その日は九月十三日だった。
平日で、大抵の人にとっては特に重要な出来事が起きるわけでも大きな転換点にもならない、ありふれた日だ。
沈黙の楽器亭から買い物に出かけようとしているクレズニは、玄関の前でエコバッグを持っているタトエに微笑みかける。タトエは両手でエコバッグを持ちながら、いつもの爛漫な様子を潜めて遠慮していた。
「本当に、いいの?」
「はい。私に任せてください」
今日という日はクレズニの誕生日だ。それなのに「何もしないでほしい」とサレトナとカクヤとタトエの誕生日の顛末を知って、頼み込んだ。騒動がいやなのではない。祝福がいやなのではない。ただ、何も変わらないけれどどこか浮ついた気持ちを味わいたかった。
だから、何もなくていい。
それを仲間思いが揃っている無音の楽団のメンバーたちは納得いかないようだったが、きっぱりと固辞されてしまっては揉め事の種になるだけだ。
タトエはいまだ、納得がいっていないようだったが、のそのそと後ろからソレシカが近づいて、茶色い髪の上に腕を置かれる。それに嫌な顔をするが振り払いはしなかった。
「ゆっくりしろよ。誕生日だろ」
ソレシカは呑気に言う。タトエも、やっぱりそうだよと大きく頷く。
愛されてきたのだと理解できる感覚だった。クレズニとサレトナはそうではなかったから、誕生日をごく普通に祝われるということにどうしてもためらいを覚えてしまう。妹が祝福される機会を永遠に奪おうとしている自分などが、仮初めの平穏に身をやつして「生まれてきてくれてありがとう」なんて言われてもいいものか。
いつか、言われる機会があるとしてもそれはいまではなかった。
「私にとってはいつもと変わらない日常が一番のプレゼントですよ。いってきます」
クレズニはタトエからエコバッグを受け取って、宿を出る。エコバッグの中から買ってくるものを書かれたメモを取り出した。軽い日用品ばかりだったから、帰りには書店に寄るのも、もしくは花屋をのぞくのも良い。
空を見上げる。今日は、晴天だ。雲はわずかに漂っているが、もう秋の高い空にちぎれた綿が浮かんでいるようだった。穏やかな日差しを浴びながら絢都の街並みを歩く。宿泊街である翡翠通りを抜けて、商店が並ぶ香石通りを目指していった。
香石通りは奥に行くほど高級な店が多くなるので、それよりも前のところで買い物を済ませていく。馴染みの雑貨屋の「ウェンター万物店」で歯磨き粉を買っていると、金色の髪の年若い店番から声をかけられた。
「君がここに買い物に来るなんて珍しいね」
「それなりに来ますよ。ウェーターさんがいらっしゃらないことが多いだけでしょう。最近はどちらを歩いていらっしゃるのです?」
「こりゃ一本取られた。なに。ここのところ、いろんな人の誕生日が続いていてね。調達に忙しかったんだよ。ここは万物を扱う、なんて大祖父が言い出したもんだからこういうときばっか頼られる」
やれやれとウェーターは肩をすくめるが、それは幾年も続く信用がなせる依頼なのだろう。必ず、大切な人が喜んでくれるものを用意してくれると信じられて、またその信頼に応えるためにウェーターを初めとするこの店の従業員は走り回ったのだ。
そういうことを当たり前にする絢都という街を、クレズニは結構気に入っていた。
最近まで走り回っていたというウェーターをねぎらうために、炭酸水を一本だけ多く買う。会計を済ませて、値引きの交渉を持ちかけられるがすっぱりと断る。金に困っていないあいだは正当な取引を行うべきだ。
店を出る前に、ウェーターに炭酸水を置いておく。
「普段から、仲間がお世話になっている礼です。ご遠慮なさらず」
「店のものに手をつけさせるなよ」
そう言いつつ、ウェーターはボトルを開けた。ついでとばかりに九枚の紙を渡してくる。
福引券、と書いてあった。今日まで街の広場で開催しているらしい。
それはありがたく受け取って、クレズニは広場に向かった。
広場にはそれほど人がいなかった。福引の会場も雑談の場と化している。クレズニは遠くから、景品を眺める。狙いは四等の高級布の詰め合わせだろうか。
まあ六等の使い捨ての紙が集められているのだけでも上等だと、クレズニは座っている獣の婦人に福引券を渡した。
「三回、回せるわよ」
一回目。六等。
二回目。六等。
三回目。三等。
おや、と緑の玉を眺める。ずいぶんと上等なものが出てきてしまった。
「おめでとう! 三等はハーブセットだよ。肩こり頭痛になんでもこいだ」
「ありがとうございます」
ハーブセットは調合を扱うサレトナの土産にできる。思いがけずいいものが当たったと、嬉しく思いながら二つの手のひらで抱えるのに手頃な大きさの箱を受け取った。
さて、随分と荷物が増えてしまった。少し考えて寄り道は諦めて帰ろうと歩く方向を変える。
ぐい、と服の裾をつかまれた。
「あの、クレズニさん! 俺にそれをゆずってくれないか!」
勇気を振り絞った少年の声はよく響く。
振り向いた先には初めて見る、黒髪に焼けた肌の子どもがいた。日差しの中を快活に走り回っているような子だが、いまは真剣な顔をして見上げている。
どうして自分の名前を知っているのか、という疑問はクレズニにはない。これでも街と宿の解決屋であるため、自分が知らないところまで名前が売れていなくては仕事にならないというものだ。
