猫が顔を洗うと雨が降ると言う。だが、史月一日はいくら猫が懸命になろうとも覆せないほど駘蕩な晴天だった。
沈黙の楽器亭では明日のサレトナの誕生日に向けての準備が進められている。そのために宿を追い出された特客であるカクヤとサレトナは、二人で皇帝通りと予言通りの間にあるシャレート公園を歩いていた。公園の北には噴水があり、その周辺では服を着た子ども達が水遊びをしている。その様子を眺めながらカクヤ達は西にある予言通りへと歩いていた。
遊具が置かれている広場の芝生には若い夫婦が敷き布を広げて駆ける子どもを見守っている。子どもは父親の呼びかけに手を挙げて、母親はその様子を微笑みながら眺めていた。
戦火の気配とはほど遠い平穏の灯火が至るところに咲いている。
カクヤは周囲を見渡しながら満足していた。街を守る任を任されている特客として、平和な日常というものは喜ばしい。結局、自分の求めるものは血で血を洗い勝ち取る栄光ではなく、ありきたりな平凡の中で午睡する宝石だった。
そのことに気付かせてくれたのは、サレトナだ。カクヤにとって誰よりも愛しく、守りたい少女である。彼女が微笑んでいられる世界であり続けるのならなんだってするだろう。
「こんなにいい天気だから出かけてきなよ、というのはわかるけど。日が暮れるまで帰ってくるなだなんて、明日は一体誰のお祝いなのかしら」
「サレトナしかいないよ」
「知っているけど」
軽口に対して口元に手を当てる様子にまた安心する。
いつかのサレトナの誕生日の時には、普通に祝われることに慣れていない少女は泣き出してしまった。だがいまは自分の生まれた日を喜んでいいものと受け入れられている。
サレトナは、生きていていい。生きたいと望んでいい。
しばらく歩いてから公園の西側にあるベンチに座る。広場から少し離れた休憩地点には誰もいなかった。たまに犬の散歩をする人が通る程度だ。
さて、これからどうするかとカクヤは考える。
タトエたちから準備が終わるまで帰ってこないでもらいたいと言われたが、前祝いにいつものカモノハシの涙亭で二人きりで食事をしてもいい。他にはすでに用意してはいるが、何かプレゼントを探しに街を歩いても楽しいだろう。
カクヤが隣に座るサレトナに訊こうとしたところで、ざっと砂を蹴る音がした。
「見つけたわ!」
仁王立ちするのは見覚えのない少女だった。
長い金髪を魚のひれのように高く結わいていて、やや吊り気味の青い瞳には厳しい光が宿っている。動きやすさを優先しているのかフードのついたパーカーとショートパンツ、横縞のスパッツなどが相まって活発な印象を与える。
それにしても誰だろう。
「フィリッシュ!」
サレトナが立ち上がり、反応する。フィリッシュと呼ばれた少女は険しい表情から一転して笑顔になると、飼い主に飛びつく犬のようにサレトナに抱きついた。それだけで二人には浅からぬ縁があると知れる。
「沈黙のに行ったら、サレトナはデートに行ったって赤い男に言われて心配したのよ」
「で、デートでは、ないわ」
カクヤは少し傷ついた。自分もそう思っていたわけではないが、正面から否定されると切なくなる。
声をかける間もなく話をしているサレトナとフィリッシュをしばらく眺めていたが、サレトナにしがみついたまま顔を向けられる。
「この人がカクヤ?」
「ああ。カクヤ・アラタメだ。よろしくな」
立ち上がって、サレトナの隣に立って手を差し出す。瞬時にぺん、とはたき落とされた。
この人物は自分に対して良からぬ感情を抱いているな。かといって、サレトナの友人らしいのに喧嘩を売るのは良くない。うん、良くない。
「私はフィリッシュ・ノートル。サレトナの大切な友人よ。昔からの、ね」
「へえ、いたんだ」
「二重に失礼な男ね」
あからさまに顔を不機嫌にゆがめられる。とりあえず謝った。
フィリッシュはサレトナから離れると、髪を弾く。陽光を受けて金の髪は周囲をきらめかせた。
「まあいいわ。あなたが、カクヤならサレトナを賭けて勝負よ!」
「どうして!」
驚きの声を上げたのはサレトナだ。カクヤは流れを見守るしかできない。
