験だ。値段を確認したときにいつもの店と段が違ったことも驚きだった。違うところが桁ではなくてよかったとしみじみする。
カクヤがサンドイッチを食べ終えて、苺ゼリーの蓋を開ける、一瞬前だった。座っているベンチの右端に人が立つ。影につられて視線を送ると、スカートの裾を落ち着かせて腰を下ろす十代半ばの少女がいた。二の腕から下の動きだけでも風が吹き抜けていくのに似た優雅を感じ、膝に手が置かれただけで育ちと品の良さが伝わってくる。ミントグリーンと白のワンピースに包まれた体は細い。
見上げた先にある顔立ちは、カクヤの感性によるものではあるが、正直に言うと。
愛らしかった。
明るい橙の髪はうつむいた小さな顔にかかっていて、半ば伏せられた杏色の瞳は長い睫によって陰っている。鼻は小さいがすっと高く、唇は艶やかだった。首が細い。
先ほど自身がしていたみたいにサンドイッチを取り出す姿を見て、小さな頃に詩人が詠った一節をカクヤは不意に思い出す。
氷姫忘れ形見と寒椿。
視線の先にいるのは暖かな色合いの少女だというのに、彼女から立ち込めるのはすでにいまは別れを告げた冬の薫りだ。
胸に湧いた感傷を吹き飛ばすためか、頬に触れるくらいに留まっていた風が音を立てて吹き荒れた。ベンチの右端に座った少女の手からサンドイッチを包んでいた紙が飛ばされていく。
カクヤは飛ばされてきた紙を右手でつかむ。近くにきたので伸ばしてみたら逃げることなく収まった。いらないものを返すのも間抜けな気がしたので自分の紙袋に入れた。そのあいだ、左手で持っていた苺ゼリーの蓋を開けていない幸運を噛みしめる。ふたを開けていたら一瞬で風と共に踊り、地面に赤い跡を残していただろう。
「ありがとうございます」
言葉と微笑みが向けられる。カクヤも同様に笑顔を返した。
「どういたしまして」
初対面の相手と顔を合わせた瞬間特有の気恥ずかしい沈黙が落ちる。相応な言葉を探し、けれどもそんなことはないと気付いて、できるだけ相手に近づきすぎずまた遠すぎない言葉で場をつなぐ。
「君もセイジュリオの試験を受けに来たのか?」
「ええ。あなたも?」
通じる話題があることに安堵したのか、少女の顔が和やかなものになる。彼女もまた、公園で一人も同世代の存在がいないことを気にしていたのだろうか。そうだったのならば心強い。
カクヤが少女の共通項として挙げた「セイジュリオ」は絢都アルスに二校ある学園の一つだ。大抵は冬の終わりである纏月に入学試験がある。しかし、今回は春が始まる賛月に後期転入学試験が行われることになった。そのため、カクヤも街での役割を終えて試験を受けることが許された。少女も似たような理由があるのだろう。
「俺はカクヤ。カクヤ・アラタメだ。アルスの北にあるルリセイの街から来た」
「私はサレトナ・ロストウェルス」
その後に続く街の名前はなかったけれど、カクヤにはサレトナの故郷がどこにあるのかは十二分にわかった。サレトナもあえて触れる気はないのか、説明を加えなかった。ロストウェルスの名はそれほど意味があることをカクヤも知っている。
だから、詳しく尋ねることはやめておいた。
「サレトナでいいか? 俺のこともカクヤでいいから」
「うん。よろしくね、カクヤ」
初めての土地で友人になる。それは喜びとわずかながらの緊張をもたらした。とはいえ、相手の空板のアクセスコードを聞くのはまだ尚早だろう。
カクヤはサレトナが食事をする様子を見つめながらゆっくりと話しかけた。
「今日の試験はどうだったんだ?」
「筆記は大丈夫だと思うのだけれど、明日の面接が怖いわね」
「俺は反対だ」
サレトナは大人しそうな少女だ。筆記の時はペンを流れるように動かしていたのだろう。代わりに面接では自分の意見を慎重に口にする姿が容易に想像できた。
顔を見合わせて、またはにかむように笑い合う。桜の花弁が少しずつ舞い降りてきた。カクヤの手にしているゼリーの蓋にも薄紅がひとひら、落ちてきてようやくまだ自分は特別を残していたことに気付く。
「サレトナ。ゼリーだけど半分いるか? なんとあの名店カモノハシの涙の一品だ」
この場で一人だけゼリーをかっ込むのも気が引けて、誘ってみる。
「それは素敵ね。でも、ごめんなさい。人から食べ物をもらってはいけないの」
小さな少女が言い聞かせられたように、申し訳なく答えられた。それはそうとも言える。食い下がることはしない。
「じゃあさ、今日が終わったら。いつかこの街の美味いものを一緒に食べよう」
「ええ。楽しみね」
「サレトナ」
その声が響いた途端、サレトナの顔から笑顔が消えた。一瞬にして微笑は溶けていき最初に見かけた憂いのある少女の顔になる。カクヤの春も奪われていき、うららかな世界に亀裂が走った。裂け目から滲んで浸食していくのは薄暗い秋だ。声の聞こえた方向に目を向ければ、気怠い雰囲気と身なりのよさを調和させた男性がいる。髪は濃茶で垂れた目は青いが、強制を伴った声から察するにサレトナの父だろう。
「行くぞ」
「はい」
告げられた言葉に従順な様子でサレトナは立ち上がる。そのまま立ち去っていく。と思ったのだが、カクヤに一度頭を下げる。最後に浮かべられた感謝の微笑がカクヤの胸に押しつけられた。焼き鏝だった。当てられた瞬間は灼ける熱さ、離されてからはじわじわと痛みが押し寄せてくる。
ただ少し言葉を交わしただけだというのに。
カクヤは一人で公園に残された。苺ゼリーをゆっくりと味わおうとしても期待していた甘さは口の中に残らなかった。
手の中にある、食べ終えた容器を詰めた紙袋を捨てるために立ち上がる。近くにダストボックスがあったので箱の中に紙袋を落とした。
平穏通りを歩きながら考えるのは、先ほど出会っただけの少女だ。
サレトナ・ロストウェルス。
かわいかったな。自分の好みなのだろうな。
そういうことにしておいた。
>第一章第二話
協和音を奏でる前に 第一話
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