約束をした。
それは些細な、だけれど大切な約束だから、せめてそれだけは守らなくてはいけないと不実な自分が決心した。
流月の十三日に、緑の髪と茶色の帽子を揺らしながら一人の青年が街を歩く。向かう先は決まっているが、どこに向かうかはまだ決めかねている。目当ての人物が住まいにしている宿にはすでに行ったが知っている顔はどこにもなかった。その人物がどこに行ったのかと下宿屋の主人に尋ねてみたが、小さな子どもに捧げられる微笑と共に緩やかに首を振られた。
知ったことかと。
それは不親切というよりも放任が為すことだったため、青年も下宿屋の主人に腹立てることはしなかった。相手もすでに成人している。逐一どこに出かけていつになったら帰ってくるか確認することはしないだろう。本当の家族でもないのならばなおさらだ。
当て所なく青年は歩く。歩く。たまに共通の知り合いを見かけたならば、目的の人物を見かけていないかを尋ねた。首を横に振られることもあれば、指を使って方角を示されることもあった。
そうして向かうは皇帝通り。絢都アルスの中心を貫く道を、周囲を見渡しながら進んでいくと商店街の入り口にある本屋の入り口付近で見慣れた後ろ姿を見つけた。
音もなく近づいていき、肩を叩く。
灰青色の髪の青年が振り向いて、吊られた青い瞳が丸くなった。
「どうしたんですか、レクィエ」
ここまで歩いてきた青年、レクィエは素っ気なく答える。
「約束を守りにきただけだよ。クレズニ」
レクィエの捜し人であったクレズニ・ロストウェルスは手にしていた本を棚に戻して外に出る。人の往来の妨げにならないところまで移動して、話を聞く姿勢を取った。
今日という日を、交わした約束を覚えていないだろうクレズニにレクィエは苛立ちよりも寂寥感を覚えた。
流月の十三日。それはクレズニが生まれた日だ。
誰にも告げられぬように教えてもらったことに珍しく浮かれたレクィエは、クレズニの誕生日を祝う約束をした。そのことを覚えていないのか、聞いてみるとクレズニは観念したかのように苦笑した。
宣言通り誕生日を祝われると信じていなかったのか、それとも純粋に自分の誕生日を忘れていたのか。どちらにしろ悔しくなる。
レクィエの不機嫌を感じ取ったのか、クレズニは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。誰かに祝福されるなんて久しぶりですよ」
「大袈裟だな」
だけれどそれは事実なのだろう。
レクィエもクレズニの生まれが特殊で育ちが異常なことは知っている。貴族であったため、儀礼的に祝われることは多々あっただろうが、その祝ぎに真心が伴っていたかは不明だ。
いままで祝福されたことがなかったというのなら自分が誰よりも先に祈りを捧げたい。たとえ神を信じていないとしても。
レクィエが歩き出すとクレズニも隣に並んで歩く。皇帝通りへ戻る道を進みながら、すでに街に馴染んだ青年のことを考えていた。
クレズニは妹のサレトナが絢都アルスにあるシラト学園に留学するため、その付き添いとしてこの街に訪れることになったと言っていた。その妹は大変厄介な一面を持っているので、実際は鈴として付けられたのだろうとレクィエは予想していている。
クレズニ自身はすでに学業を修めていて、レクィエは十五の時に無償の学校を終わらせた。自身には実学はあっても高尚な知識は少ないのだが、それでもクレズニが学ぶことを好んでいるのと十二分の学力を持っていることは知っている。前回に終わりの言葉遊びで随分と痛い目に遭わせられたほどだ。
「院に進むこととか考えなかったのか?」
「夢を見たことはありますよ。ただ、家のことがあるので諦めました」
クレズニとサレトナはこれでもあれでも東の地方の名家でありその土地の代表だという。だから、望まれたことは多く願えることは少ない。
しかし、だからといってクレズニがそう簡単に夢を見ることを諦めたとは思えなかった。
「家、というかサレトナだろ」
その質問には曖昧に微笑まれるだけだ。否定でも肯定でもない、消極的な了解に胃が僅かに濁る気がする。
サレトナのことは嫌いではない。嫌いではないが、クレズニが自らの定めを受け入れると諦める時には疎ましく感じてしまう。兄妹という関係から、歪な搾取をしていると感じるためだ。サレトナはクレズニの自由を奪ってしまっている。
クレズニはサレトナのことを心配して、大切にしているのに、サレトナはそれを理解しようとしていない。
妹は人殺しを見る目で兄を見返す。
兄は妹が自分を見返す目を受け止めてゆっくりと目を閉じる。
二人は、そういう関係だ。
どうして二人がそういう関係に至ったのかは知らない。繊細な皮膚の下に隠された柔らかで癒え切らない過去だろうから触れるのも憚られる。安易に触れて薄い膜を破き、出血させるのが恐ろしかった。
レクィエがクレズニの名前を呼ぼうとした時だ。
目の前にバイクが止まる。きゅ、と少女の悲鳴の音を出して行き先を阻んできた。
運転手のヘルメットが外される。現れるのは夜色の肌と黒髪をきつくねじれさせた妙齢の女性だ。
女性は厚い唇を楽しそうに曲げて言う。
「レクィエ、隣の色男はどうしたんだ? そんなのを連れているなんて珍しいじゃないか」