「サレトナの長い友人として、あなたを託すのに相応しい男か知るためよ。そうでもしないと、夕陽の橋にいくら勧誘しても来てくれない理由を仲間に言えないじゃない」
カクヤは思う。
フィリッシュはサレトナの兄であるクレズニが何かを拗らせて面倒になったようなタイプの少女だ。サレトナを思いやってくれているのはありがたいが、どこかしら空回りしてしまっている。
そもそも自分はサレトナとこの少女が長きにわたる友人であることしか察せていない。もう少し情報が欲しいのだが、そういった時間などくれなさそうだ。
「まあいいけど。で、勝負はどこで何をするんだ」
これでもカクヤは自分の力量に一定の信頼は置いている。武が絡むことならそう簡単に負ける自信も、負けてやる気もなかった。サレトナがかかっているのならなおさらだ。
「そうね。公園の中央広場で射的をしているから、そこで白黒つけましょう」
言い終えるとフィリッシュは歩き出す。
なんだかややこしいことになってきた。フィリッシュを先頭にしながら、サレトナと並んで歩いていると、服の裾を引かれる。サレトナに顔を近づけた。
その控えめな動作を可愛いなあと思いながら。
「ねえ、カクヤ。負けていいからね」
「え」
予想外のことを言われた。
本意を質そうとするが、フィリッシュににらまれて距離を作ってしまう。
これは、勝った方が良いのかそれとも負けるべきなのかどちらだろう。射撃は剣に比べたら慣れてはないが、勝負の場で手を抜くほど苦手でもない。それでも、サレトナは無理に勝たなくていいと言う。カクヤが勝つと面倒な事でも起きるのだろうか。
先ほどまで翳りのなかった空に少しだけだが雲が出てきた。
中央広場に着くと、簡易な祭りが開かれている。輪投げやフィリッシュの言っていた射的などが並んでいた。射的は結構、大人も挑戦している。しかし商品は簡素なものばかりだ。
フィリッシュは射的の屋台に駆けよっていき、代金を払う。そして、通常の間合いよりも広く取って的を狙った。コルク弾は一発ずつ跳んでいき、確実に点数の書かれた板を倒していく。もしくは当てていく。
フィリッシュの射的での合計点数は最高点に一歩及ばない二百四十点だった。菓子の詰まった袋を景品として渡されると、それをこれ見よがしに見せつけられるが、カクヤの意気は低いままだった。サレトナの言葉が頭から離れない。
負けていいから。
射的のための空気銃を受け取って、狙いを定めていく。コルク弾は真っ直ぐに的に向かって跳んでいく。
だが、点数は伸びなかった。最後に二十点の札を倒して合計は百八十点で終わる。
それでも健闘したと大きなキャラメルを一箱渡される。扱いに困った。手で弾ませながら、フィリッシュとサレトナのところへ戻っていく。
「この天井突破バカ!」
いきなり、叫ばれると菓子の入った袋を投げつけられた。受け止めながら顔をしかめる。
「どういう意味だよ」
「サレトナを賭けた勝負って言ったじゃない。どうして負けられるのよ! あなた、サレトナを絶対に守るんでしょう」
「なにゆえ知っている」
サレトナを見るが、言っていないと両手を振って懸命なジェスチャーをされた。フィリッシュに視線を戻すと、ふんと鼻を鳴らしてカクヤに背を向ける。
なんだ。本当に、なんなんだ。
温厚な部類に入るカクヤだが、登場してから場面を乱してばかりのフィリッシュにそろそろ呆れが募ってきた。サレトナの友人で、彼女を大切に思っているらしいが、どうしてこれほど当たりが強い。
怒鳴るほどではないが、短く息を吐いてしまった。
そこで、おかしな声が聞こえた。
十一時半に皇帝広場を歩きながら、カクヤはフィリッシュに確認する。
「サレトナはここにいるよな」
急にかき消えたわけでもなく、走り出したわけでもなく、アーティファクトに触れて転移させられたわけでもなく、サレトナは一緒にいる。そのことを確かめる。
「うん」
当の本人であるサレトナが頷いた。
「だったらこれはなんなのよ」
先ほどまでいたシャレート公園におかしな声で鳴く烏がいたと見上げると、一枚のカードを落とされた。そこには十一時を指定してサレトナの誘拐予告が書かれていた。
