何かしらの破片を積み上げていきます。
いつか一つの大きな“何か”になることを祈って。
小説(文字事)みたいなもの
2024年9月28日(土曜日)
詩
詩を書くことが苦手だ
自由が過ぎるために何を書いたら良いのかわからない
詩と小説を別つ水平線
それはどこにあるというのだろう
わからない
わからないまま言葉を重ねるしかできない
生まれた言葉を連綿と続けていく
その行為だけで成立するというのなら
少しだけならば詩を好きになれる
2024年9月15日(日曜日)
無音の楽団 Re:Praying
(タトエとソレシカ)
タトエが言う。
「ソレシカ先輩は、孤独だと感じたことはあるの?」
「タトエに先輩をつけられていることがもう孤独だな」
「……ソレシカ?」
「あり!」
タトエは思う。
先輩をそのまま呼んでいいのかなあ。
2024年9月9日(月曜日)
オリジナル
綺麗であっても汚いものがあるというのなら。
汚い中にも綺麗と感じられるものもあるのだろう。
だけれども、綺麗と汚いの性質は文脈によっておそらく異なるものとなる。例として、見目麗しさかそれとも品性に関わるものかといったところだ。
だから、私はかの聖女を告発することを決意したのだった。
2024年9月1日(日曜日)
銀鈴檻
(カズタカとアルトー)
密かに、痛い。
カズタカは一通の請求書を見ながら頭を悩ませていた。
その請求書は住処にしている宿「調律の弦亭」から渡されたものだ。内容は食費の請求書になる。
これがまた、結構な金額だ。以前はそこまで請求されることはなかったのだが、竜族の剣士であるアルトーが仲間になってから、桁が跳ね上がってしまった。
三か月くらいは払えないことはないだろう。しかし、それ以降をどうするかの算段をハシンとつけなくてはならない。
アルトーは人形を取っているとはいえ、竜だ。人より大食らいなのは当然だ。
しかし、現実は無情だ。必要な分は差っ引かれる。
カズタカはその後姿を不安げに見つめる存在がいることには気づかない。
翌日、カズタカは仕事から帰ってきたハシンに食費について相談をした。
ハシンは納得している。
「まあ、仕方ないね」
「ああ。来ても構わないと言った、こちらの責任だ」
そこまで口にしたところで、話題の主であるアルトーが訪れた。
「ハシン。カズタカ。ごめん」
「気にしなくていいさ。でも、どうしたんだい?」
アルトーは背に大きな荷物が入った袋を持っている。机の上に置いた。
中身を見て、カズタカもハシンも沈黙した。野草や卵、爪など様々な収穫物がある。
「人の世界は、交換。俺はそれを忘れていた。だから、狩った」
アルトーは誇らしげだ。
「おい。これ、かなりの高級品だぞ」
「なるほど。アルトーにはこうしてもらえばよいわけか」
腰が引けているカズタカとは反対にハシンは微笑を浮かべて頷いていた。アルトーに向き直る。
「狩りは君の大切な仕事だ。これからも頼むよ」
かくして、一日だけでアルトーの食費という問題は解決したのであった。
イラストみたいなもの
2024年9月27日(金曜日)
2024年9月20日(金曜日)
たぬきさんです。
珍しく、動物らしいフォルムで描けたので見てもらいたくなりました。
2024年9月11日(火曜日)
パステルステンドグラスにしたかったけれども、中々うまくいかない一品。
感想みたいなもの
2024年9月17日(火曜日)
最近は、自身のときめきの源泉を探るということをしています。昔から好きな作品を読み返しているのです。何に、どうときめき、惑うていたのか。
現在はOYSTER先生の『超可動ガール1/6』を読み返しています。分数は一瞬、表記に迷いますね。
こちらも徐々に主人公である房井田さんと、ノーナさんを初めとするヒロインの皆様がハーレム的な関係になっていくのですが、本当に房井田さんと誰がくっつくのかはらはらしたものです。
「特別」という存在の難しさと、不平等性を考えさせられます。ですが、その揺らぎが私も好きなのでしょうね。
2024年9月8日(日曜日)
『旅するように暮らしたい』(胡桃ちの先生著/竹書房刊)という四コマ漫画の終わりが未だに衝撃です。二人でいられなかったら、いつでもどこかへ旅に出るつもりであったとしても。
まさか、波平(なみえ)さんが凪さんを置いて遠くにいくとは思わず……。こちらも、Web連載というリアルタイムならではの衝撃を味わいました。
その他
2024年9月24日(火曜日)
彼岸花も非常食になるのですって。毒があるというのに。
最近になって知り、びっくりしたことでした。毒があるのに非常食。何かしらのネタに使えそうな気持ちにもなりますね。
2024年9月7日(土曜日)
「もどき」には蔑視的なニュアンスが含まれているのか。
ですので、今月から「成瀬の物置き」の「もどき」を「みたいなもの」に変えました。
意味合いは変わらないというのに、印象が変わるのはどうしてでしょう。あくまでも言い逃れ、自虐的なニュアンスは逃れられないのですが、軽くはなっている気がします。
それとも、それも「気のせい」なのでしょうか。「もどき」の方が本質には近いというのに、逃げているのでしょうか。
そういったことを考えてしまいます。