宿り木にはおかしな狼が寄りかかる

 鳥は飛び立ったのならば、宿り木を見つけない限りは休むことができない。
 だとしても、蒼穹を透明な空気の中で翔る高揚を味わってみたいと願っていた。
 サレトナは自室の窓の外に広がる薄青の空を眺めた後に、部屋から出て階段を降りていった。
 厨房に向かうと、沈黙の楽器亭の調理員が朝食の後片付けをしていた。一言、声をかけてから紅茶を淹れさせてもらう。
「随分と慣れているね」
「そうですか?」
 いつもと変わらず、ティーポットを温めて茶葉を淹れて、お湯を注いだだけなのだが、白いコックコートを着た精霊族の調理員、コルトナは大きく頷く。
「一口、分けてもらっても良いかな」
「はい」
 銀の調理台の上に置かれた小さなティーカップに三口ほど注ぐ。調理員は取っ手を手にして口元に近づけた。匂いを確かめられている。
 サレトナは試練を受けるのに似た緊張感を覚えた。相手にそのような意図はないにしても、ロストウェルスではいつだって試されてきた。
 調理員はうん、と首を縦に振った。
「もう少し練習をしたら、喫茶にも出せそうだね」
「そうですか?」
「何をびっくりしているのさ。僕は嘘は言わないよ」
「……ありがとうございます」
 実際に商品として客に差し出せる出来の紅茶なのか、サレトナには自信はない。だけれども、褒められたことは嬉しかった。
 サレトナは自身の青いティーカップに紅茶を注ぎ、ティーポットを洗ってから調理員に頭を下げてからトレイの上にソーサーとティーカップを置いて、下宿者用のラウンジに向かっていった。
 ラウンジにはカクヤとタトエはいなかった。
 ソレシカだけが、上にある一人用の椅子に座って本を読んでいた。
 このまま中に入ってよいものかと、サレトナは立ち止まる。新たなチャプターとして仲間になったが、まだ三日になったばかりでソレシカについて全く知らない。
 タトエに大胆な告白をしたことしか、知らない。
 サレトナにとってソレシカは物語の中に出てくる喋る動物のようなものだった。熊や狼といった、怖そうだけれども実は親切な、登場人物にとって都合の良い存在だ。
 本のページをめくっていた。ソレシカが顔を上げる。サレトナに気付くと、左手で招いた。そこまでされたら逃れられないと、サレトナはラウンジに入る。
 宿泊客用のラウンジも窓が大きく取られていて日差しが差し込み、心地が良い。だけれども、下宿者用のラウンジは秘密基地のようだった。屋根裏部屋や、クローゼットの中に似ている。五人も入れば一杯になる広さで、照明は温かい色だが少しばかり大人しい。室内に置かれているのは背の高い棚と低い棚が一つずつ西側の壁に並んで置かれていて、中央にはテーブルがあり、テーブルの周囲に赤いソファが下、左、上と置かれている。
 サレトナは左側の広いソファに座った。テーブルの上にソーサーとティーカップを置いて、ソレシカに視線を投げかける。だが、相手は全くの無反応だった。
 自身も特に気にしなくてよいのだろうと、サレトナはティーカップに口をつけた。香気が鼻孔に吸い込まれる。フレーバーとなるドライフラワーの味わいにより、砂糖がなくても十分な仕上がりだった。
 ソーサーの上にティーカップを戻す。
 右側の窓の外の風景を見る。今日は、晴天だ。カクヤとタトエは出かけてしまったのだろうか。
 一人で行儀の良い人形として座るのは慣れている。
 慣れていても、ソレシカの存在は気になった。カクヤとタトエはなにかと構ってくれるので、その好意に慣れてしまったのかもしれない。
 サレトナは自分から近づくべきかと、口を開く。
「ソレシカ」
「んー」
「何を、読んでいるの?」
「小説」
 あっさりと答えられてしまった。さらにその先へと踏み込むほどの距離の近さはソレシカとまだ築けていないので、サレトナはすごすごと引き下がる。
 ソレシカは、二ページほどめくっている。
「鯨の話だよ」
 意外なことに、声をかけられた。全く関心を持たれていないと思っていたというのに。
「なんだか、可愛いわね」
「褒めなくてもいい。照れるだろ」
「鯨が可愛いと、思っただけなのだけど」
 サレトナが控えめに、だがきっぱりと告げるとソレシカは本を閉じた。机の上に置く。両足を大きく開きながら、背もたれに背を預けてサレトナに視線をやった。
「サレトナにとって、鯨は可愛いものなのか」
「ええ。海の生物は大体可愛いじゃない? 図鑑で見ただけだけど」
「ロストウェルスに海はないからか」
 ソレシカの言うとおりだった。ロストウェルスは南から西側にかけて山があり、それ以外は大地が広がっている。東に向かえば海に出られるだろうが、海の付近はロストウェルスの領外だ。
 サレトナはロストウェルスの領地を出たことは、絢都アルスに来るまでなかった。
「ソレシカは海を見たことはあるの?」
「ああ。海も山も行ってきた。家の手伝いだから、観光とかじゃないけどな」
「どちらのお家なの?」
「商人。主に布や宝石といった装飾品を揃えて、卸すとかしてる」
「……結構、裕福なお家?」
 恐る恐る尋ねると首を斜めにされた。
 ソレシカは実家で貧苦にあえいだことはなく、裕福だとは言えると答えた。
「だけど、タトエのが恵まれてはいるんだろうなあ」
「ふうん」
 それ以上、踏み込むのはこの場では違う気がした。サレトナは引き下がる。先ほどの質問も品がなかったと後悔した。
「サレトナは海の生物が好きなのか?」
 場の雰囲気を変えてくれる質問をしてくれた。ソレシカの好意に乗ることにする。
「うん。でも、一番好きなのは鳥ね」
 細く軽やかな体を翼に託してどこまでも空を翔けていく。心細さを感じさせずに、伸びやかに堂々と羽ばたく姿に憧れてしまう。
 サレトナは口の端を緩めた。
「鳥か。あれも美味いよな」
 手が止まる。顔を上げる。
 いままで、サレトナは嗜好として、象徴や存在として好きな生物を挙げていた。だが、いまのソレシカの発言はどこかずれている。
 もしかすると、彼は好きな食べ物として挙げていたのだろうか。
「ねえ、ソレシカ」
「ん?」
「あなたは何の小説を、読んでいたの?」
 ソレシカは机の上に置いていた本を取り上げて、カバーのかかっている表紙をくるりと回転させた。だから、題名はわからない。
 わからないが、知ってしまった。
「いかにして、鯨を食べるか奔走する男の話」
 サレトナはようやく、ソレシカがどういう少年であるかの一端をつかめた気がした。同時に、ソレシカに言い寄られるタトエは苦労するという未来も、察してしまった。



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