だけどきっと、悪くない

注意:こちらの小説には『花園の墓守 完全版』のネタバレが含まれます。

 由為と七日が立ち去った彼岸では、今日もまた一人、己を構成する字を全て失った。
 まだ言葉を話せる間に後悔を尋ねるが返事はない。今生も満足いくものだったと爽快に笑い、人の形から字へと還っていく。ぼろぼろに傷ついた字たちは丁寧に黒塗りの箱に収められて、かつて此岸の境であった河に沈まされた。静かなうねりの中に巻き込まれて、遠ざかり消えていく。時間が経てば河は無慈悲包容の様を見せつける。この河は何もしない。黙って呑み込んで字を世界へと還元していく。
 その流れも断ち切られたが。
 彼岸に残る人の数も両の手の指を折らなくても済むようになってしまった。人の痕跡を残すのは沈黙する書館と遺された本、そして花々だけになるだろう。
 影生だって関係がある。
 だけど、怖くはなかった。もとより託されて生きながらえた命だ。やるべことをしたのならばいつ字に還っても良い覚悟が花影という存在にはある。
 隣に立つ衛を見る。
 彼岸最後の管理人は、以前ほど泣き言を漏らさずに葬礼を執り行えるようになった。かつて影生の仲間たちを、歯を食いしばりながら見送った青年はいない。手を打ち鳴らして変わってしまった。
 緑の髪と瞳のすっきりとした容貌の青年、衛はかがんで己の扱う剣を取り、それまで河に落とすところだった。柄を握っていた手が開かれる。剣は真っ直ぐに落ちていき一瞬、水面を突き刺してからまた沈んでいった。
 また何も見えなくなる。河は全てを字に変えて咀嚼してしまう。
「待たせたね。帰ろうか」
「帰るけど。いいのか、あれ?」
「ああ、もうここには剣なんて必要が無い」
 衛の言う通り、彼岸は平穏に満ちている。いずれ滅びが訪れることを全ての住人が納得していた。人によっては自身の歴史を本に記し、人によっては友と記憶を語り、人によっては静かに花の浮かべられた茶を口にしていた。
 赤に染まっていく空を見上げながら、影生は呟いてしまう。
「由為と七日は元気かな」
「あの二人が元気じゃないならどこかで世界が滅亡しかけているよ」
 実際にはいまも由為と七日は呑気にどら焼きを食べているのだが、衛も影生も知ることのできるはずがなかった。世界が違う。
「貴海さんも元気でいるはずだ」
 その名詞を耳にして影生は苦笑する。どうやら衛は想像以上に吹っ切れていた。衛の信じる力が強いことは、彼岸の管理者の仲間たちと少ない時間を過ごしてよく知っている。
 屋敷へと続く花園を歩く途中だ。衛は言う。
「そういえばさ。きさらさんへの言葉をいまだに悩んでいるんだ。どうしようか」
「はっずい話を振ってくるなー」
「言うと思った」
 笑う、衛の顔を見つめる影生の心情は複雑だった。
 旅立った由為と七日のために、何より自身のために、衛ときさらは彼岸に残っている。それはやがて彼らも滅びを迎えるということだ。
 二人はこの世界の外には出られない。何も遺せない。
 だけど、いま生きていて、遺せないことが無意味な生を送った証明だという言葉を否定できる強さがある。
「好きです、だけじゃ駄目なのかな」
「もっと効果的な一言が欲しいわ。そうだ」
 立ち止まる。衛は振り向く。
 眩しくないからはっきりと見られる、友人を見つめながら影生は言った。
「俺と一緒にいてくれ」
「俺がそれを言うの? 口調が違うよ」
「うるせいやい。調整しろ」
 意味は伝わらなかったと、清々しい気持ちになれた。
 衛は影生より先にいなくなる。そして、きさらも衛より長く彼岸にいることになるだろう。衛は特性として字をありのまま受け止めてしまうから、きさらや影生のように影響力を弱めることなどできはしない。不器用な青年だ。
 そうでなくては影生が気に入って友になど選びはしない。
「なあ、衛。行きたいならお前もここ以外に行けばいい。彼岸には、俺と弦が最後までいるから」
「ううん。俺が最後の管理者だ。ここにいる」
 頑固で譲らないのでせめてものヒントをくれてやることにした。
「それこそ、俺じゃなくきさらに言ってやれ」
 きょとんとしてから合点のいった笑顔を浮かべた。
「そうだね。これが、俺がきさらさんに伝えるべき言葉だった」
 まったくもうと肩をすくめながら目を閉じて、苦く笑ってしまう。
 この青年を見送る時はどんな表情になるだろう。笑うのか、泣くのか。泣いたことのない影生にはさっぱりだ。
 だけどきっと。悪くない気分だろうという確信はあった。

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