森の神秘を重厚と感じるか、冷厳と受け取るかは当人の感性次第だろう。もしくは宗教観とも言えた。森には必ず死骸が眠り、鎮魂と回収のために神は訪れる。
普段のレクィエならば森の神秘を薄暗きものとして解釈することが多いが、今日は街で見かけることのない、森に宿っている静謐さに沈黙して敬意を払っていた。
この地は大陸アリスティアの中心地、絢都アルスの西にある「ガイレン森」という場所だ。ガイレン森を歩くのは、レクィエを先頭にして中央にサレトナ、最後尾はタトエが務めている。
三人は「無音の楽団」という絢都アルスの宿「沈黙の楽器亭」の特客である。特客というものは都市の外部から訪れて、都市で起きた問題を解決することを仕事としている。例えば縄張り同士の揉め事の仲裁をすること、近隣の森や遺跡にある貴重品の採集などだ。一定の武力と機転が必要とされる職業でもある。
ガイレン森には仕事や依頼で何度も訪れているが、今日の用件はレクィエにとってプライベートなことだった。
「ねえ、どうして私たちに一緒に森へ来るようにお願いしてきたの?」
橙色の髪を揺らしながらサレトナが尋ねる。もっともな疑問だった。ガイレン森には悪性の生物が出てくることは少ないが、そのため人為的な危険が及ぶことは多い。連れてくるならば一人くらい、カクヤやソレシカといった武力に長けた者の方が安全だろう。
だが、今回はその二人には頼めない理由があった。
「俺はここに人を捜しに来たんだけれど、その子は随分と頭がよくてね。背の高い男の人に慣れていないんだよ」
軽妙な口調でレクィエが言うと、サレトナもタトエも納得したようだった。それ以上の事情はまだ話さないまま森の探索を続けていく。バウムクーヘンのような層になっているガイレン森は奥に進んで行くほど、攻撃性の高い生物が現れる危険は高まっていく。しかし、その程度で遅れを取るほど無音の楽団は危険に対する嗅覚が鈍いわけでもなく、対処ができないわけでもなかった。
森はいまだ沈黙を保っている。木々の間から落ちる日差しは深緑色で、今日という晴れた日であっても爽快さより湿潤さが勝る。しっとりとした土と葉を踏み分けながらレクィエは慎重に進んでいった。途中で膝を曲げる。小さな、足跡があった。これまでよりもはっきりとした痕跡は最近になって子どもが先へ進んでいったと告げている。
レクィエは足跡を辿りながら森の奥を目指していくことになった。年月を経た木々が葉や幹の重さを増していく。濃密な緑の薫りを吸い込みながら、ざくりと葉を踏みしめた。
奥には開けた場所がある。最初に開墾したのは良いが、その後に手を付ける必要性を見いだせなかったのか、いまは陽の光が降り注ぐ緑の広場だ。
そこでは黒髪の少年がくるくると一人、回っていた。
レクィエは目当ての人物を無事に見つけられたことに軽い安堵を覚える。この少年が街から消えたと聞いたときは、胸に黒いわだかまりが刺々しい形で生まれたものだ。
「イツ」
レクィエは回っている少年の名前を呼ぶ。少年、イツはぴたりと止まった。
イツは短い黒髪と炭で乱雑に塗った瞳を持つ、痩せた少年だ。いままで表情らしきものは浅黒い顔に浮かんでいなかったが、レクィエを認めると一瞬にして黄色の花が咲く。そのまま駆けよって胸に飛び込んできた。
レクィエは胸から下でイツの大胆な愛情表現を受け止めるがそれ以上はしない。
「どういう関係?」
タトエが聞いてきた。無音の楽団の仲間達、カクヤ、ソレシカ、クレズニなどといった面々ではない人間などと繋がりを持つことは珍しくもないが、ここまで懐かれているのは気になるのだろう。
「イツが外で遊んでいる時に知り合った。まあ、タトエは気付いているだろうが、あの孤立の家の子だよ」
隠すことでもないので、はっきりと言うとタトエは苦笑する。悪意を持って言ったのではないのだから堂々としていて良いとレクィエは思う。タトエは少年の、イツの正体を確認したかっただけなのだろうから。そしてそれは大事なことだ。
