そして最後の客を見送った。
漆の帳は空を覆い、寒風は姿を見せないまま道を闊歩するため、遠ざかる人影は肩をすくめながら震えている。家に出迎えてくれる人がいないからこの時間まで呑んでいたのか、それとも人はいても寂しいため「沈黙の楽器亭」で麻酔の享楽に溺れていたのかは不明だ。
ただ、折角の新年なのだからあの客にもよい人がいてくれたらと願わずにはいられない。扉に閉店の看板を下げて、鍵を閉めながらカクヤは室内に戻った。橙暗色の明かりがともる宿は、普段よりも活気がなく静まっている。当然だ。
時はすでに午前一時を回っている。宿の宿泊客も呑み足りない客は自室でグラスを傾けているだろうし、盛り上がっていた一瞬の滞在客たちは徐々に姿を消して自宅へと帰っていった。
だから、いま食堂にいるのはソースで彩られた皿を厨房へと運んでいるタトエとクレズニだった。
「おかえり。今日は疲れたね」
「ああ。朝の六時からずっと働き通しだったからな」
思い出すのは、麺屋の店主を連想させる物静かな宿の主人の言葉だ。「今日は忙しくなる。猫の手も借りるからな」と宣言した通り、普段はさせない朝の仕込みから調理、カクテルの調合、食事の配膳から合間合間に入る掃除や買い物、そして依頼された演奏など絢都アルスにある宿「沈黙の楽器亭」の特客である「無音の楽団」は年の瀬らしく懸命に仕事に勤しんだ。特客とは万屋を都合良く言い替えたとはよく言われるが、今回などはまさしくそうだといえた。
カクヤが厨房に行くと、宿の主人が黙って皿を洗っていた。手伝いの一言が出る前に、振り向かれる。手を振られた。
どうやら「明日、いやもう今日のために早く眠れ」ということらしい。
気遣いをありがたく受け取るとカクヤは食堂に戻って、クレズニとタトエに告げた。いつの間にか現れていたレクィエにもようやく今日の仕事が一段落したと言える。
リーダーからの解散宣言に、三人は体に溜まっていた力を抜いていく。
「そういえばソレシカとサレトナは?」
「ソレシカは服に酒がかかったからって、着替えに。我らがお姫様は一番風呂さ」
レクィエが答える。最後のところは、嫌味ではなくサレトナを大事に思っての行動だろう。湯を浴びられる状況ならば、サレトナが優先されるのは無音の楽団では確認を取るまでもないことだった。男としてもよほど血や脂に汚れていない限りは、普段から身の回りのことを取り仕切る少女に一番の湯を譲りたかった。
「カクヤもサレトナの後に入りなよ」
「いいよ。俺は最後で。タトエが先に入れよ」
「ならお言葉に甘えて」
タトエは物音を立てずに階段へと向かっていった。クレズニとレクィエも楽な衣装に着替えたいのか、その後に続いていく。
静かだ。
カクヤは一人になった。
微かな人の生活する物音が聞こえるが、年の切り替わった夜は喧噪が消える前から静寂を漂わせていた。それが、いまは圧迫するくらいに大きい。
何が変わったというわけでもないというの、年が変わったというだけで不思議な昂揚がある。その昂揚を特客の先輩である「銀鈴檻」の魔術師リブラスは以前に説明していた。
『時間に関する魔法の一番異質な点はね、肉体ではなく精神に強く作用するところなんだよ。肉体にも回復や損傷といった効果があるけれど「仕切り直し」というのは最も大きな効果でもあるのさ』
魔術師ではないカクヤには理解が及ばなかったが、サレトナは感心して聞いていた。それももう昨年のことだ。
いまはない。過去にあったが、いまではない。
感傷的になっていることを自覚して自室に戻ろうとする。
「カクヤ?」
先ほど、頭の中に浮かんでいた少女の声がした。浴室から上の階へと昇る階段の前にいるカクヤに近づいてくる。橙の髪は少しばかり湿っていた。
「どうした。早く温かいところにいかないと風邪引くぞ?」
「うん。あの、今日はお疲れ様」
「ああ。お疲れさん」
ふんわりと漂うヴァニラミルクとローズの匂いにくらりとする。これがソレシカやレクィエから薫っていたら「いい匂いだな」で済むが、サレトナからヴァニラの薫りがすることがまずい。
抱きしめたくなる。
そのサレトナは、少しだけ下を見つめてからまたカクヤの顔を見ると言ったことを繰り返している。何か、言いたいことがあるのは分かったが何を言いたいのかはさっぱりだ。
「サレトナ」
促すために少し強く名前を呼べば、そっと睫毛が伏せられる。
「あの、明日……ううん、今日。今日ね……」
「今日?」
「いえ、なんでもないの。おやすみなさい」
今年初めての笑顔を見せてくれてから、それは喜びよりも憂いのあるものだったが、サレトナは振り返らずに階段を昇っていった。
