以前、自分の「口癖」は何か、と聞かれたことがあるのですが。
ようやく思い出しました。
「あらま」と「たはー」です。
ようやく思い出しました。
「あらま」と「たはー」です。
することが溜まっていて、いまはわりと私の心の余裕もなさそうです。
うーん。
うーん。
やっぱり真面目なことかつ、繊細な話題はサイトでするに限りますね。
「名作症候群」と、言えば良いのか、物語においてまで隙のない完璧な展開を求めるようになっている世界に近づいているとしたら、大変怖い。
『推しの子』の最終巻を読みました。
以下、ネタバレ注意です。
「推し」という感情のポジティブな面とネガティブな面を真っ向から描いた作品でした。
そして、グレーゾーンの行為に対して社会がいかに無力な点にも注目したいと思います。
カミキヒカルさんの行動については作中にもありました通り、「疑わしい」で留まるから、アクアさんは共に海に落ちて、互いの命を止める道しか選べなかった。
アクアさんも生きたかったのに。
しかし、カミキヒカルさんを止めないと永遠にルビーさんは命を狙われて危険にさらされてしまいます。
個人に対して、悪意があってもグレーゾーンを踏み出さない個人に対して、行政も立法も司法も圧倒的に無力です。
私はその点が一番やるせなかったですね。
だけれど、カミキヒカルさんのしたことを「罪だ」と断罪することも、危険が孕みます。
たとえ、カミキヒカルさんに明らかな悪意があったとしても。そのあたりは、思想や表現の自由とおそらく関わるでしょう。
カミキヒカルさんは、ただ「アイさんのことを話し続けた」だけなのですから。
……思想と、表現の自由。
私たちが、これからコンテンツの国として生きていくのならば、考え直さなくてはならないものの大きな一つでは? とも思います。
攻撃。誹謗。中傷。
「嫌い」と言う自由はあれども、そう言われたことに傷つく人もいます。
だけれど、「嫌い」と思う自由は奪ってはならない。
同時に可視化されたところで「嫌い」と表現することの、重さとリスクも受け入れた上で、「嫌い」という表明をすることの自由もあります。
その上で、私たちは「好き」と「嫌い」を表現することをもう少しじっくり考えてから、丁寧に選ぶ必要があるのではないでしょうか。
何かしらの影響を、人に与えるのです。
『推しの子』のカミキヒカルさんと、アクアさんのように。
何が正しいのかなんて、本当にわからない。
でも、そういったことはいまに始まったことではないのです。
長い間、どの時代にも理不尽はあり続けました。これからもきっと、理不尽と戦って生きていくことになるのでしょう。
ユートピアなんて、ありえない。
あるとしたら、その地で行われるのは思考放棄だけです。
現代の私たちは自分の「好き」を、「星」を信じてまっすぐに生きていくことは選べます。
できるのならば、その輝きが誰かを傷つけることのないように。
輝きに焦がされて、苦しむ方も別の「星」を見つけられるように。
祈り、願い、足掻き、時に絶望しながらでも良いから、生きていく。
いつか終わる、明日に向かって。
畳む
以下、ネタバレ注意です。
「推し」という感情のポジティブな面とネガティブな面を真っ向から描いた作品でした。
そして、グレーゾーンの行為に対して社会がいかに無力な点にも注目したいと思います。
カミキヒカルさんの行動については作中にもありました通り、「疑わしい」で留まるから、アクアさんは共に海に落ちて、互いの命を止める道しか選べなかった。
アクアさんも生きたかったのに。
しかし、カミキヒカルさんを止めないと永遠にルビーさんは命を狙われて危険にさらされてしまいます。
個人に対して、悪意があってもグレーゾーンを踏み出さない個人に対して、行政も立法も司法も圧倒的に無力です。
私はその点が一番やるせなかったですね。
だけれど、カミキヒカルさんのしたことを「罪だ」と断罪することも、危険が孕みます。
たとえ、カミキヒカルさんに明らかな悪意があったとしても。そのあたりは、思想や表現の自由とおそらく関わるでしょう。
カミキヒカルさんは、ただ「アイさんのことを話し続けた」だけなのですから。
……思想と、表現の自由。
私たちが、これからコンテンツの国として生きていくのならば、考え直さなくてはならないものの大きな一つでは? とも思います。
攻撃。誹謗。中傷。
「嫌い」と言う自由はあれども、そう言われたことに傷つく人もいます。
だけれど、「嫌い」と思う自由は奪ってはならない。
同時に可視化されたところで「嫌い」と表現することの、重さとリスクも受け入れた上で、「嫌い」という表明をすることの自由もあります。
その上で、私たちは「好き」と「嫌い」を表現することをもう少しじっくり考えてから、丁寧に選ぶ必要があるのではないでしょうか。
何かしらの影響を、人に与えるのです。
『推しの子』のカミキヒカルさんと、アクアさんのように。
何が正しいのかなんて、本当にわからない。
でも、そういったことはいまに始まったことではないのです。
長い間、どの時代にも理不尽はあり続けました。これからもきっと、理不尽と戦って生きていくことになるのでしょう。
ユートピアなんて、ありえない。
あるとしたら、その地で行われるのは思考放棄だけです。
現代の私たちは自分の「好き」を、「星」を信じてまっすぐに生きていくことは選べます。
できるのならば、その輝きが誰かを傷つけることのないように。
輝きに焦がされて、苦しむ方も別の「星」を見つけられるように。
祈り、願い、足掻き、時に絶望しながらでも良いから、生きていく。
いつか終わる、明日に向かって。
畳む
来年の雑記のサムネイルも描かないとですし、やることがたくさーん!
その前にやることが山積みです。
くてっ。