ことくる

 「こと」という響きは可愛らしい。
 二文字とも硬い音ではあるが、並べて発声すると物が動く瞬間を連想させて楽しい。
 「くる」という響きも可愛らしい。
 こちらも二文字で、低高の音が並んでいる。口に出すと空腹時の衝動が浮かんでしまう。
 何にせよ、三代古都は自分の名前がお気に入りだった。
 そして従者である一式繰の名前も気に入っていた。
 今日は四月の十日、よく晴れた暑い日だ。赤信号が変わるのを横断歩道の前で待っていると視界はすぐに光で染まってしまう。目が焼けてしまいそうなのを、古都は日傘で防いでいるが、日頃の癖で視界が隠れるのを嫌う繰は猫背になるのをこらえていた。灰色の目が細められている。
「入る?」
 古都が呼びかけても首を横に振られた。
 人の手による鳥の鳴き声がちかちかしてから、信号は低いブザー音を鳴らした。渡って良い。
 古都はスカイブルーのワンピースを揺らしながら、繰の後を半歩後ろからついていく。
 横断歩道の半ばあたりで、まだ青信号だというのに気の早いトラックが減速する様子など見せずに近づいてくる。
 あら、と古都は首をかしげた。長い黒髪が揺れる。
 引っ越しや運送で使われそうな青いトランクを乗せているトラックは一秒ごとに距離を縮めてくるのだが天才的な決断をする余裕はすでに失われていた。
 吹っ飛ぶ。
 当然、トラックが。
 まるで掌底をくらった素人のスタントマンのように短い放物線を描いて、タイヤから地面に着地する。あまり高さはなかったためか多少の振動だけで大きな被害はトラックにも周囲にもなかった。トラックの暴走により道路も空白地帯ができていたため、そこに見事収まった形になる。
 古都は白い日傘を揺らしながら、トラックをすっ飛ばした繰の背中に垂れている白地に赤が混じる尻尾髪に呼びかけた。
「和護の職員さんを呼ぶわね」
「わかった」
 簡潔な返事に信頼を託して、古都は和護の窓口と連絡を取ることにした。空を押してパネルを開き、和護とのチャンネルをつなぐ。
 『和護』とは「言語による観測可能な領域」で起きた事変を網羅して解決するための公的機関だ。簡潔に説明するならば「言語化された概念の蒐集家」が良くも悪くも多数在籍している。
 今回のトラックの暴走が、ただの居眠り運転、飲酒運転や事故の類によるものである可能性は低いと古都は見積もっている。もし、前者が正しいとしても古都が和護の職員に謝罪すれば終わる話なので、報告と連絡と相談を優先させた。
 相手に敵意や殺意があるのならば繰が全て薙ぎ払う。
『こちら和護の殺意受付ですが』
 相も変わらず名前のインパクトが大きい部署の受付だ。さらに出たのは職員の一人に仕えているという長身であり金髪であり美形という三拍子が揃ったメイドだった。
「上木さん。三代ですが、有可さんに変わってもらえますか?」
『かしこまりました。有可様。三代古都様からのご連絡です』
 「少し待って」の後に短い保留音が流れた。
『また危険の芽を抱えている案件なのかしら!?』
 身体の内側から響く、迫力ある低い声に耳が痛くなった。相手も気づいたのか音量を調節してくれる。
「違うわよ」
 ずだだ。
「いまね」
 ばきっ。
「繰が」
 どさ。
「相手をして」
 がと。
「くれている」
 げどごん。
「みたいなんだけれど」
『報告がしたいのでしたら、終わってから! 後ろから聞こえる音で全く会話に集中できないわ。連絡なら……そこに観測蟻はもう向かわせたから、敵意か殺意の意識だけを抽出させてもらいたいの。私が、言っていることはわかるかしら』
「つまり半殺しさせたらまずいのね」
『そう』
「古都嬢。もう立っている人はいない」
 残念な連絡を、古都と有可の会話を中継させられていた繰がして、深い溜息が聞こえた。
『まあ、古都と繰が無事なら、それに越したことはありませんわ。ただ、繰はまた測定が待っていることをお覚悟なさいませ』
 通信は一方的に閉じられた。古都は相手が頭を痛めているのを慮って肩をすくめる。
 ただでさえ、卯木有可が属するのは人の悪の側面を扱う気苦労の多い部署だというのに、協力者として契約している自分たちがマイペースに過ぎるらしいから、一層大変なことになっている。と聞いていた。
「とはいっても、変わる余裕はないわね。私は私、かわいい古都さんだから。あら、人も集まってきた。くるー」
 古都が己の従者の名前を呼ぶと、視界に入る距離ならどこにいたって三秒で帰ってきてくれるのは、素晴らしい特技だと胸を張りたくなる。
「古都嬢。これから、和護に行くのか?」
「ええ。またあなたの好戦性変動値を測らなくてはいけなくなったの。……そんなことしても、無駄なのに」
「僕ならかまわない。古都嬢の迷惑にさえならなければ」
 健気な言葉を無表情に告げらると、ギャップによって言われた側の心臓が持たなくなる。古都は、繰の高いところにある頭を褒美とばかりに撫でた。そうすると一気に繰は笑顔になる。その表情に今度は、胸が軋んだ。
 繰は言語の存在しない「非言語領海」から言語のあるこちら側、「言語領域」へと連れてこられた。言葉というもの自体がなかったというのに、強制される情報の渦に巻き込まれながらも繰は古都に仕えて、守ってくれている。
 それにどれだけ救われているのか、まだ伝わらない。
 最初に目に入ったなどというプリンティングが理由ではなく、繰が古都を錨にすることを選んでくれたから、いま二人は一緒にいられる。
「そういえば、あのトラックは何用だったの?」
『偶然だよ。トラックを強盗した人がこっちに突っ込んできただけ」
「世の中まだまだ物騒ね」
 どれだけ言葉を尽くして、争いの種をかすめ取っても「めでたしめでたし」にはまだまだ遠い。突発的な悪はいたるところに眠っている。
 それが言語領域だ。
 人が生きていく上での限界だ。
 それでも、古都は繰と一緒に生きていくし世の中を少しずつ良い方向へ変えていきたい。繰に美しい世界を見せてあげたい。
 だから和護に属している。
 非言語領海の回収者。三代古都として。


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