呼び止めることもできなかった。
なんだろう。
「らぶチャンスを逃したか?」
「うわ」
今度は上から声が落ちてきた。ソレシカのものだ。たとたとと一階が見下ろせる位置まで降りてくると、にんまりいたずらっ気のある肉食動物の笑顔を浮かべながら、余裕を持ってカクヤを眺める。そして腕を組むと何度も頷いた。
『さてカクヤくん。今年はサレトナとどうなるのだね?」
「気味の悪い言い方をしないでくれ。まあ、どうもこうもないさ」
退くことはないが進むことは、希望的観測をすればなくはないといったところだろう。特別に関係が変わる出来事が起きるとは考えていなかった。
これまで通りサレトナの脆い羽を庇い、自由に羽ばたけるように見守り続ける。
カクヤの決めていることはそれだけだ。
それだけだというのに、ソレシカはあからさまに落胆した態度を見せた。相手は違うが片思いをしているのはそちらだというのに、どうしてそれほど余裕があるのだろう。
廊下の照明も一つずつ消えていく。完全な暗闇に囚われる前にソレシカは言う。
「お前、ひどい男だな」
「そこまででは」
「当然の自覚無しかよ。ま、いいけど。覚悟は決めて、答えも出しておけよ。サレトナがいつどうなってもいいようにな」
それは普段のソレシカならば口にしないことだ。思いやりの意味でもあり、未来を見通すようなことを口にするのを好まないためでもある。
背を向けて三階に上がっていくソレシカを見上げながら、カクヤは一つあくびをした。首を捻るのだが思考はまとまらず、徐々に眠気に圧迫されている。
寝よう。
風呂は朝に回して今日を終わらせることにした。
起きた。
体にはまだ疲れが残っているが、それでもカーテン越しに朝の光を浴びると自然と目が冷めていく。今日は快晴らしく日差しも鮮烈だ。
カクヤは寝台から降りると、まずいつものシャツとジャケットとズボンに着替えて、備え付けの鏡で寝癖を軽く整える。顔を洗うために洗面台を目指して階段を下りていくと、同じタイミングで起きたのか、タトエがいた。
「あ。カクヤ。あけましておめでとう」
「あけおめー」
顔をタオルで拭いながら場所を譲られる。
蛇口の線を回して出てくる水は冷たいが気分はさっぱりした。こびりついていた汚れが落ちていくようだ。
浴室を見るが、誰もいないそうなのでざっと体を洗う旨をタトエに伝えると、頷かれた。他の仲間たちもすでに起きていて食堂にいるらしい。
そうして去っていくタトエを見送ってから、カクヤは浴室で体の汚れを流した。新年らしいさっぱりとした心持ちで、また着ていた服に腕を通してから食堂に向かう。
すでにティーカップを優雅に口に運んでいるクレズニと、新聞に目を通しているレクィエがいた。その様子は熟年の夫夫のように見えて少し面白い。言わないけれど。
カクヤに気付いたクレズニが言う。
「あけましておめでとうございます」
「あけおめ」
「略さない」
カクヤの無精を笑ったのはレクィエだった。
いつもの席に腰を下ろすと、サレトナとソレシカもやってくる。ソレシカは席に着かずに食事の提供場所へと歩いていった。
「他の客は?」
「先に済ませているか、また後で来るって。いまの時間は俺たちの総取り」
「持ってきたぞー」
ソレシカとタトエが器用に手早く配膳を進めていく。立ち上がろうとする前に終わってしまった。
テーブルの上に並ぶのは普段よりも量が多く、豪勢な食事たちだ。薄く切られて花弁のように重ねられているローストビーフなどはいつもなら出てくるはずもない。添えられているグラッセも湯気を立てている。主食は籠に盛られたパンたちだ。スープもコーンポタージュとオニオンポタージュなど時間がかけられて煮込まれている。
新年だからか、それとも昨日のねぎらいなのか、両方あるのかは不明だったがとりあえずいただくことにした。
「「「今日の恵みに感謝を」」」
クレズニとサレトナ、タトエが口上を述べてからそれぞれ皿に取り分けていく。
食器の当たる音がたまに響く中で、パンにバターを塗っているレクィエが言う。
「そちらの三人は教会にまず行くのか?」
聖職者であるタトエと信仰を抱いているサレトナはそれぞれの神に一年の感謝と守護を祈るために、去年も年が明けてから教会へ行っていた。クレズニはその供だ。
ポタージュを運ぶ手を止めてタトエは答える。
「そうだね。神父さんとかにも挨拶する必要があるし」
「外に出かけるなら、全員で行こうぜ。暇組は露店や今日も空いている店への挨拶巡りをしてもいいし」
ソレシカが真っ当な提案をする。
