恋に必要な三つの要素

 「砂鳥文学教室」の看板は昼に降った雨により、輝きを増していた。
 その看板より上を見上げると、屋根があるが色は深緑で壁は白い。だが、その壁も日々の動きに翻弄されて少しずつ灰色の範囲を広げていた。
 一度視線を向けたら二度は向ける気のしない、ありふれた一軒家である砂鳥文学教室のある白銀谷は閑静な住宅街だ。バスの停留所に向かって歩けば銀行と小さな複合施設がある。
 その砂鳥文学教室には毎日、弓原梓が訪れている。
 最初は渋々と通っていた様子の梓だったが、次第に放課後になるたびに砂鳥の家に入り浸るようになった。それを砂鳥は拒むことをしなかった。薄謝であるとしても、生徒が一人でも多いだけで助かる家計がある。
 今日も砂鳥の家の部屋の一つを埋めている書斎から本を取り出して、学習室のテーブルに座りながら読んでいた梓だったが、砂鳥が紅茶を注ぎ直した時に言い出す。
「先生、私は恋をしました」
 初耳だった。いままで浮いた話がないと安心するような嘆くような調子で話をしていたというのに、いつの間に恋の花を咲かせたのだろう。
 感心はしたが驚きはしない。梓の向かいに座りながら砂鳥も本を開く。
「そうですか」
 ただ、それだけで終わらせるのは素っ気ないだろうと、続けるに相応しい言葉を探す。
 恋。砂鳥の手から飛びすさっていってからもう十何年経つだろう。
 そんな自分が恋について語るのは滑稽極まりないのだが、打ち明けてくれたということは何がしかの反応を求めているだろうから、せめてその見えない期待には応えたい。
 先生として、できることを。
「恋は」
 ぼーん。ぼーん。ぼーん。
 家に置いてある時計の重苦しい鐘が鳴り響く。それは三度響き渡ってから、舞台に誤って上がってしまった人のように立ち去っていった。
 砂鳥はまた、口を開く。
「恋とは、自信ですよ。がんばってください」
 結局言えるのはそういう当たり障りのないことだった。だが、いま口にしたことは真実だとも考えている。
 恋した人に愛される姿を描くには自らを愛していないと難しい。つまりは、自信だ。誰かに愛されるに足る存在だと自らを信じていないと恋などできはしない。
 恋は若者の特権ではないが、フィクションで恋に落ちやすい存在として描かれるのが若者なのは、情熱よりも若さゆえの美しさがもたらす自信なのだろう。
 すでに肌に触れると以前よりもかさついた感触を手に覚える砂鳥に、恋というものは、自信の象徴として映っていた。
 砂鳥の話を聞いているだろう梓は返事をしなかった。
 しばらく黙って本を読み進めていた二人だったが、時計の長針が中心を指したところで梓は本を閉じた。書斎にしまっていき、戻ってくると隣の椅子に置いていた鞄を持って立ち上がる。
 砂鳥も本を閉じた。しおり紐を挟んで机の上に置いたまま、学習室の扉を開ける。玄関に向かって歩く梓の後ろについていき、家を出た。鍵をかける。
 この後は砂鳥は夕食を作るのに足りない食材を買いに行き、梓は本屋か文房具屋に立ち寄って帰宅する。
 住宅街から歩いて十分ほどかかる複合施設まで二人並んで歩いていると、梓はまた口を開いた。
「先生は恋をしたことがありますか?」
「人並にありましたよ。あなたもよく知っている人ですが」
「だあれ?」
 間延びした口調で問いかけられるが、言うわけにはいかなかった。人差し指を立てて、片目を閉じながら答える。
「秘密です」
 特にむくれる様子もなく、梓は肩をすくめるだけだった。
 砂鳥は自分の好きだった相手を言えないのだから梓の好きな人も聞く資格はないと、また前を向いて歩いていく。
 複合施設までの間は、読んだ本の話をした。解釈は入れずに梓の感性を伸ばしていく。感じたことを研ぎ澄ませていけば、万物に対するセンサーが作られていき、何事も自分で考えられるようになる。それが砂鳥の教えられる唯一のことだった。
 そうして、四階建ての楕円型の複合施設に着いた。
 砂鳥はスーパーへ、梓は本屋へと別れていく。
 夕方の喧騒と特売のシールが踊るスーパーを歩きながら、肉のコーナーで立ち止まる。今日も牛は高い。鶏の値段もそこそこだったが、ささみと煮物用に切り分けられたもも肉を選んだ。他に人参はあるので、白菜でも買って鍋にしよう。あっさりとさせれば残暑の厳しいいまの時期でも食べられる。
 三人並んでいたレジを抜けて、そのまま帰ってもよかった。
 よかったのだが、梓はまだいるかと三階にある本屋に向かった。エコバッグが白菜の重みで揺れる。
 角にある本屋に足を踏み入れると、梓は周囲を見渡し、一人の店員に何事かを尋ねていた。天井の明かりがきらめくことにより店員がはめている指輪が照らしだされる。
 梓は店員に案内されて、文庫売り場へと姿を消していく。その間もレジスター近くの入り口に梓は立っていた。
 胸中では、ああ、と自分が振られたわけでもないのに切なくなってしまう。
 梓の恋の相手があの青年だとしたら、おそらく恋は実らずに終わる。
 散っていく花か、青いまま落ちるだけの恋の実というものは、いつだって寂しい甘い匂いを漂わせている。実らぬ恋を抱えることは乙女が大人になるにあたって必須の通過点だとしても、その時に与えられる痛みは常に残酷だ。
 文庫売り場から戻っていき、レジスター前に立った梓は、会計を済ませると真っ直ぐに砂鳥のところまでやってきた。紙のカバーがかけられた文庫本を一冊、押し付けられる。
 それが少女に不似合いな本なのは以前から知っていて、いまも砂鳥の家に増え続けているから、拒むことなく受け取った。エコバッグにしまう。
 今度こそ帰ろうと、エスカレーターまで移動してから降りていく。砂鳥が前に立ち、梓はその後ろに立っていた。
「先生」
「はい」
「父には、秘密で」
 砂鳥は声に出さずに頷いた。




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