花園の墓守 貴海編第一章『滅びの三歩手前』

 花影の葬儀が終わって結構な時が経った頃。
 由為が「滅びた此岸へ行きたいです」と切り出した。
 昼食が終わり、花の手入れには影生と弦と七日がすでに行き、貴海とファレンが食器を洗っているところにやって来た由為は、いつものように真っ直ぐだった。
「行けば良いだろう」
「俺の変革だと届かないんですよ。かといって、水上さんにも頼みづらいことですし。それでも、花影がいなくなったあとにヴィオレッタの剣がどうなったかは知りたいんです。貴海先輩の変革なら、きっと滅びた彼岸だっていけますよね」
 顔を上げながらも由為の顔には後悔が滲んでいた。分かっているのだろう。貴海は此岸に行けない。此岸に行ったらファレンがいなくなる。ファレンがいなくなると、誰にも教えていない貴海の枷が外れる。枷が外れると、簡単だ。
 滅びる。此岸も、河も、彼岸も。あらゆる文字が消滅する。目の前の少年を成す文字もなくなってしまう。由為にはまだ言っていないが。
「貴海」
 揺らぐ。流しに溜められた水から手を引き抜いて布で拭きながらファレンが言う。
「此岸に行こう」
 それは、珍しいファレンによる意思だった。
「此岸で俺は認識されないのかを試したことはないだろう。もし試して、いないとしても。貴海は俺を見つけてくれる。だから三人で行こう」
 貴海は最後の皿を水切り篭に置いた。
 ファレンは由為だけではなく、誰にでも寛容だ。そうして貴海はファレンに甘い。肝心なところは絶対に譲らないが、ファレンが祈ることを貴海は叶えずにいられない。
 またファレンが言うことも一理ある。貴海は此岸に物語がいられないとは聞かされていたが、本当に此岸に行ってもファレンが存在しなくなるのかを確かめたことは一度もない。此岸なら失う危険は高いが、滅びた此岸ならまだファレンの存在を介入させる余地はある。滅びた此岸を構成する字は古字も含まれるためだ。古字さえあればファレンも此岸にいられるかどうかを試せる。
 それでも、此岸には行けない。
 ファレンを失う一手を打つことはできない。
「すまない、由為」
 それで察したのか、由為は調理場から出て行った。文句も不満も言わなかった。最後に苦く笑っただけだ。
 後片付けが終わり、部屋に戻ろうとするがファレンは隣に並ばずに後ろに付いてくる。何かしら言いたいことがあるのだろうと放っておいたら、部屋に入る前に七日もいた。腰に手を当てながら目を細めて怒りの雰囲気を全身から漂わせている。
 ここに来るまで自分に気配を悟らせないとは七日もやるようになったと感心していると、貴海の部屋の扉を開けられて、七日は入るように示した。貴海とファレンは大人しく部屋に入る。
「で、何が言いたい」
「由為くんの頼みを聞かなかったことは仕方ないとして。貴海お兄ちゃん。ファレンお姉ちゃんのことが本当に好きなの?」
「彼岸の何よりも大切にしているが」
 真顔で返せば隣のファレンも同じ表情でいる。
 かつて彼岸の管理者であった衛やきさらたちからは何度も「この理性放棄カップルめ」と諦めた微笑とともに思われていたほどだ。彼岸だけではない。此岸の何物にも代えられないくらいにファレンへの愛は静かに燃えている。
 どうしてそんなに、と直接問われたことはないが暗に示されたときも答えは簡単だった。愛しているから。貴海にとってファレン以外に愛を捧げられる存在はない。七日や由為もかわいい後輩だが、種類が違う。
 どうしてファレンだけ特別な存在なのかは貴海のほうが知りたい。
「私も昔はそう思っていた。いまは違う。此岸とそこまで関わろうとしない二人はどこか、怖いよ」
「正しいな」
「肯定してくれるなら話は早いね。お兄ちゃんがお姉ちゃんだけいればいいのは諦めてるけど、お姉ちゃんが此岸に行きたいなら、連れていってあげなよ。ようやくだから。たくさん時間がかかって、お姉ちゃんは此岸に行ってもいいと思えるようになったんだよ」
 おそらく花園の手入れが終わった帰りに、すれ違った由為から話を聞くなどして七日は事情を知ったのだろう。ファレンが此岸へ行けない理由と、行きたい考えを聞いて、正しいことを言っている。過去のファレンを留めておきたい、閉鎖された環境を望む子どもではなくなって、相手の選択を尊重する少女に七日はなれた。
「もしファレンが消えるとしても、七日は勧めるか」
「うん。それも含めてお姉ちゃんの意思だから。あとこれでも、お兄ちゃんが絶対にお姉ちゃん逃さない人だと分かってるからね」
「照れるなあ」
 この場になって口を開いたファレンは頬に手を当てて笑っている。目が、そろそろ折れる頃合ではないかと言ってくる。
「貴海、俺はおまえを遺して消えたりしないよ。幸せなときもいなくなるときもいつだって一緒だから。彼岸を守るのも、七日と影生がいたら十分だろう」
「弦は」
「あれは俺たちが此岸に行くとなったらなにがなんでもしがみついてくるはずだ」
 否定できない。由為を連れ帰った半人の弦は貴海とファレンが結びつくことを異常なほどに執着している。たとえ留守番を任せても、先に河を渡りきって待ち受ける程度は予想できた。
 貴海は腕を組む。あと一歩、ファレンを此岸に連れていく理由が必要だ。貴海にも意地があるので、妹分に叱られただけでファレンを万一の危険にさらしたくない。かといって、七日の言うとおりいつまでも彼岸という殻にこもってもいられない。
 本来なら、十八年前に滅びているはずの此岸と彼岸を存在の縁につなぎとめているのは、貴海が自分の判断で強固な枷をつけているためだ。ファレンと共にありたい、その一心で。 貴海が口を開こうとするのを制して七日は制服から一通の手紙を取り出す。黙って渡してくる。
 中を開いて目を通した貴海は、言った。
「七日、由為を呼んできてくれ。ファレンは俺の手を絶対に放さないように」
「なにがあった」
「今度こそ、此岸が滅ぶかどうかの限界だ」
 白い紙に丁寧だが切迫した字で書かれていたのは、衛からの救援要請だった。
 此岸の住人の字が消えていく。
 それは、貴海によるものではない滅びを意味していた。

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