確かに年が明けて忙しい店は忙しいだろうが、挨拶回りもそれに伴う些細な手伝いも今後の宣伝のために重要だ。
ただ、暇組とは。言い方がもう少しあったのではないかと思わずにはいられない。
そこでカクヤはまだサレトナが一言も発していないことに気付いた。声をかけずに見つめるのだが、サレトナは淡々と食事を進めるだけだった。
「カクヤ?」
呼びかけられる。
リーダーとして今後の方針を決めなくてはいけないらしい。
「そうだな。まずは挨拶回りも兼ねて店や教会巡りに行くか」
「全員で?」
「全員で!」
レクィエはゆっくりしたかったらしい。はあ、と息を吐いてから降参と両手を挙げた。
昨日一日働き通しだったのだから、その疲労は分かる。今日もやることを素早く終えて、早い休暇には入った方が良いのだろう。
「まあまあ。露店で美味しい物でもおごりますから、あと少しだけがんばりましょう」
「そこまで言われたら仕方ないな」
クレズニの宥める言葉にレクィエも納得がいったらしい。
話がまとまったところで、カクヤはサレトナに声をかけた。
「サレトナ?」
「なに」
「まだ眠いの?」
タトエが遠回しに体調を気遣っている。その後は「いつもみたいな元気がないから」と続けたかったのだろうが、その言葉は飲み込まれた。
「ううん。私は大丈夫よ」
サレトナはそう答えるが、浮かんでいる微笑はいつもより力が無くて心配になる。
宿の鐘が鳴る。
来客かと、カクヤが立ち上がるとすぐに真っ直ぐに近づく足音が聞こえてくる。顔見知りの客らしいが、どういうことかと六人で顔を見合わせていると。
「おはよう。私の可愛い後輩たち!」
「「銀鈴檻!?」」
勢揃いで姿を現したのは、無音の楽団と同盟関係であり先輩の立場である爛市メロリアの特客である「銀鈴檻」だった。
いつからか壮大なバックグラウンドミュージックを奏でながら、堂々と立っているハシンに無音の楽団は揃って言葉を失くすことしかできない。
年末に挨拶に行かなくてはならないと話はしていたが、いまこうして不意を打たれる形で来られるとは。
「朝からすまないな。俺たちはこれから仕事で街を出ていくから、いましか挨拶できなくて」
銀鈴檻の参謀であるカズタカが苦笑しながら言う。
「今年もよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
朝眠りの花と呼ばれるネイションが挨拶をすれば、クレズニが応えた。そこにリブラスが後ろから姿を現す。
「気が向いたら魔術の実験もさせてねー!」
「いやだ」
「……ごめん」
レクィエが素っ気なく切ったらリンカーに謝られた。
「タトエさんも教会には行きますよね。また、その時に」
「はい。リンカーさん」
そうして銀鈴檻は風を切るようにしながら颯爽と帰っていった。ハシンを先頭にして振り返ることはしない。
いままでもそうであり、これからもそうして彼や彼女らは生きていくのだろう。
「先輩たちに足を運ばせてしまったな」
「また、お土産を渡しにいきましょう」
慰めではないサレトナのフォローがありがたかった。
いくら銀鈴檻に仕事があるとはいえ、当分の間は挨拶ができないからという理由で足を運んでもらえるというのは、随分とかわいがってもらっていることだと実感する。
その見込みと恩に報いられるように無音の楽団は今後とも精進していかなくてはならない。銀鈴檻とは違う世界にいるため、肩を並べられるといった強さではなく、それとは異なる無音の楽団の強さを手にする必要があった。
いまはまだ、その強さがどういったものか想像すらできないが。
クレズニとタトエといった神に縁故があるものは教会へ。
ソレシカとレクィエは暇組という名前は遠慮しながらも、得意先たる客の顔出しに。
そしてカクヤとサレトナは普段から世話になっている店への挨拶回りを担当することになった。
最初に向かったのは日常の恵みとしても与える側としても欠かせない、果実商へ足を向けた。
絢都アルスの大通りには玉を操る奇術師や一年を占う占術師がところどころ、あとは果物に砂糖水を塗りたくって閉じ込めた菓子売りに塩辛い匂いで足を止めさせる、焼き烏賊や蛸を捌く店などそれぞれ領地と雰囲気を守りながら呼び声をあげていた。
さあさいらっしゃい、メソルトご自慢の新鮮な魚介類だよ――。
甘い夢を新年から頬張るのはいかが――。
そういった、虹色の声を聞きながらカクヤは常から利用している商店街に足を踏み入れる。安定した活気があり、人混みに流されそうになったサレトナの手をためらわずにつかんだ。つかまれたサレトナはといえば、口を半端に開いた後に何も言わずにはくんと閉じた。指先を絡めもしないが振りほどきもしないのは、未発達の好意の証だと都合よく解釈して足を進めていく。