突然の事態に休戦したカクヤとフィリッシュだったが、サレトナは無事のままだ。皇帝広場の中央にある、賢帝メテオノールの像の前にいると、今度は空から風船が下りてきた。ふわりふうわりとした動きにフィリッシュの手が伸ばされる。
今度のカードには、十三時にサレトナの身柄を交換すると書かれていた。
「さっきから思っていたけれど優雅犯ってなによ」
「知らないさ。とりあえず、俺は指定されたここに行ってみるけど」
「私も」
カクヤが言うとサレトナも言う。
身の安全を考えると、沈黙の楽器亭で待たせたいがその間に何が起きるのか想像できない。ならば一緒に行く安全をカクヤは選んだ。大抵の荒事ならば守れる自負はあり、サレトナも決して無力な少女ではない。
「私も行くわ」
退かないフィリッシュに、まだつきまとわれることにげんなりする気持ちはあったが、先ほどの射的で銃の腕前は証明されている。それに、カクヤに何かがあったとしても、フィリッシュがいれば外部に助けを呼べる。
そのように判断したカクヤは交換現場として指定された、屋敷へ行く。
指定された屋敷の名はミートルス邸とあった。
皇帝通りから離れていき、人通りの少ない路地を辿っていくと悄然とした佇まいの、深緑の屋根と古びた煉瓦で作られた屋敷がある。
扉に鍵はかかっていなかった。いつでも入ってきたまえという傲慢さを感じ取る。
「一見すると、中には一人しかいない。あと罠の類いもないわ」
「わかるのか?」
「これでもラウンジャーよ。舐めないで」
ラウンジャーというのは探求の際に周囲の警戒を担当する。円単位で探知することから、そう呼ばれるようになったらしい。
サレトナに視線をやると頷かれたので、フィリッシュの腕は舐められるものではないのだろう。それに、この優雅犯というのと組んでいるとも考えづらい。信用することにした。
屋敷に入る。エントランスがあり、両端には廊下があり、正面からは三つの部屋へと続いている。
「人がいるのは中央ね」
今回は遺跡などの探索が目的ではないので、真っ直ぐに向かうことにした。周囲の気配も探るがわかりやすく生きている存在の気配はない。フィリッシュからも言われる。
それにしても今日はなんて一日だ、とまた息を吐きたくなる。最初のときめきを各方面から返してもらいたい。
中央のチョコレート色の扉を開けると、中は意外にも明るかった。部屋には椅子だけがあり、そこに仮面を被った女が足を組んで座っている。
ハシンが見たら笑いだしそうだ。それほど、舞台がかっている。
「よく来たわね。私のことはとりあえず、ミルスでいいわ」
「ミルス、サレトナを誘拐したってどういうこと?」
「正確には誘拐したかったのよ。ロストウェルスの預言の娘をね」
呼ばれたサレトナの体が僅かにこわばるが、それでも強気に言い返す。
「私は預言者ではありません」
「そうかもしれない。でも、ロストウェルスの血を引く子というだけで、引き出せるものは世の中には沢山あるの。ちょっとだけ貸してくれない?」
「無理」
「だめ」
前に出て返事をしたのはカクヤとフィリッシュだった。先ほどまで良好とは言いがたい
関係だったが、サレトナの危機を前にして結託することを相談せずに選んだ。両方にとってそれほど大切な存在だ、サレトナは。
ミルスはつれない返事に肩をすくめる。さほど落胆はしていない。
「残念。まあ私たちは優雅犯だから、強引にさらって意識をなくすとか乱暴なことはしたくないのよ。だから、盗んだものを使わせてもらうわ」
ミルスは一冊の帳面を見せる。固い紙が周囲に貼られている、帳面といえど薄っぺらいものではない。
それにひどく嫌な予感がした。
「あなたと、そのご姉弟に関する情報だけは手に入れられたわ。さあ皆々様。語らせていただきましょう」
耳を塞ぐサレトナを、カクヤは抱きしめる。なにも聞こえないように、届かないように。そうすることでこれから語られることをなかったものにできると信じた、愚行だ。
それに対してフィリッシュは前に駆けだしていた。そのあいだにもミルスの声が紡がれてていく。
「近親者の証言、その一。サレトナ・ロストウェルスは危険だ」
ごうん、と音がした。
