紙の魔法使い

 秋学期の始まりに久本修は部室の整理をしていた。
 ただ一人部活の先輩である石地綾はこれまでの成果を、手を止めながらも一つずつ廃棄するのか取っておくのか、分類していく。緩い薄茶の髪は動きのたびに揺れていた。
 制服を汚さないために上からはおったパーカーをまくりながら、修は綾のまとめた冊子を紐で束ねていた。
「ついに十年の歴史に幕が下りちゃうんだね」
「意外と長かったんですね。あ、最後に一つだけ印刷してもいいですか」
「いいよいいよ。記念に何でも印刷しな」
 修と綾が入っていた部活は製本部という、主に様々な部活から持ち込まれた資料を印刷する部だ。それだけではなく本の修理、予算が許せば自分たちで糸やのりを使って本を作ったりもした。
 ペーパーレス化が進行しているいまは気軽にビラ一枚も作れない。印刷物の管理をしやすくするために製本部は作られたが、今年は紙に興味を持つ生徒が一人もいなかったので、すんなりと廃部が決まってしまった。
 印刷機が鈍く稼働する音を聞きながら修の胸には寂しさが到来している。
 初めて、製本部の扉を叩いた二年前も綾だけが部室にいた。三つの印刷機を動かしながら、到底一人では管理できない量の印刷物を手際よく仕分けていたのだ。感嘆した。
 修にとって綾は紙の魔法使いだった。コンピュータをリズミカルに動かして指示を下せば、忠実な印刷機たちは紙を吐き出していく。それを一つにまとめあげて本にしていく。そうしながらも頼まれた印刷物の内容は誰にも言わない。
 デジタルだけではなくアナログもすさまじかった。どうしたら液体のりと刷毛と紙だけで丁寧な本を仕上げられるのだろう。
 憧れた。恋をした。だけれどまだ、何も言えていないまま十月には新しい部活にこの部屋を譲り渡さなくてはならない。悔しくはないが、情けなかった。
「先輩は、部活がなくなるのをすぐに受け入れたって聞きましたが」
「うん。もうレジスタンスの時代じゃないからね。抵抗しても丸められる。あと修一人に任せて、私は勝手に卒業するのが一番いやだったし。だったら綺麗に締めましょう」
 正しかった。修も一人で残されて、事務手続きや決算を無事に済ませられる自信はなかった。何度も綾と相談し、それなりに広い部室に置かれた印刷機を眺めながら決めたのだ。
 いままでの活動が燃えていくのに隠しきれない寂しさを抱きながら。
 修が結んだ紙の束を人さし指で撫でながら、綾は言う。
「あーあ。私はもう、こんなに紙に触れられることはないんだろうな」
 さりげなく、だった。笑いながらだった。だけれど綾はさみしがっている。その事実が修には辛い。
 紙の魔法使いから紙を取り上げるなんて、そんな悲しいことがあるか。
 印刷機の稼働音が止まる。また静かになった部屋の中で初めての質問をする。
「先輩は紙が好きですか」
「うん。大好き。世界で一番、好きなものだよ」
「どうしてそんなに?」
「紙は、全てに意味があるから。どんなくだらないことも、大切なこともひっくるめて誰かに伝えるために。時には自分のためにみっともないことを残すために、使われる。思いの断片と結晶が紙なんだよ。だから私は紙が好き。ふわふわデジタルに残すんじゃなくて、いつか滅びるアナログの言葉に、ずっとずっと触れていたかった」
 この場においても涙など見せず、大切に愛を紡いでいく。
 綾のことがやっぱり好きだと確信したから、製本部最後の印刷物を、手に取った。
「先輩」
「ん?」
 紙を押しつける。綾はくしゃりと曲がった紙の隅を広げて、渡された印刷物を読む。
 読んだ。顔を上げた。二年のあいだ、軽やかさしかなかった綾がこれほどまで動揺しているのが痛快だ。不謹慎だが。
「君、ここには私が好きと書いてあるのだけれど大層な間違いではないかな」
「失礼ですね。俺の一年半の思いをなかったことにするんですか」
「いや。いやいやいや。待って。この展開は予想していない」
 あうう、と唸って顔を隠す綾よりも目線が下になるように、修はかがんだ。愛の言葉が防御壁の役目を完全に果たしているため顔は見えないが、強く紙を握っている手は見られる。いつもは紙を傷めないように優しく丁寧に触れていたのに。いまは余裕がないらしい。
「綾先輩。俺はあなたが好きです。いつも紙の魔法使いみたいに奇跡を起こして、楽しそうにしている先輩の隣にいるのが本当に幸せでした」
「次は文芸部にでも入ったらいいんじゃないかな。言っていることが大仰だよ」
「嫌です。どんな部活であっても、綾先輩がいないなら意味はない」
 きっぱりと思いを告げたら綾はおそるおそると言った調子で顔を見せる。すぐ下に修がいるのに気づくとまた顔を隠したがったが、止めたようだ。手にしていた紙を半分に折ってから、また半分に折り、最後にまた半分にたたみ、椅子に座ったまま苦笑する。
「それで、修は私に何を望むのかな」
「大好きです。付き合ってください」
「可愛い後輩に頼まれたら、断れないなあ」
 綾の手が伸びてくる。ぽすん、と修の黒い髪の上に手を置かれた。
「ありがとうね。二年のあいだ、修といっぱい印刷してきたのが、本当に楽しかったんだよ。それで、これからも作れるかな」
「言いそびれていましたけど、俺の家に古い印刷機があるんです」
「そっか。見に行きたいな」
「来てください」
 うん、と答える綾の目は少しばかり潤んでいた。自分の恋情が、確かに綾に伝わったのだと伝播する。胸が熱い。
 いまのように、思いを紙で伝えることができなくなる未来は確実に訪れるだろう。修や綾もその時代の直前に立っている。これほど印刷や書き残すことができているいまは最後の奇跡の時代になるかもしれない。
 だとしても、修はできる限り綾には紙の魔法使いでいてもらいたかった。
 綾が見せてくれた多くの奇跡に魅せられて、修も紙で思いを伝える術を知ったから。何よりも、紙を扱っている綾は綺麗で楽しそうだから。
 大好きだから。

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