それにしても、いまつかんでいるサレトナの手の小ささや細さは触れているだけでひんやりと心地が良い。熱気を冷ますのに具合は良かった。
だが、目的の店に着く前には腕を引っ張られたので、カクヤもサレトナの手を自由にする。 そうしてあくせくと値切りを図る客にそうはいくものかとつり上げていく店主に声をかけた。
「ラセセのねーさん、あけましておめでとう。今年も店への仕入れから遠くの街への護衛にと、仕事を沢山よろしくお願いします」
十二割の値段で冬西瓜を売り終えたラセセはカクヤとサレトナに向かって豪勢な笑顔を向ける。
「新年早々に挨拶に来てくれてありがとう。いまの特客は売ってくれるだけじゃなくてこっちの商品も買ってくれるから助かるわ。サレトナのお嬢ちゃんも。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
小さく頭を下げる様子は猫を被り慣れた良家の子女らしさがあって、歴代の店主はそれもまた礼儀正しい愛嬌だと笑う。
カクヤとサレトナにそれぞれ薄荷水を押しつけて、ラセセはまたレモンを眺める客に値上げを始めていた。財布の紐の緩みに乗じて稼げる時に稼ぐ心意気は大事だ。それだけあって、「ラッセフルーツ」は品質にも惜しみを見せない。
薄荷水を片手に挨拶巡りにも行けないので、露店の食事用に出された椅子のないテーブルに肘をつけながら、早速の休憩を摂る。ソレシカとレクィエあたりが知ったら「裏切り者」と怒られそうだ。
傍らを大きな綿菓子を持った少年が通り抜ける。空では翼ある種族が高らかに楽器を鳴らす。その響きは一層に新年の喜びを盛り上げていった。
人々の喝采を眺めるサレトナの横顔は同じように祭りを楽しむのではなく、つつがなく行われているのを喜ぶ微笑が浮かべられたものだった。普段は同じ立場の仲間であるが、本来の彼女は為政者として民を尊重し使役する立場の存在だ。
「なあ。サレトナ」
「どうしたの」
「夜に、俺に言いたいことってなんだったんだ」
微笑が消えて陰が差す。言いたくない、見つめたくない現実をその目に映したとすぐに伝わった。
カクヤは黙る。薄荷水を飲み干しながら、サレトナの言葉を待った。
「カクヤは」
「うん」
「運命を、信じる?」
「突然だな」
非常に曖昧な問いだったが深く意味を探るのも止められた。それ以上の言葉を紡がないサレトナの目は真剣で、ここが分岐点だとすぐに察する。
カクヤに本当の問いを見せられるかどうかをサレトナは知りたがっていた。
質問に率直に答えるのならば、カクヤは運命を信じている。
自分にはあった。運命と呼ぶしかない存在と、出来事が起きたからいまこうして絢都アルスで特客などということもやっている。その存在はもういないけれど、いないからこそカクヤの運命は自分の意思で選ぶ間もなく決められたのだと理解している。
カクヤの運命は、一人の少女に端を発していた。
「俺は、運命はあると思うよ」
その言葉にサレトナは酷く傷ついた表情をする。
「だけど、俺にとって、俺の運命はあるというだけのものでしかなかった。訪れた運命を結果にするか過程にするか、それとも始まりにするかは、その運命に遭遇した人の自由だけどな。だから……俺は運命よりも、これからサレトナとどうなっていくかが一番大事だ」
「もし、私のこれからの運命がカクヤと一緒にいるものじゃなかったら?」
「そんなんどうでもいいさ。俺はサレトナと一緒にいたい」
何一つ気負わずに言葉にすれば、サレトナはようやく肩の力が抜けたようだ。いままでつかんでいるだけだった薄荷水に口をつける。
「ありがとう、カクヤ」
「ん」
向かい合うサレトナを見つめながらカクヤは、何があっても目の前の少女を失いたくないと思う。
たとえサレトナの運命がカクヤではなくても。
また、カクヤの運命もサレトナではないけれど。
それでも共に生きていきたいと、偶然によって出逢った相手だから、いまのように一緒にいたい。
カクヤは薄荷水の入っていた容器を捨てる。サレトナも同じようにするのを見てから、また店への挨拶回りを再開する。
今年も自分たちはこの街を中心にして生きていくだろう。
たとえ遠くへ旅立つとしても。カクヤの帰ってくる場所に、サレトナがいる限り。
カクヤの日常は変わらない。
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