9-3
由為は読み終えた。
さて、どうしたものかというのが正直なところだ。以前に貴海から教えられた滅びの手順。時間の流れの消失。物質の消失。概念の消失の流れのうち一つはもうたどってしまっていた。本の中に出てきたヴィオレッタの剣をもう一度使うだけで止められるのだろうか。
「難しい顔になったね」
「難しいことが書いてあったから。あと、この本でヴィオレッタの剣というのが出てきたんだけれど。七日は知ってる?」
「知らないなあ。貴海先輩だったらなにか知っているかもしれないけど」
結局貴海には話を聞かなくてはならないようだ。世界は救う気のない相手だが常に一番重要なカードを持っている。
由為は本を閉じて書架に戻した。他に参考になる本はないか探したけれど、昨日と違って引っかかるものは一冊も見つからない。七日の時間を浪費するのも申し訳ないので、途中で書館を出た。
花園を歩き、屋敷に戻る途中に深いため息が出る。世界を救うのは一筋縄ではいかないようだ。
「本の内容はどういうことだったの?」
「世界を救った人と、物語がいて。でも結局完全には救えなかった。で、もう一度世界を救うにはヴィオレッタの剣を刺し直せって」
「剣を刺せばいいの」
「みたい」
「由為君にできることなの?」
歩いていた足が止まる。振り向くと、七日はすでに立ち止まっていて、手を後ろにやりながら由為を見つめていた。灰色の瞳。濁りも薄暗さもない明るい灰色。晴れる手前の曇り空の色だ。
七日は距離を詰めて、由為の四歩ほど前に立つ。
「剣を向けられない。それが由為君の強さなのに、世界に剣を向けるなんてことを由為くんができるの?」
「怒ってない?」
「怒ってはないよ。変だと思ってるの。剣をとれない人だから、私は由為君を守りたい。代わりに何かを傷つけるためじゃなくて、由為君が傷つかないように私が槍をとる。そう決めていたんだけど。世界を救うために剣を刺す由為君はなんだかおかしいなって」
間を置いてから風が吹いた。七日の結ばれた水色の髪を揺らして、彼岸の花を撫でて、風は通り過ぎていく。さあ、と聞こえた音は涼やかだった。そのあいだ由為は動けなかった。
剣をとる。それ自体が由為には向いていないことだ。此岸でも彼岸でも暴力沙汰に巻き込まれたことはほとんどないが、おそらく誰かに殴られても由為は殴り返せないだろう。力を振るわれるのは腹が立つことだがやり返すのはもっと気にくわない。
なら、どうする。
いま世界は滅びの暴力を前にしている。剣があれば止められるがそれはこれまでの自分を否定する行為だ。暴力を剣で封じこめても何も変わらない。
由為は新しい方法を考えなくてはならなかった。
七日の隣に並んで屋敷に戻りながら、思考を続ける。世界を救う本質は剣を刺すことではない。現字を塗り替えていく新字の流れを止めることだ。
ヴィオレッタの剣では新字を止めきれなかった。なら。
「剣を収める鞘がいる」
おそらく、ヴィオレッタの剣は新字の源にあるだろう。剣を収める鞘があれば、剣で新字を止めた後に封じこめることができるかもしれない。考えついたことはわりと筋が通っている気がした。
「いま、ちょっとだけ貴海先輩みたいに笑ったね」
「え」
七日の指摘は心外だった。拗ねてみたら「頼りがいがあることだよ」と慰めのようなことを言われる。
屋敷に着いた。由為は貴海ときさらを探すことにする。衛には、と考えて話すのは止めておくことにした。優しい穏やかなあの人は世界の滅びを受け止められない。
由為の無事を考えて、世界を救うのに反対する。そうなると困るから衛には秘密にしたい。七日に伝えると苦笑された。
短い相談の後に、ヴィオレッタの剣について貴海に聞くのは七日が担当して、由為はきさらに話せることを打ち明けることにした。
入るのは良いけれど物に触れないように厳重に言い渡された薬剤の管理室。きさらはその部屋にいた。いまも手に細い器具を持って花から何かを吸い出している。おそらく、文字だろう。
「失礼します」
中に入るときさらは手を止める。
「悪戯の準備は終わったの?」
「これからですね。きさらさんの助けが必要になりました」
由為がしようとしていることは世界への悪戯とも言えなくはない。引き起こされる結果が分からないあたりが特に戯れている。
きさらは使っていた器具を片付けると部屋の鍵を閉めて由為に椅子を勧めた。向かいあわせになって座る。
「もし、大きさとかがわかっていたら。花による剣の鞘をきさらさんは作れますか?」
「難しいわね。私は一から作ることはしていないから。あと、花に刻まれた文字の構造にもよるわ。それにね、どうしてそんなものが必要なの? 由為くんは剣を持てないでしょう」「刺したなら抜かねばならない。抜いたのならば収めねばならない、そんな剣があるのです」
きさらは黙った。沈黙は促しであると知り、由為は話す。