孤立の家は絢都アルスにある数少ない暗黒地帯だ。
イツはレクィエの手を引っ張ってくるくると回ろうとするが、それを押し留める。不満そうに唇を尖らせられるが宥めるように頭を撫でた。
「それで、これからどうするの?」
様子を見守っていたサレトナが言う。イツを見つめる瞳から、現状を理解していることが伝わってきた。
すでにイツに葬儀と埋葬は行われている。
レクィエはそれを信じていたわけではないため、情報を集めてガイレン森までイツを捜しに来たが、イツは世間ではすでにいない人間だ。
孤立の家の常套手段だった。子どもを引き取り、一定期間が経つと目立たない頃に葬儀を執り行って存在を消していく。または非合法の存在にし、薄暗いことに利用する。特客として絢都アルスに住み始めてから斜視することになった現実だが、いまはまだ無音の楽団にはその闇を照らすことはできない。都合の良い物語のように、強引に悪党の扉を開いて糾弾したら解決することではなかった。
絢都アルスの光は眩い。だからこそ、闇も濃い。
レクィエはサレトナの質問に答える。
「ここにいてもいいことがないのなら、他の街に連れていくしかないな」
「だったらハシンさんたちに相談だね」
機転良くタトエはレクィエのやろうとしていることを言葉にしてくれた。絢都アルスの双子都市である爛市メロリアならば、名を変えるなどしてイツの戸籍を新しく用意することもできるはずだ。そのためには爛市の特客である「銀鈴檻」の力を借りなくてはならない。職権濫用にならないかは不安な点だが、そこはレクィエの交渉の手腕次第だろう。
自分たちだけで物事を全て解決できると過信する癖は、レクィエにない。必要な時には必要な手段を講じて、他人の手も借りる。そうして事が収まればよい。いまはイツの尊厳も関わっているのだから、イツにとって最適な環境に置けることが一番大事だ。
結論を出してからレクィエたちはイツを連れて絢都アルスに戻ろうとする。イツはすでに絢都アルスにいない子どもだが、この少年を気にしている輩はそれこそ孤立の家の人たちだけだろうから彼女らに見つからなければ問題はない。爛市に向かうにしろ、旅に出る支度をしなくてはならなかった。
円形に広がった森の奥から出ようとしたところで、レクィエは足を止めた。
サレトナも手にしていた杖を握る手に力を込めて、タトエは即座に動ける姿勢を取る。
視線の先には男性と女性が一人ずつ。
男性は森を探索するに相応な身体能力を見て取らせる焼けた肌の壮年で、女性は何が楽しいのかは知らないが、レクィエたちを見つけると耳まで裂けた笑みを浮かべた。
神聖なる場所を戦場に帰るのはいつだって人の業だ。
緊迫した糸の張られた空気に裂け目を入れたのは笑う女性からだった。
「やっぱり生きていたんですねえ。そう簡単に孤立の家も見逃すはずはないとは思っていましたが」
「まあ、いまやればいいが……無音の楽団、の輩がいるとなると少し面倒だな」
男性の億劫そうな言葉を聞きながら、レクィエはサレトナにイツを任せながら、前衛に出る。
相手は自分たちを知っているようだが、レクィエたちは相手を知らない。いまこの場で初めて見る二人組だ。戦闘手段も力量も未知であるからこそ舐めてかかってはいけなかった。
「こんにちは、おそらく外道者さん。この子が狙いかい?」
「ええ。渡してくれませんか」
「やだ」
女性の要求にレクィエはあえて子供じみた返答をした。
肩をすくめる女性を押しのけて、男性が前に出る。その動きだけで展開を察したのか、女性は大人しく二歩ほど後退した。だが、戦意は薄れていない。
「無音の楽団。そのガキを奪わせてもらおうか! 俺の名はコクロ。煉瓦割りのコクロだ!」
「最初から戦いたかったんかい」
「それもある!」