「見せたくなかったが仕方ない。俺の恋人だよ、ミセス・ドーカー」
慌てるクレズニを放置して軽口を叩けばドーカーは傍迷惑なほど大きな笑い声を上げた。ヘルメットを荷物の詰まった後ろ籠に投げて、ドーカーは顔を寄せてくる。
「はじめまして、色男。あたしはミセス・ドーカーだよ。配達人の仕事をしているのさ」
「私はクレズニといいます。コンペールさんの事務所で手伝いをさせていただいています」
「自己紹介あリがとさん。それにしてもさっきから不機嫌な面をしているレクィエはどうしたんだい?」
理由はわかっているくせにあえて聞いてくる。察してくれて無言を貫いた。
それに対してクレズニはまた苦笑する。
「わかりません」
「あんたには関係があるけれどどうしようもない理由だよ」
レクィエが遠回しに「さっさとどこかに行ってくれ」といえばドーカーは感心したように頷いた。
「ふーん。そうなんだねえ。なら、いまこのバイクの中にはいろいろ面白い達人の技があってさ。それで機嫌の一つでもとってみようじゃないか」
ドーカーの説明にクレズニが首を傾げたので、囁いて説明した。
達人の技を配って歩くためにミセス・ドーカーは「配達人」と呼ばれている。納得したようだが、今度は達人の技とはどういうものか疑問に思ったようだった。それについてはドーカーとそこにまつわる会社の企業秘密があるためわからない。
ただ、ミセス・ドーカーのもたらす技は偉業をもたらす。
「あったあった。こんなのは?」
ドーカーが札を差し出す。包装する袋に書かれている文字は簡潔だった。
「忘れる達人の技」とだけ記載されている。
首を傾げる二人にドーカーは得意げに説明した。
「使い方は簡単。この札を貼られるだけで、貼られた方は大切な人を忘れるのさ」
「ふーん」
そうだな。
もし、それでクレズニがサレトナを忘れたら、少しはすっきりするのかもしれない。妹のことも家の確執も忘れて、クレズニが未来のことを考えて行動できるようになるのなら、それもまた良いだろう。
レクィエはそういったことを考えていたのだが、クレズニは緩やかに拒んだ。
「興味はありますが、やめておきます。もしそれでレクィエを忘れてしまったら、今日が台無しになりますから」
「ほお。そりゃそーだな」
ドーカーはもっともだと笑いながら大きく頷くと、札を元の箱にしまった。意外な発言に立ち尽くしているレクィエの肩を強い力で叩く。そして小さな声で囁いた。
「よかったね」
「お節介あんがとさん」
同じ声量で素早く言い返す。クレズニには聞こえないと良い。
一連のやり取りを終えたミセス・ドーカーはバイクに跨ると左手を降ってからまた去っていった。嵐や台風ほどではないが、強風程度には唐突な存在であった。
青いバイクが去って行ったあとに、レクィエが歩き出すとクレズニはまた付いてくる。隣に並んでレクィエの横顔を見つめている。
「なあ」
「はい」
「俺はサレトナ以上の存在なの?]
言うのは野暮であるから、誰にとって自分がサレトナ以上の存在であるのかは触れなかった。ここでカクヤなどという誤解もしないだろう。
わずかな期待を持った言葉に返ってくる答えは柔らかかった。
「それは答えにくいですね」
「ったく」
弾んでいた心が地面に到着して勢いをなくしていく。だが、それは安心でもあった。自分がクレウニにとって一番大切な存在になるというのは恐ろしくもあった。
少し早足になるレクィエだが、クレズニはまだついてくる。
「すみません。サレトナは兄妹というだけではなくて、私にとって意味付けられた存在ですから」
当たり前のように口にするが、それは穏やかならざる言葉だった。
クレズニは一体何を抱えているというのだろう。愛でもない。恋でもない。憎悪でもなければ嫉妬でもない。
それでもクレズニにとってサレトナは特別な少女だということが十分に伝わってきた。妹なのに、というべきか。妹だからというべきか。血を分け与えられたという事実よりも濃い縛りが二人にはある。
それが、生まれついてのつながりなど何一つないレクィエにはひどく理解しがたいものに見えて、黙るしかできない。価値観の違いは大きな壁だ。
歩く。
「だからこそ」
クレズニが話す。
「偶然、出会えた貴方という人が私を愛してくれていることが、傍にいてくれることが嬉しいのです」
その言葉を聞いて足が止まった。
なんだそれ。不意打ちだろう。
色の変わらないレクィエの頬を見ながら、クレズニはさらに止めの言葉を重ねていく。
「貴方は私にとって希少な自由なんですよ」
半径四十センチメートル内にある整った顔立ちがにこりと笑う。恥ずかしがるでもなく、ただ眩しいものを見上げる光を抱きしめながら。
いますぐにでも抱きしめたい健気さに胸を撃ち貫かれた。ただそれをするには往来に人が溢れすぎているので、照れているのを隠すのにそっぽを向くしかできはしない。
そして、ぽそりと言葉を落とした。
「俺があんたにとっての自由なら、あんたは俺の戒律だよ」
守らなくてはいけない。
交わした約束を破ってはいけない。
そういった、単純に自分を留めてくれる存在だ。
「それは光栄ですね」
「ああ。だから今日も守らせてくれ」
今度はレクィエはゆっくりと歩き出す。
さあ、今日という一日をどう過ごそうか。
自由と戒律