カクヤが顔を上げるとフィリッシュが拳でミルスの横の壁を陥没させている。どれほどの膂力があればたやすくできることだろう。
いまだ帳面を広げたまま、仮面の女性は表情を見せないまま軽やかに笑う。
「乱暴ね」
「ごめんあそばせ? 人の秘密を読み上げるなんてことをする、外道のどこが優雅なのかしら。ご教授願いたいのだけど」
「そうね、武力行使よりははるかに」
「人を辱めるということの下衆加減を知れと言っているのよ!」
厳しい叱責が、びりびりと廃屋敷に響いた。
格好良いところを取られっぱなしだ。そう思いながらもサレトナを抱きしめる腕を放さない。サレトナは、カクヤの二の腕に手を置くと青ざめた顔であってもきちんと前を向く。
「カクヤ」
「ああ」
カクヤはサレトナの手を引いて、ミルスに正面から近づいていった。そのまま手を突き出す。
「それをよこせ」
「断ったら?」
「少し不自由な目に遭ってもらう」
三者の視線が交錯する。動かない。下手に動くとフィリッシュの拳はミルスに向かい、カクヤの手はミルスの帳面に伸びる。
「ふう」
ミルスは帳面を渡すことにしたようだった。フィリッシュに向かって差し出す。
「カクヤとやらには渡せないけれど、真っ直ぐに私に向かってきたあなたにならいいわ」
ひったくられるように取られたあと、ミルスの姿が薄れていく。そうしてそのまま消えていった。人の気配がするとフィリッシュは言っていたが、どうやら幻影だったらしい。つまりは、今後もサレトナが狙われる危険性は高い。
フィリッシュは手にしている帳面をすぐにサレトナへと渡した。中身を見ようともしない。そんなことを考えない。素直さと心遣いはこの少女の美徳だった。
サレトナは帳面を受け取ると、すぐに凍らせる。サレトナ以外が触れると指先から凍っていく封印の魔術だ。
気分の悪い状況は変わらないまま、屋敷を出て行く。扉をくぐる前にフィリッシュは言った。
「カクヤ。あの腹立つ女の言ったことはよく考えた方がいいわよ。あの女は、あなたにはサレトナの秘密を知るのにはふさわしくないって言ったんだから」
「そうだな」
いくら守ると決めていても、外の人間にとって自分はサレトナの秘密を確かめる資格はない存在だと決めつけられた。情けなかった。それは、サレトナの秘密に立ち向かうのではなくて、何もかも見えないようにしたところから判断されたのかもしれない。
それぞれの宿木に帰る途中で、フィリッシュは振り向く。
「サレトナ、やっぱり夕陽の橋に来ない?」
先ほども聞かされたスカウトだ。
「仲間の皆もサレトナなら歓迎する。こんな、あなたを守る覚悟のない男といるよりも、あなたを守ることができる!」
「それでも俺は、サレトナを守る」
変わらない誓いだ。それをフィリッシュは一段高いところから見下ろしていた。
「守るという言葉の意味もわからないガキが、何をほざいても滑稽なだけよ」
言葉を重ねられることはなかった。
立ち去っていくフィリッシュの後ろ姿を見ながら、カクヤはただ拳を握りしめる。
サレトナを守る。悲しいことから、辛いことから、全てを庇う剣になる。その覚悟を批判されたことが、痛いとか辛いとかよりも、情けない。
カクヤの指にサレトナの手が、一本ずつ添えられていく。包み込まれる。全てを覆うには足りなくても、カクヤを守ろうと包容してくれた。
「カクヤ、ごめんね」
「サレトナは悪くないよ」
なら、誰が悪いと言うのだろう。
きっと、それは。わかっている答えを直視する。
カクヤは沈黙の楽器亭で肘をついて考え込む。
明日のきらめきは失われていないが、今日の一件がちくちくと喉に痛みをもたらす。フィリッシュの存在、振る舞い、言われたこと。全てが胸にさざ波を起こさせた。不愉快とは違う。自己嫌悪とも違う。ただ、降りかかってきた小さな礫の痛みが忘れられない。
「あ、カクヤ! 暇なら夕食の仕込みを手伝ってよ」
通りかかったタトエに言われる。このままアンニュイに浸ってもいられないので、立ち上がって厨房へ向かった。そこではオニオンスープを作るために、玉葱とバターを水で炒めるように頼まれた。
最初はみじん切りにされた白い玉葱が飴色に染まっていき、とろけていくのを見つめる。この下ごしらえはわりと好きで、慣れたことだった。