コクロは背に負っていた巨大な鉄製のハンマーを構えた。そして、猪が目標に向かうように一目散にサレトナとイツに向かって駆けだしていく。たくましい体つきと手にしている武器からは予想のつかない速さだった。このままではサレトナはただの肉塊と化す。
レクィエは即座にタトエとアイコンタクトを交わして、タトエにコクロを任せた。詠唱を始めていた女性に向かって阻害目的のナイフをレクィエは投擲する。直線に進むナイフは女性に当たることはなかったが、目的を達することはできた。女性が地面に落ちたナイフを拾う。
「狙うならもう少しレベルの高いものにしてくれない? 甘く見られているみたいで不愉快になるわ」
「それはすまんね、レディ。あんたの名前は?」
「ミス・ドリトールよ。無音の楽団のレクィエ」
「名前を言える程度には、軽い仕事みたいだな。胴元はどちらさんだ?」
「それはナイショ。ま、いまは殺し合いましょう」
そうして詠唱ではなく守りの姿勢を選んだドリトールにむかって口にした言葉に、偽りはなかった。
「そいつはまっぴらごめんだね」
背後でがおん、と地面の削れる音がする。コクロのハンマーが振り下ろされたが怪我人はいなかった。見た目は麗しい少年であるタトエもコクロの一撃を引き付けて軽快に避ける。イツとサレトナを庇い続けていた。
「闇夜へ誘いし氷の階!」
ハンマーを持ち上げようとしたコクロに向かって、サレトナの詠唱した氷魔術がまとわりついていく。主に足へ加重のかけられた氷は層を作っていくが、コクロは強引に体を振り回して氷を剥いでいった。だが、その隙を見過ごすほどタトエは甘くない。走り込み、簡易契約によって取り出したシンバルをコクロの近くで強く、強く打ち鳴らす。
「そんなのありかよ!」
コクロの驚きなど気にもしない。タトエはシンバルを手から放すと、今度は飛び上がり、シンバルから変化した槍を手にしながら一直線に降下していく。槍は流星となってコクロに突き刺さる。足を縫い止められる形になっても戦意を喪わないコクロに向かって、さらなる氷の追撃が抱擁する。
イツを背に庇いながら、サレトナは中詠唱をしていた。
「夜に眠りし氷の女神の腕に抱かれ、去れ、勝利への希望」
「くそ! こんな、氷……!」
コクロはまた身にまとわりつく氷を叩き割ろうとするが、タトエの槍が魔術の効果を増幅させる伝導体となり、氷はさらに硬度を増していく。サレトナの氷魔術も全体に薄く、だが関節には幾層にも重なっているためコクロの動きを拘束していた。
こちらは心配なさそうだと、ドリトールに横槍を入れながら距離を詰めていたレクィエは相手の無力化に入る。ドリトールも近接戦闘による己の不利を理解しているのかそれとも誘っているのかはわからないが、いままでレクィエの牽制に努めていた。
勝負は一瞬で決まる。
レクィエがナイフを取り出す前にドリトールが声を飛ばしてきた。
「もうご存じでしょうけれど、その子は死人ですよ」
戸籍も奪われ、体は死体と化し葬儀と埋葬を行われたと周囲に認知されている。イツはまだ生きていると知りながら行われたその行為はただの殺人よりも醜悪だ。誰もがイツの生に口を閉ざした。そのことをドリトールは指して言っているのだろうがレクィエは軽くいなす。
「それを言うのなら俺もだよ。だけど、イツはこうしてあんたらの前にいるし、こうして狙われてもいる。立派に生きているさ」
「なるほど、そういう見解ですか」
「ああ!」
レクィエはブーツにかけている魔術を起動させ、瞬時にドリトールの目前に移動する。それは予想できなかった行動なのか、ドリトールは手にしている杖を反射で振り上げようとする。その瞬間にはレクィエはいない。さらに後ろに回ると、麻痺のナイフで背中を裂いた。
「っく……!」
倒れかけたドリトールの体を支えながら、いまだ動かぬ体を震わせるコクロの元へ近づいていく。
刺客は倒した。
「さて、どうする?」
「喋れるのに体は動かせない毒とかってなんですか」
倒されながらもドリトールは余裕そうだった。
