行くと決めたらこの部屋からすぐに出ることはできる。鍵がかかっていないことは確かめられていた。
いま、目の前にきさらがいるから。
衛はあと二歩踏み出せばよい。外に出て、貴海から提示された方法だとは伏せながら、此岸の人たちにも生き残る道があると説得すれば、事は済む。
だが、それは本当に良いことなのか。考えるなと言われたが、此岸を救うために彼岸へ映ることは、これまで彼岸にいた人たちを踏みにじるに近い行為だ。
貴海とファレンを犠牲にしなくてはならないことだ。
衛はまた拳を強く握る。
相互理解をしたいといった理想は変わっていない。現実では叶わない妄想だとしても俺は此岸も彼岸も理解したい。由為君みたいに世界を救う気概はないが、一方的に救われて、救って終わるなどはいやだ。
「衛さん」
きさらに呼ばれる。衛は顔をうつむけたりそらしたりせず、真っ直ぐ見つめたまま、足を止めていた。
助けにきてくれた。選択できる自由を与えてくれた。
衛はきさらの決意に応えるために、何よりも自分のためにいま外に出るかどうかを決めなくてはならない。水上をはじめとする四人の此岸の統括管理者の総意に従うのか、反するのか。すでに反したからいまの状況に陥ったのだが、まだ行動する猶予は残されている。
「水上さんたちから何を聞いたの」
「知ったら苦しむだろうから、きさらさんたちには言えない。ごめん」
教えられたのは、改めて此岸が彼岸を貪って生きてきた事実。だけれど此岸も悪くない。どうしようもなかった。生きることは当然なことでありながらも必死なもので、此岸は純粋に生き抜くことを選択しただけだ。
穏やかな今日を得る代わりに明日を切り開く剣を捨てた。
違う空を見に行く希望を捨てた。
生まれて、愛され、愛し、字を交わし、生み、消えていくだけの循環を選んだ。
たとえ、彼岸からそうした生き方を悲しまれようとも、此岸の人たちは生きることを選んだんだ。
「知っていたんだよね、きさらさんは。此岸が滅びを受け入れると言いながらも反対の未来を考えていたことを」
「ええ」
きさらも目をそらしたりうつむいたりしない。緑の瞳に衛を映している。
「でもね、水上さんは私たちのためにあえて憎まれてくれているの。唯一彼岸に渡った管理者だから、統括管理者全員の意見をわざと曲げて伝えて、彼岸の無事も心から考えてくれているわ」
伝えられたことは十分に分かっているから痛い。
衛がいまだ踏み出せずにいると、人が近づいてくる気配がした。二人分だ。
是人と弦が姿を見せた。
「衛さん。助けになるかわかんないけど、来た」
「ですが僕たちが出る間もなく、扉が開けてあるじゃないですか。ここまでされても、まだ水上さんの思惑に気付かないほど、あなたは愚かではないはずでしょう」
弦からは意外なことを聞いた。以前に彼岸で厳しいことを突きつけてきたというのに、いまはそこまで無知ではないと遠回しに言われる。
水上が強制移住を本当に考えているならば、昨日のあいだに起きていてもおかしくはない。だが、まだ此岸があるのは水上も彼岸を慮っているためだ。衛も分かっている。それなのにまだ立ちつくしていたのは、此岸と彼岸の理解という理想を叶えられない自分になるのが怖かっただけだ。
まだやれる。やれる猶予があるのならば、三年間彼岸を見てきた自分にだって、発言権は残されている。貴海や水上、由為たちに未来を投げることはしたくない。
衛は部屋の外へと踏み出した。ほっとした顔のきさらに頷きかける。
行こう。自分の願いを叶えに。
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