「世界はもう二度の滅びを迎えています。貴海先輩から教えられた、消滅の三過程。時間、物質、概念。そのうち時間はもう失われているんです。次は人や物が消えていきます。俺はそれを止めたい。そのためには、新字を新たに食い止める必要があります」
「新字を食い止めるのにどうして鞘が必要になるの」
「直感です」
正直に言った。同時に七日と話したことも打ち明けると、きさらはさらに考え込む。口元に手を当てて眉を寄せる様子にすまなくなるが背筋を曲げる時ではない。答えを待っていると長い息を吐かれた。
「世界を浸食する新字と、その新字の流れを止める剣。剣に新字を押し込めてさらに鞘で封印する。合っているかしら?」
頷く。
また考え始めているきさらに対して由為が黙っていると、扉が叩かれる。開いた。七日と貴海が入ってくるが、貴海の手には一本の剣があった。剥き身にされている透き通った細い青紫の剣に、白い手に握られている彼岸の空の色の柄。相手に触れたら自身を砕いてしまいそうなその剣はヴィオレッタの名にふさわしいものだった。
「話は済んでいるのか」
「いいえ、まだ。私は結論を出せていません」
「そうか」
きさらの答えを聞いて貴海は模造された剣を机の上に置く。ことりと、思ったより軽い音がした。おそらくこの剣も花によって作られたのだろう。
貴海は薬剤室の隅にあった椅子を一つ持ってきた。七日に座るように勧めて、自分は壁によりかかって腕を組む。
「どうするんだ」
質問は漠然としていたが、意図は明確だった。手助けはしても選択には関わらない。由為がこれからどう行動するかを促された。
慎重に言葉を考えながら、それでもきっぱりと言う。
「俺は新字を止めたいです。止めるために、鞘を作るのを手伝ってください。きさら先輩。貴海先輩」
言葉で指されたきさらは貴海を見上げる。浮かんでいる色は複雑だ。貴海はその視線をはねのけて応える。
「俺はかまわない。だが、一人では時間がかかるのとファレンには相談してはならないのと。流れに巻き込まれたきさらはどうするんだ?」
「私は、正直まだ信じられません。世界が滅びを迎えているなんて。いえ。迎えるなんて」
「だろうな。此岸では感じられなかったが、彼岸では見えた事実。信じることは難しかろうよ」
「難しくても、事実なのでしょう」
きさらは引かなかった。由為はうなずき、貴海は沈黙して、七日は見守っている。三対の視線を注がれて根負けしたように息を吐いた。
「剣を見せてください」
「どうぞ」
席を立ち、机の上から紅色の字刷り硝子を手に取るときさらは剣を見つめた。その姿にかつての光景が重なる。貴海のことを疑ってしまった一因だ。
今回のきさらは倒れなかった。何度も剣を見直して字を読み取っていく。
「こちらの剣の透明な部分から沢山の欠けた文字が読み取れますね」
「ああ。欠けた部分に新字を取り込んでいくのがヴィオレッタの剣の役割だ」
「そういう仕組みですか。わかりました。覚悟も決まりました」
字刷り硝子をしまうと、由為に向き直った。きさらは微笑んで言う。
「世界を救う手助けをさせていただきます」
「ありがとうございます!」
弾けるように喜んだ由為の頭に手が置かれる。貴海の手だ。
「さて、由為。七日。鞘の材料はちょうど、左手の荷物置き場とこの調剤室にある。俺ときさらは隣の研究室に一日二日ほど集中して作るから」
その後に続いた言葉が難敵だった。
「ファレンに当分顔を合わせられないが、心離れではないと訴えてくれ」
「貴海先輩は結局それだね」
七日がうまくまとめてくれた。
「あと、衛先輩には手伝ってもらわなくていいの?」
難題が増える。
由為としては協力してもらえるのならば心強いが、頼めないと考えていた。
「多分、衛先輩は俺たちの事を知ったら止めてくる。だから俺は言いたくない」
衛はこの彼岸の中ではもっとも此岸の人たちに近い感性をしている。世界が滅んでいると断言しても信じてもらえない可能性が高い。たとえ信じられても、新字を止めることに賛成してくれないだろう。全てを知った衛は由為を案じて止めるはずだ。滅びているのかも感じ取れない世界のためにしようとしている由為の行動を、無謀だとたしなめてくれる正常さを衛は持っている。だが由為も譲らない。
刺された剣は抜かねばならない。抜かれた剣は収めねばならない。
確実に新字を止めに行く。世界の滅びを終わらせる。その選択を由為にさせたことを衛は知ったら苦しみ、悲しむ。
いままで助けてくれていた人にその苦痛を背負わせたくないから、全てが終わってから怒られたい。
「それは、由為くんの」
「譲れない意志なんだな」
「はい」
確かに頷けば、きさらはまた息を吐く。問いかけた貴海は約束してくれた。衛とファレンには最後まで伝えない。全てが終わってから説明する流れで話が終わった。
由為と七日は材料を取りに行くために部屋を出る。
調剤室の扉は閉じられた。
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