「いまの状況について説明してくれるのなら、今後の身の安全を約束して解放するけれど」
「そんなこと!」
「やりましょう、コクロ。私たちに無音の楽団の相手は手に余ります。ここまできたら私たちの負けですよ、負け。いやあ、絢都の特客として名を馳せるだけはありますね」
「褒め言葉は受け取っておくよ」
レクィエはドリトールの腕に錠をかけて、コクロは氷から解放されたが、ドリトールと同じように手首に鍵魔術を重ねられる。
誰も他人の自由を奪う真似は好きではないが、いまは話し合いに集中したい。もう一度、戦闘を起こされるのは避けたかった。
先ほどまで戦闘が行われていた森の開けた場所で、レクィエとタトエとサレトナとイツは立ち、コクロとドリトールは四人に見下ろされている。
「何のためにイツ君は狙われたのかな」
タトエが最初に当然の疑問を口にした。
「そのガキは、兵器を生み出せる」
何を示しているのかがはっきりとしない。イツが攻撃的な意思を見せることなどなく、また他者を害する道具を作れるようにも思えなかった。
イツはレクィエに視線を向けられて、にっこりと笑うと両手の指を絡め合って折りたたむ。淡い光が生まれて五秒ほど経ってから、レクィエに手の中にある「なにか」を渡した。
レクィエは手を開く。
それは石だった。レクィエの体内に眠る数少ない魔力にすら反応する、緑の石だ。
「これは、ササエノ石か」
イツは笑ったまま頷いた。
ササエノ石とは、この石を身に着けるだけで魔力を安定させられる効果を持っている。魔術は魔力を外に発現させてから制御をして安定させてから発動という過程を踏む必要があるが、ササエノ石があれば制御と安定のプロセスを簡略化できる。石の大きさと安定性にも寄るが、一小節や二小節の魔術程度なら半分か三分の一の時間で瞬時に放てるようになるはずだ。
イツは相手の適正を見極めてササエノ石を生み出すことができる。また、イツの身の安全を顧みないのならば、魔術兵器の装置として転用するための強力なササエノ石を生み出すことも可能だ、とコクロは話した。
レクィエもこのことは知らず、また兵器と表現されるには十分な力だ。。
それでも。
「ササエノ石を生み出せるというのなら、どこの組織から狙われてもおかしくない。イツ君はいまだって危険に目をつけられているわね。でも、それとイツくんの価値に、生きる理由に関係なんてないのよ」
サレトナは静かに刺客二人に向かって言い放つ。それはレクィエが言葉にしたかったことを、綺麗に形にしてくれた。
サレトナも神の声が聞こえる少女として尊敬と迫害を受けてきた。だからこそ、個人の価値というものに偏見を持たないまま、相手の価値を見定めようとしてくれている。そしていまはイツの味方でいてくれる。
ありがたかった。
ドリトールもサレトナの言葉に肩をすくめる。
「あなたの仰る通りですよ。イツという少年に付加された宝がササエノ石であって、イツという存在は取るに足らない少年です」
「だが、そいつは兵器になる。引き取るというのなら後始末まできちんとしろ」
コクロの言い方はあくどいものではあったが、思っていたより悪い組織に雇われているのではない可能性がある。コクロはイツが悪用されることを防ごうとしていたようにも聞こえるためだ。もしもイツを強引に奪い去って絞り取ろうとするのなら、さらに下賤な言い方をするはずだ。
もう一つ、イツの能力を知りながら孤立の家は利用ではなく廃棄を選んだことも気にはなるが。
「忠告ありがとさん」
いまはコクロに礼を言って、レクィエは鍵魔術を解呪した。自由になった腕をドリトールはしげしげと眺めている。
「そちら側の雇い主に言ってくれ。イツはレクィエが爛市メロリアまで送り届けるって」
「わかりました。あと、ここに私たちを放置しておいても良かったのに、解呪したのはどうしてですか?」
「あんたらがやられるとは思えないが、森の魔物に襲われるなどしたら後味よくないだろ」