じゅうじゅうと立つ音を聞きながら、また思考は勝手に沈む。
サレトナは帰宅してからクレズニのところへと行った。ロストウェルスの名が絡むのならばそうなるのだろう。あの兄妹の因縁はこんがらがるにこんがらがっている。その内密をカクヤはまだ明かされていない。信頼されていないわけではなく、二人にとってロストウェルスの名によって背負わされたものと為すべきことはそれほど重いのだ。だから聞かない。聞けない。
カクヤはサレトナのことが大切だけれど、サレトナのことについて知っていることは少ないのだろう。甘いものが、特に桃や葡萄が好き。フリルは少しだけでいいから服の裾に付けていたい。最近は大人しいけれど本当は活発で気の強い少女。
そういったことしか、知らない。
カクヤはひたすら玉葱を炒めてはとろかして、それを鍋に移してスープにするといった作業を続ける。集中はしていたが、思考は散漫だった。
時計の針が動く。もう十六時だ。
「カクヤ、お客さん」
手を止めたところで、厨房に入ってきたソレシカに言われた。
「ああ。出る」
コンロの火を落として、外に向かおうとする。聞かれる。
「今日はなんかあったのか」
「まあいろいろな」
通りすぎる間際に軽い会話をするとソレシカの視線が追いかけてきた。珍しいこともあるものだ。彼に、気を遣われている。そこまで自分は普段とは違っているだろうか。
ラウンジにいたのは「銀鈴檻」のリブラスだった。ソファの両端に荷物を置いてひらりと手を振てくる。
「やっほー暗い顔!」
「言われるとへこむな」
どうやら自分はそこまで落ち込んだ顔をしていたらしい。だからソレシカにまで心配されたのだろう。リブラスの正面からの指摘は堪えるがありがたかった。
リブラスは自分で酌んだのか誰かに持ってこさせたのか、レモンスカッシュを机の端に置きながら、椅子に座らせている荷物を示す。
「これ、ハシンとかからサレトナちゃんへの贈り物。いま話せる?」
「呼びに行く」
カクヤはひるがえってサレトナを迎えに行く。まだいるなら、クレズニの部屋で話をしているだろう。
三階に上がり、クレズニの部屋の前でノックをするために立ち止まる。
「私、本当にこのままでいいのかな」
拳のまま手が止まる。小さく扉の隙間から洩れて聞こえた内容にカクヤは悔しくなった。
そんな思いをさせたくなかったのに。いままでも、これからも。
安心して、幸福に笑ってもらいたかったのに、今日の自分がそれを壊した。今すぐにでも部屋に押しかけて「大丈夫だから」と言いたい気持ちを押し殺す。カクヤよりも先にクレズニが言う。
「当分はいまのままで大丈夫ですよ。まだ、事を起こすには尚早です。サレトナは、いまのまま。穏やかに毎日を過ごしなさい」
「また命令口調?」
拗ねた口調で言い返したところで、カクヤは扉を叩いた。
「クレズニ、サレトナが部屋にいないんだが、そっちにいるか?」
「ええ。いますよ」
聞いていたことを悟らせないように、気をつけながら振る舞う。部屋からサレトナが出てきたところで笑いかけた。
「リブラスさんが来てくれてる。銀鈴檻からの贈り物だって」
「あら。また先輩達にお世話になるわね」
どこまで欺瞞が通じるのだろう。サレトナは知らないのか、知らない振りをしているのか不明な自然さで言葉を返していき、カクヤもそのことを問いかけようとしない。お互いに何もなかったようにいつもの通り振る舞う。
まだ、目をそらせる間は日常を生きたかった。
カクヤとサレトナはリブラスのところに戻っていく。棚から取り出した本をめくっていたリブラスは、にっこりと笑って言う。
「へいほー! どんより顔!」
「言ってくれるわね」
流石の先達と言うべきか、一目ではわからない薄い皮膚の裏の憂鬱を即座に見抜かれる。だが見抜いた本人は何も気にしていない。呑気な様子で本を棚にしまっていく。
カクヤとサレトナを椅子に座らせながら、リブラスは眉を上げるという不思議な表情で問いかけてくる。
「明日は折角の誕生日なのに、どうしてそんなに暗いの?」
「少し困ったことがあってね」
「聞いていい?」
