カクヤは空板で時間を確かめる。まだ、瞬移の門を使うまでには余裕があった。しんみりとした気分を壊す気にはならず、また、もう一人の会わなくてはならない相手のところに向かう。
会ってくれるのかはわからないけれども。
カクヤはなだらかな坂を下りていく。途中ですれ違った壮年の男性に素っ気なく視線をやられながらも、そのまま北東の外れにある共用の墓地に作られたサフェリアの墓前に立った。白い石の墓は相変わらず汚れ一つない。毎日、キルシカが訪ねながら汚れを落としているのだろう。
しかしカクヤはアルスで、もう会えないと思っていたこの墓に眠る死人に、また会ってしまった。
問いは変わらず繰り返される。
サフェリアは何が目的だったんだ。恨みでも、憎しみでも、喜びすらなく、何を伝えたくて俺に会いにきたんだ。
「サフェリア」
呼びかける。墓は当然沈黙したままだ。
あの賢い少女は自分を恨んではいない、と思うけれど。サフェリアに何があったのかはやはり知りたい。どうしてサフェリアは亡くなることになったのか。自分は命の灯火が消える瞬間に居合わせたのか、それすら記憶は定かではない。
不意に、強い目眩に襲われた。
カクヤは目を閉じる。夏だというのに虫の声も、鳥の声も聞こえずに奇妙に静かだ。しかし耳の奥では強く、音か、それとも声が反響している。
わおんわおんわおん。わおんわおん、わおん。
音がぼやけて聞こえない。
倒れる、と思った瞬間のカクヤに降りかかったのは、冷たい水の塊だった。
「来るなと言っただろう!」
強い声に現実へ引き戻される。
カクヤは頭からずぶ濡れになったまま、声が聞こえてきた方向へゆっくりと振り向いた。
「キルシカさん……助かりました」
あのままでは倒れているところだった。
カクヤとしては素直に礼を言っただけなのだが、キルシカは苦い実を噛み潰した表情のままでいる。
「水をかけられて寝言を言うな」
「いや。立ちくらみを起こしてたので」
気を削がれたのか、キルシカは深く溜息を吐いた。そのまま、一度だけだと断固とした様子で言った。
「いきなよ。いまなら見逃してあげるから」
「はい」
カクヤは地面にぽたりぽたと、水を垂らしながら歩いて、サフェリアの墓前を離れていく。先ほどよりかは意識がはっきりしていた。虫の鳴き声も耳に鮮やかだ。
キルシカの前を通り過ぎる、ときだった。
「待ちなよ」
「はい?」
行けと言ったり、待てと言ったりどちらなんだ。
カクヤの声に滲んだ疑問は無視してキルシカは問う。
「サフェリアに、会ったの」
「はい」
どこでともいつとも聞かれないまま、キルシカは眉を寄せる。そのまま変わらず憎しみの宿った目でカクヤを見つめていたが、再び息を吐くと方向を変えて歩き出した。カクヤもとりあえず後をついていってしまう。ここで別れても疑問は残り、互いにすっきりとはしないだろう。
キルシカの向かった先はギーデンノーグの家だった。カクヤを家に入れないまま、キルシカはまず水を拭き取るための布を渡してくる。カクヤが布でしたたる水を拭き終えると、今度は胸に突きつけてきた。
手紙だ。
サフェリアが気に入ってくれた、カクヤが近くの街の土産として買ってきた青色のくらげが刻まれた手紙だった。
まだ日焼けも色褪せもしていない手紙をカクヤは開く。一枚の便箋があった。
私を殺したのはカクヤではありません。
だけど、彼がいなかったら私は死ぬ必要なんてなかった。
二行だけの短い文章だった。
「これ、どういうこと?」
「わかりません。ただ、俺はサフェリアの命を奪ってはいない。少なくとも、直接は」
この手紙がいつ書かれたものなのかは不明だが、被害者であるサフェリアに潔白を証明してもらえたことは、強く力づけられるものだった。
他の誰もが自身を罪人だと拒絶しても、違うと言い返してくれる人がいた。それが、当の被害者なのは皮肉なことだが、カクヤは確かに顔を上げることができた。
俺の手はまだ汚れていない。
「あんたが直接サフェリアの命を奪ったわけではない。だけど、あんたがいたからサフェリアは亡くなることになった。その訳を私は知りたい」
キルシカはカクヤを真っ直ぐ見つめると、手紙と布を奪い返して念を押す。
「その答えがわかったら、教えなさい。それまで私はあんたを絶対に許さない」
背を向けて家に入っていくキルシカに頭を下げてから、カクヤも自分の家へ帰っていく。
もう、怖くはなかった。
答えを見つけなくてはならない難題は現れたが、人殺しなのかと疑われながらルリセイの街でずっと生きていく必要はないと知ることができた。
自分はサフェリアの命を絶ってなどいない。そのことがわかっただけで大きく前進した。
あとは、サフェリアから事情を聞くか、どうにかしてサフェリアの真意を知るだけだ。そうしたら、きっと、自分はサレトナの隣に並んで立つことができる。
何度だってあの手を取って笑いあうことができる。
カクヤは普段よりも大きな歩幅で家の扉を開けた。
「ただいま」
「おかえりって、兄ちゃん。ずぶぬれじゃない!」
驚愕する弟に笑いかけていると、ユエニも姿を現した。
「ああ。ちょうどよかった。ロストウェルスさんのパーティに出るんだろう。これ、丈が合うか着替えてみて」
動揺の一端も見せずに、ユエニは礼服をカクヤに渡す。カクヤは二階にある自室に上がって、着替えた。幸いにも丈が足りないことはなかった。多少は腹囲が余るが、ベルトをしたら問題ないだろう。
礼服を脱いで丁寧に畳み、カクヤはまた別の私服へ着替える。ロストウェルスへ行くことを考えて、帽子のついた上着ではなくて着慣れない薄手のジャケットに腕を通した。
カクヤが一階へ下りていくと、すでにサレトナとタトエはルリセイを離れる準備を終えていた。玄関で待っている。
カクヤも朝の内に用意しておいた荷物鞄の中に礼服を入れて、家を出ることにする。
クシクはこの場にいなかったが、ユエニとナルカが見送ってくれた。
「気をつけるんだよ」
「いってっらしゃーい」
「ああ」
カクヤは玄関を開ける。そうして、サレトナとタトエと共に瞬移の門が設置されている教会まで向かった。
教会の門をくぐると、司聖以外に人はいない。礼拝席を通り抜けた先にある、聖像の前に瞬移の門は用意されていた。
司聖が三人を見渡して言う。
「それでは。準備のほどはよろしいでしょうか」
「はい」
カクヤが答えると司聖は頷く。そうして、瞬移の門を起動した。
いざ、ロストウェルスへ。
>第八章第十八話