なるほど、とドリトールは納得したようだ。コクロは「甘い」と言いたげな表情で呆れている。
それでも、事情がわかったのならばいまは敵ではない。
互いに背を向けてガイレン森から去っていこうとする。
「あ、レクィエさん」
ドリトールがふと呼びかける。振り向く前に言葉は続けられた。
「孤立の家は、イツの力に気づいていました。それが、自分たちでは制御できないということも。だからこその選択ですよ」
真偽を確かめる前に、ドリトールとコクロはいなくなっていた。
レクィエはイツを見下ろし、笑いかけてからガイレン森から去っていく。
レクィエとサレトナとタトエがイツを連れて絢都アルスに戻るとすでに午後二時を過ぎていた。
サレトナとタトエに爛市へ出かけるための支度を頼みながら、レクィエは皇帝通りにあるジェラートの露店でイツにチョコレートジェラートを買って、街のベンチに座っている。隣にはイツが嬉しそうにチョコレートジェラートを食べていた。たまに冷たすぎるのか目を強くつむる。
「イツ」
「なあに」
「お前、一人で生きていけるか」
残酷な問いを口にする。だが、これからイツには頼れるところがない。育ての家だった孤立の家からは葬儀に出され、どこかも知らない組織からは身柄を狙われている。このまま爛市メロリアに預けて事が済むとは思えなかった。
イツはスプーンを口から抜いて満面の笑みで言う。
「むり」
「だよなあ」
一人で生きていける。そんな人などいるはずがない。
人は孤独でも孤立でも病んでいく存在であり、生きていくには頼れる誰かが必要だ。手を取ってくれる相手、話のできる相手がいてこそ人間であれる。
「イツは、これから爛市メロリアに行くけれど、これからどうしたいとかあるか?」
「んー。石を、作りたい。僕はそれができるならどこにいたってよかったんだよ」
それが孤立の家から捨てられた理由だということは容易に予想がついた。イツに命令し、好きなタイミングで望む量のササエノ石を作れるのならば価値はあったのだろうが、イツに意思があるのならば操ることは容易でない。結局は非人道的な利用よりも、誰にも利用されないように存在を葬ることにしたのだろう。
だが、完全に命を奪わなかったのはいつかの利用価値を考慮してのことだ。
イツの力は成長してから、さらに悪用される危険性がある。ならば他の領分である爛市メロリアで保護してもらうのが現時点で最も安全な策だ。
わずかな寂しさを覚えながら、レクィエはイツを励ます。
「どこにいても大丈夫なら。爛市でがんばってくれ」
「うん! それでレクィエは、どうするの?」
溢れる元気で答えた後に、慎重な様子でイツは尋ねてきた。
それに対する返事は残酷だ。
「俺はこの街の特客だから、爛市で一緒にいられない。だけど、イツを安心できる人には必ず届けるよ」
「そうかあ」
ジェラートを食べる手を止めたイツを見つめながらレクィエは考える。
孤立の家の人たちと正式に話をするべきだろうか。だが、イツはもう孤立の家については触れない。あの家のことを諦めている。
イツを育ててきた人たちも、イツを葬ることを選んだ。ならばもう、理由を探らずに道は別たれた。関わるべきではない。
理由の不明な突然の断絶であっても、受け入れなくてはならないことは、辛いことだが世の中にはありふれている。だからもう、イツは前に進むしかなかった。
「ねえ、レクィエ」
「ん?」
イツは真っ直ぐにレクィエを見上げてくる。いつだってそうだ。炭色の瞳に光を宿して、レクィエを宝物のように見てくれる。どこにでもある捨石であったレクィエを。
「僕はね、レクィエのことがすきだよ。それはずっと忘れないから。どこにいても。二度と会えなくても」
「それは大切だな」
碧の瞳で見つめ返しながら、レクィエは思い出す。
イツとの出会いは、イツが一人きりの時に投げた石をレクィエがつかんで、手渡した。それから少しずつ話をするようになり、街で見かけると手を振るようになった。