ここで許可を取る位にはデリカシーといったものがリブラスにはあるのだろう。リンカーからは「全くいつもああだこうだ」と、カズタカからは「全くあいつはそんなこんな」と言われているが、そこまで悪い人ではないという印象をカクヤは抱いていた。それは、仲間として迷惑をこうむっていないための余裕かも知れないが。たまに耳にするリブラスが引き起こす事故はすごいらしい。
サレトナに視線をやる。言うことを決めたのか、小さく言葉をこぼした。
「私はね、いまのまま。ここにいていいのかなって」
「ふーん」
「聞いてくれたわりには素っ気ないな」
「だってそんなこと、誰が決めていいの? 自分の居場所なんてもの」
リブラスが首を二十五度ほど傾けた。サレトナが口にしたことは、意外ではあるが蟻の生死程度にはどうでも良さそうな様子だ。
「僕たちみたいのなら、集団の輪をかき乱すという理由でリーダーが裁定を下して仲間という共同体にいる権利を剥奪することもできるけどさ。そうではないんでしょ? いてほしいと願われているから、ここにいることを認められている。望まれる。僕も、毎年ハシンから「ここにいる? 次はどうする?」とか聞かれるけど、まだ銀鈴檻にいたいからそこにいることにしているよ。サレトナ、カクヤに出て行けって言われたの?」
「言うわけないだろ!」
無音の楽団のリーダーはカクヤだが、かすがいはサレトナだ。彼女のことが心配で大切だから、全員が放っておけないから自分たちは成立している。
そのことをサレトナには言っていないし、気付かれていない。だからこそ追い詰めてしまったのだろうか。
不安でサレトナを見ると、視線が合う。少しずつ、少しずつ微笑が形作られる。
リブラスはさらに大きく笑った。
「ほら。リーダーのお墨付き。サレトナは考えすぎるところがあるから、もう少し好きに生きてみなよ。明日だったら、もう少し素直になれるんじゃない?」
それだけを言い残して、リブラスは立ち上がる。袋に入った荷物を置きながら、玄関に向かう。その前に振り向いた。
「じゃあねー。サレトナ。僕は、君が好きだよ。ごくごく普通の意味で」
それはなんてことのない言葉だったのだろう。
だからこそ、カクヤは今日起きた出来事を振り返り、フィリッシュとミルスの言っていたことの意味に気付くことができた。
カクヤは確かにサレトナを守ってきただろう。居場所を作り、安全を守ってきた。
だけれど。
「みんな、自由な人ね」
「ああ。羨ましいくらいだよ。ごめんな、サレトナ」
「え? なに?」
サレトナはカクヤの謝罪の意図を理解できていない。唐突な謝りの言葉に慌てる。その様子を見ながら、いまなら言える気がした。
「俺はサレトナを守ると言いながら、サレトナの自由までは守っていなかったんだよ。だから、フィリッシュにも怒られたし、ミルスには相応しくないと判断された。情けない」
エントランスのソファに座ったまま、額を押さえて、目はサレトナに向けながら謝る。
カクヤという人間の至らなさを突きつけられてしまった。
だけれど、サレトナはゆっくりと首を左右に振る。違う、と言う。
こんな情けない自分が相手なのに、嬉しそうだ。
「私のことをそんなに考えてくれている。それだけで、十分嬉しい」
サレトナが柔らかく微笑む。最初の頃はつれなくて、ツンツンした態度が目立ったが、いまはここまで心を許してくれたことが嬉しい。素直に、嬉しいと伝えてくれるようになった。そこまでの信頼を積み上げてきた。
これからも続けていきたい。傍にいたい。今年も、次の年も。
カクヤはサレトナとの距離を詰める。サレトナの手に、手を重ねる。紅の瞳と杏色の瞳が交わり合って、言葉が出てこない。
ばん、と派手な音がして扉が開いた。
「あー! なんかいちゃついている!」
「ああいちゃついてるさ! それと、もう決めた。そっちにサレトナは渡さないからな!」
言い切ったカクヤは堂々とサレトナの肩に腕を回して、後ろから強く抱きしめた。フィリッシュは口を魚のように動かしてから、後ろに回ってカクヤの背中を叩く。ぽかぽか、という音ではなくてどか、という音もするがカクヤはサレトナを放そうとしない。
放したくなかった。
コメント