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貴海が調理場で夕食の準備をしていると青い顔をした由為がやってきた。
床をしっかりと蹴っているが、いまにも嘔吐しそうな顔色で貴海の近くに来る。貴海は花の焼き具合を確かめてから熱を落とした。彼岸の加熱装置は触れることによって起動と停止を繰り返す。
花を調理器具の上に置いたまま、水をカップにくんで由為に差し出した。
「どうしたんだ」
「世界がすでに滅びているって本当ですか」
「正確には滅びを経験している、だな」
カップの中の水が揺れた。由為の動揺を見取りつつ誰がこの情報をたれ込んだかといえばファレンしか思いつかない。悪気などなく由為に告げたのだろう。
もう少し時期を謀るべきだったかと考えるが教えられてしまったのならば仕方ない。
「由為。世界の滅びでどうして動揺しているんだ」
「だって、滅びているなら俺たちが生きているのはおかしいことじゃないですか」
「おかしくはない」
「じゃあ滅びってなんですか!」
ああ、十五歳だなあと貴海は感心した。
彼岸に送られてばかりだった貴海も最初は様々なからくりに何度も憤ったものだ。由為とは方向性が違っていたが、それでも気持ち悪さと理不尽と不条理が少年の潔癖の中で渦巻いたのは覚えている。貴海よりも擦れていなく純粋な少年である由為は、なおさら納得がいかないだろう。
由為の肩が震えている。今日の夕食の準備はきさらに任せて、目の前の少年の不安に付き合うことを貴海は決めた。
苦笑しつ変わってくれるだろうきさらには後で礼をしよう。
貴海が由為を連れてきたのは、暗色に包まれている花園のベンチだった。白い花が黒く染まって揺れるさまを眺めながらまずは由為の言葉を待つ。
そうして三分ほどたったが由為は祈るような姿で黙っているばかりなので、切り出した。
「滅びを迎えたその瞬間に、世界からあらゆるものが消失するわけではない」
貴海はかつての師を思い出す。愛しい人の父であり敬意を抱いた師であった。黒髪と緑の瞳の穏やかな人だった。すでにいなくなってしまった、振り向いてはならない過去の一つだ。
「まず、時間の流れの消失。それから空間における物質の消失。最後に概念の消失だ。時間が無くなり、ものがなくなり、思うことがなくなる。それでこの世界はしまわれるというのが一連の滅びの流れになる」
由為が顔を上げた。途方に暮れた表情を強がりで覆うことなく貴海に問いかける。
「いまはどの段階なんですか」
最初の頃から思っていたが聡い少年だ。事実から逃げないで聞いてきた。うまくやろうとがんばっていた初日も可愛らしかったが、貴海はいまの由為が好ましい。そんな自分は歪んでいるとも思いつつ言う。
「彼岸も此岸も時は失われつつある。場合によっては物質の消失も起きているが、それらを押しとどめているのも、字だ」
「古字、現字、新字。三つの関係ですね」
「よくできました」
「からかわないでください」
「すまなかった。それで字の話になるが、彼岸の花と此岸の調整士が新字を消しているから時間の消失も止まっている。本来なら此岸の人たちの中ですでに字が交代を行い、彼岸で眠ることになっているはずなんだ」
「先輩が初日に言ってた、埋められるもの」
呆然とつぶやく様子によく覚えていたなと貴海は感心する。説明をする手間が省けた、と目の前の花園を見つめた。六つの区画に分かれた三色の花園には滅びた人が、物語が、花を咲かす養分となっている。とはいえ、彼岸で死体の処理はしていない。此岸の墓地と彼岸の花園が癒着するように都合よく作られた。
「世界が周期的に滅びるのも決められたことだが、その理に悪あがきをした一人が、ファレンの父であり俺にとっては師にあたるノクシスさんだ」
「その人は、どうして世界の滅びを止めたんですか」
「わからない。俺はファレンと七日を託されただけだから。由為ならばどう考える」
「滅びを受けいれたくない」
由為の答えがノクシスの考えと重なるものかはわからない。遺されなかった故人の思考は無に還元されて読めなくなるためだ。
貴海がノクシスから遺された願いは「ファレンの最期を見届けてほしい」だった。七日は此岸でも生きられるように手を打ったが、悲願の物語であるファレンは貴海にしか守れない。頭を下げて乞われたことだが、そうされなくてもファレンだけは自分が守って生きると決めていた。
理由は何度も言っている。
愛しているためだ。
眩暈がするほど字のあふれた世界で、ただ一つ確固とした存在。貴海はファレンのために生まれたとすら断言できる。
「これから世界は、どの瞬間に滅びるんですか」
「正確な期限は俺にもわからないな。此岸に住んでいるおおよそ五十の人たちが全員死体になったら、は確実なことだが」
「だったら俺が救います」
由為が立ち上がった。
貴海の前に立ち、暗闇が包み込みだした濃紺の空を背にして、水色の瞳に決意の光をみなぎらせて由為は言う。
「世界を滅ぼしたりなんかさせない。滅びまであらがって、あらがって、あらがってやります」
「それは理への反逆だ」
貴海にとっては都合の良すぎる考えだ。
「世界に許されないことだとしても俺は此岸も彼岸も失いたくないんです」
息を吸い、拳を作って由為は言う。
「世界が滅ぶ前に俺は違う空を見終えていないから」
瞬きの出来事だ。雲は流れるのを止めて沈むだけの陽は立ち止まり、花も姿勢を正して風は吹かなくなる。由為の宣言に世界が注視しているようにあらゆるものが活動を止めた。
貴海は目前の光景を胸に書きとどめて、口元をほころばせてから尋ねる。
「どうやって滅びから救ってみせる?」
「これから考えます」
力強く言い切られたので貴海は肩の力を抜いた。
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