お互いに血の繋がった親はいない子だ。同情はないが親近感は、育まれていった。
悲しいのに、悔しいのに、それでもいつも笑ってやり過ごそうとするところなど。
「お待たせ」
タトエとサレトナが戻ってくる。手には二日ほど街を往来するのに十分な荷物があった。サレトナが持っているのはイツでも背負える鞄だ。
レクィエはタトエから鞄を受け取りながら尋ねる。
「ありがとさん。イツについて、ラガートさんには話をしたのか?」
口数の少ない頑固な麺屋の店主を連想させる宿の主人の名を出すと、タトエは首を横に振った。
「この街での彼は、もういない子だから。名前を出す必要はないってサレトナが」
その慎重さは、サレトナも同じく命を狙われている子だからだろうか。
レクィエはそれでも、タトエとサレトナが支度を終えてくれたことに、レクィエがしばらく留守にすることを上手く説明してくれたのだとわかり、爛市に向かうことにした。
「俺はイツをメロリアに送っていくよ」
「一人で大丈夫?」
「ああ」
タトエは何かを言いたそうだったが、最後には頷いた。
「わかった。イツ君のことは任せるから、賛月十四日までには帰ってきてね!」
「はいよ」
手を合わせて打ち鳴らし、レクィエは爛市に向かう馬車を探しに行く。イツはタトエとサレトナに手を振りながら、レクィエの後を追って走ってきた。
その姿を見ながら、サレトナとタトエが洩らした言葉をレクィエは知らない。
「帰ってくるわよね」
「うん」
レクィエとイツの背中は絢都から遠ざかっていった。
レクィエとイツが爛市メロリアに着くと、馬車の主人は二人に向かってごく普通に笑いかけた。
「行ってくるといいさ。好きなところへ」
それは強い励ましとなって、イツに響いたのか、イツは大きく笑った。
爛市メロリアは絢都アルスよりも街の景観が派手だ。獅子に牡丹といった比喩がしっくりくる、威厳にあふれた街でもある。かといって絢都が地味と言えるのかといえばそうでもない。芸術性の違いだ。絢都は貞淑な品性を大切にしている。
イツは目まぐるしい街並みに目を奪われているようなので、レクィエは手をつないではぐれないようにする。
そうして、銀鈴檻の住まいとする「調律の弦亭」まで訪れた。アポイントは取っていて、フロントで名前を出すと眼鏡と吊った目が知的な雰囲気を出している女性、ネイションが出てきた。
「こんにちは、ネイションさん」
「こんにちは。その子が、イツ君?」
名前を呼ばれたイツは大きく手を上げる。その後に両手を五秒ほど握ってから、ネイションに藍色の石を渡した。事情を知っているネイションは笑顔で石を受け取り、眺める。魔術師とは異なるが知識は豊富な女性は一目でササエノ石を生み出したということ、その可能性と危険性について寂しそうな表情を浮かべる。
「レクィエさん。心配しないで。銀鈴檻の名において、イツ君にとって生きられる環境を用意することを誓うわ」
「勝手に誓わないでもらえるかな。それは私の役割だよ」
言って、姿を見せたのはネイションよりも背の低い、桃色の髪を二つに高く結わいた少女であるハシンだった。
ネイションはバツの悪い様子を見せることなく言い返す。
「ここであなたがイツ君を利用する真似をするとしたら、私は見る目を間違えたことになるわ」
「はは、そう言われたら敵わないな。うん。とりあえず、客間で話をしようか」
ハシンは先頭に立つと、ネイション、レクィエ、イツと案内していく。普段、沈黙の弦亭に滞在する時に世話になる食堂ではなくて客間に入るのはレクィエは初めてだ。
ハシンが上座に座り、その隣にネイションが腰を落ち着ける。レクィエとイツは並んで下座に置かれた。これは実際の力関係を示しているのだろう。レクィエがハシンにイツのことを頼み込んでいるのだから、下に立つのは当然だ。
ハシンはそれぞれの注文を聞いてから、カズタカを呼びつけて飲み物を持ってこさせる。紅茶が二杯と珈琲が一杯、オレンジジュースが一杯置かれていった。カズタカは出ていく際に視線で「がんばれよ」と言ってくれる。その気遣いがありがたかった。
ハシンは優雅な様子で紅茶に口をつけてから、話を始める。
「さて。レクィエは私たちに何を要求しているんだったかな」
「イツに爛市メロリアで暮らせるように便宜を図ってもらいたい。そのための代金と、取引の品物は用意してある」
「ふむ。ネイションはどう思う?」
話を振られたネイションはためらいなく答えた。
「絢都で戸籍を消されたとしても、爛市で作り直すことはできるわ。イツ君のササエノ石を作り出せる能力から考えても、どこかで面倒を見ておいた方がいいでしょう。少なくとも、イツ君が自分で自分の道を間違えないようになれるまでは」
「正しい意見だね。まあ爛市としてはイツ君のような逸材を確保できるなら願ったり叶ったりだから、取引には応じよう。イツ君。爛市は、君を歓迎するよ」
「ありがとう」
両手を広げられて言葉通りの歓迎の意を示されて、イツは笑って礼を言った。
そのあいだにレクィエは取引のための金貨と品物を取り出していく。絢都でしか生産されていない、石のはまっていない装飾品を三点ほど並べていった。
それを見たハシンは口元に皮肉な笑いを刻む。
「準備のいいことだね」
「ササエノ石の土台としてはちょうどいいはずだ。活用してくれ」
「ねえレクィエ。聞きたいことがあるんだけど」
唐突な話題の変更に手を止める。ハシンはいつものように微笑んでいるが、瞳の奥に宿る光は真剣だった。
「レクィエは、どうしてイツだけを助けようとしたの」
それは一番尋ねたかったことなのだろう。
カクヤにならば聞かなかったはずだ。あのお人好しのリーダーは誰であっても助けようとする。ハシンはそこを気に入っていて気にかけているから、カクヤにだけ自身を「先輩」と呼ぶことを許していた。
おそらくサレトナにも、タトエにも聞かない。クレズニにも、ソレシカにも。
ハシンと近しいが異なる価値観を見せたレクィエにだからこそ訊いたのだ。行為の善悪を問うのではない。行動の価値を問うている。
レクィエは慎重に思考を進めていった。
どうしてイツを助けようと思えたか。正直、助けるなんて上からの目線でした行為ではない。芽吹いた花が咲く前に踏みにじられるところを見たくなかっただけだ。
それを伝える前に質問の意図をより明確にさせようとする。
「イツだけ、と言うのなら普段の俺はこんなことしないことになるな」
「だってそうだろう。私の知っているレクィエは平等に誰をも救わない。特定の名のある誰かを助けるなんていままでなかったことじゃないか。今回は身の危険は少ないにしろ私たちに借りを作っている。そのペナルティを承知してまで、どうして」
「一つはイツの力が放置しておくにはあまりにも危険だったから。もう一つは、そうだな。友達、だからだよ。友達が困っていたら助けるものだろ」
「一般論だね」
ハシンはまだ納得する気がないらしい。こだわる少女だ。
レクィエはさらなる理由を説明しなくてはならないかと口を開こうとしたが、先にネイションが話す。
「どうしてそんなことにこだわるの」
「そんなことって。私にだって気になることはあるんだよ」
姉に対する妹のように威厳のない態度をハシンは見せる。ネイションは諭すように言葉を続けていった。
「レクィエさんのした行いが気に入らないわけではないのでしょう。だったら、それでいいじゃない。友達だからできる限りの助けをレクィエさんはする。他の人にはできないのに、たった一人を助けることは悪ではない。街でよく話す人と友達はどこか違う存在なのよ。その関係を築けたという点で、イツ君はレクィエさんに甘えてはいないわ。困った時に助けられる存在を見つけられただけなのよ」
ネイションの話を聞いてから、ハシンの言いたいことがようやく飲み込めた。
レクィエではなく、無音の楽団として今後、他の逃走劇に出演することを頼まれた時を心配してくれていたのだ。レクィエがイツを助けるという前例を作ってしまったら、似たような脱走の手引きや爛市への斡旋を頼む人間も出てくるだろう。そうなったらカクヤたちにも迷惑がかかる。レクィエ一人の仕事や市場ではなくなる。
だから線引きをしておきたい。レクィエは誰をも助ける者なのか。それとも、友人だからこそ助けた利己的な人間なのか。
どちらかだとしたら、ハシンにとっては後者である方がよっぽど良い。
それを理解してレクィエは話す。
「ハシンさん。俺は、カクヤたちみたいに誰だって助ける人間じゃない。イツだから今回はここまで手を貸した。自分の境遇も重ねながら、助ける価値があると思ってここまで行動した。他の誰に頼まれるとしたら、もう少し対価を考えるよ。だから軽率にこんな真似はしない。そこは信じてほしい」
「そこまで言うのなら、承知しよう。うん。イツ君だけは特例として、爛市で暮らせるようにするよ。私たちが預かろう」
交渉は成立した。
この時点までこぎつけられたことに安堵しながら、レクィエは立ち上がる。イツに向き直って、手を差し出した。
「また遊びに来るよ。それまで元気でな」
「うん。レクィエ、ありがとう。僕は元気に生きて、いつかまたレクィエに会いに行くよ」
それは楽しみだと笑ってレクィエとイツは固く手を握りあった。同じ街では暮らせなくなっても、互いに友であることに変わりはない。
「ああ、そうそう。もうすぐ君は誕生日だよね」
「形だけだけどな」
レクィエは父親に捨てられた。
名字も誕生日も自分でつかみ取ったものであるが、それが近いのは知っている。
ハシンはにっこりと笑うと指をぱきりと鳴らした。
賛月十四日。
レクィエは銀鈴檻を始めとする、爛市の人たちによる沢山の土産と贈り物と共に帰還した。行きよりもはるかに多い荷物に無音の楽団の仲間たちは驚きを見せたが、持って帰ってきた本人は飄々としている。
「なんか、爛市にもたまに出張しているお礼や固定客、ファンなどによるプレゼントだとさ。俺だけじゃなくて他の相手のもある」
「それにしても……すごいわね」
「いい馬車があってよかったよ」
追加料金を取られないか肝が冷えたが、普通の馬車ではなくて物品の流通を担う車に乗ることにして事なきを得た。
安全性の面により魔力で動く車にはまだ人を乗せてはいけないのだが、今回はハシンの口利きもあり、特別な事情という形で許可を得た。
「でもまあ、レクィエが無事に帰ってきてくれてよかったよ。これで僕たちの準備も無駄にならなさそうだし」
「準備? また誕生日祝いをやるのか」
ことあるごとにイベントを開く仲間達に照れを抱き、それを隠すために笑うとソレシカに手を左右に振られる。
「それはもうしないけどな。プレゼントくらいはあってもいいだろ?」
「「「「「誕生日おめでとう、レクィエ!」」」」」
声を合わせて渡された包みを開けると、中から出てきたのは服だった。普段着ではない。儀礼的な場に出るための衣装だ。
いままでの環境では着る機会のない衣服を渡されて、いまの自分が過去の自分ではないことを知る。この服も無駄にはならないだろう。役立つと、相応だと知っているから仲間達はレクィエに渡してくれた。
たとえ現在が悲惨であっても、生きていく。それしか人はできない。だけれどそれを続けていったならば、予想のつかない未来へたどり着くのかもしれない。
いまのレクィエみたいに。
「あんがとさん。でも、どうやって俺の服のサイズを知ったんだよ」
「洗濯物を畳んでいたらわかるわよ」
もっともな切り返しに笑う。
レクィエの服の裏にあるバングルに飾られた石が、一瞬だけ光を見せた。
未来へ続く希望の碧い光を。
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