「どうして、譲ってもらいたいのですか?}
「母さんが肩と腰を痛めて」
簡潔な返答はよくある症状だった。とはいえ子どもが心配するくらいだから放っておくわけにもいかない。口を引き結んでうつむく子どもにクレズニは微笑みかけた。
「それなら私の方が力になれるかもしれませんよ。私がどなたかは、ご存じでしょう」
「うん。沈黙の楽器亭の、クレズニ医師」
全く医師ではなく医療の知識があるだけなのだが、その誤解を解くことはしないで、クレズニは子どもの後をついて行った。
「君はなんて言うんです?」
「俺はレント!」
勢いよく走り出す子どもが辻馬車に轢かれないように、抑えつつ、クレズニはもう一つの住宅街である藍石通りを進んでいった。こちらはあまり開かれておらず、治安も少々悪い程度には込み入っている。すりにあわないように身を引き締めつつ、レントが器用に人やおいてある洗濯物をすり抜けていくのを追いかけていった。
レントの家は左右に並んでいる家々の左側にあり、赤茶の屋根で外にはすすけた看板が置いてある一軒家だった。何かしらのレッスンをしているのだろう。
扉を開けてレントが入り、クレズニは扉を閉める。
「失礼します。回診にきました」
「あら、そんなお金は」
部屋の奥から声が聞こえる。レントに案内されて、扉を叩いてから室内に入った。寝台に横になっているのは初めて見る妙齢の婦人だったが、クレズニを見て体を起こそうとした。その顔が苦痛に歪む。無理はしないように、クレズニはゆっくりとレントの母をうつ伏せにさせた。
「触っていいでしょうか」
「ええ。こんな体で申し訳ないわ」
そっと、必要以上は触れないように触診していく。長年の疲労の蓄積による痛みの発現だとすぐにわかり、確かにハーブの対処療法も有効だろう。こういったものは軽くはできても取り除くことはできない。人が生きてきた証であり、積み重ねてきたものだ。たとえ喜ばしくなくとも。
さて、どうするかと考える。
「今回は軽くするだけで大丈夫ですか」
「ええ。動ける様になるだけで十分よ。いやあね。年を取るって」
「お子さんと共に歩めるというのは素敵なことだと思いますよ」
世辞ではなく、心からの意見を伝えた。
クレズニはそっと、レントの母が傷むという箇所の中空に手をかざす。回復の魔法といったものは傷ついたものの修復だけではなく痛みを取り除くこともできる。それと熱による筋肉の硬直の緩和だ。生体調整魔法は習わされたものだったが、ここで役に立つとは思いもしなかった。
唱和はなしに手に魔力を込めて体を癒やしていく。徐々に楽になっていくのか、こわばりが抜けていくレントの母と、拳を握って見守るレントの視線を感じながら、クレズニは魔法を使い終えた。
「これで当分は大丈夫でしょう。ハーブセットは置いておきますから、メンテナンスも忘れずに」
それでは、と立ち上がる。そのときにまた服の裾を引っ張られた。
「あのさ。俺は大して返せるものはないけど。これ」
瓶の中に入っているのは大きな琥珀色の結晶だ。他にもグラスグリーンや茜色などが混じっている。
硝子あめだ。
少年の宝物を譲ってもらうことに申し訳なさはあったけれど、無償の奉仕は特客には厳禁だ。報酬はもらわなくてはならない。
「ありがたく、頂戴しますよ」
「うん!」
受け取ってもらえたことにレントもほっとした顔を見せる。
クレズニはそうしてレントの家を出た。帰りはレントと母が並んで見送ってくれたのが、回復した証だろう。
住宅街を出てからいまの住処である沈黙の楽器亭に戻る。舗装された道を歩いていくと、ふらりふらりとなまめかしい足取りで歩く女がいた。金の髪に黒いドレスを着ているところから、蜂女だと知れる。人以外も住人である絢都アルスにはよくいる類いの生物だ。
蜂女はクレズニと目が合うと急に、かつかつかつと近づく。早い。思わず立ち止まると五歩くらいの距離を置いて蜂女が口を開けた。
「あなた、甘い匂いがする」
「それはこちらでしょう」
レントからもらった硝子あめを見せた。日の光を受けて七色にきらめく。
蜂女という生き物は蜜以外の甘い物を主食としている。それらしか食すことのできない種族でもあった。
「ねえ。これをあげるから、硝子あめくれない? お腹空いてたのよ」
そう言って蜂女が差し出したのは手に収まるくらいの瓶に収められた黄金色の液体だ。二を開けることは止められる。一気に揮発してしまうらしい。
おそらく蜂蜜の一種だろうと判断し、クレズニは交換することを了承した。レントには申し訳なさがあるが、いま必要としている人のところに渡るのも物の宿命だ。
蜂女と分かれて公園を抜けていく。人の手によって整えられた緑は目に優しい。まだ日差しに熱さは残るが、通り抜ける風の涼やかさに身を任せながら進む。
エコバッグの中には福引で当てたハーブが硝子あめに変わり、それから蜜となった。
まるで昔話のように流転する物の道行きに思いを馳せる。物は動かせるが動けない。消費されて、利用されて、誰かを救って終わりに向かう。
その歩き方は人によっては寂しいだろうが、クレズニには清々しくも感じられた。
広場に出たところで、歌が聞こえてくる。吟遊詩人が楽器を奏でていた。周囲には、まばらに人がいる。クレズニも足を止めたところで、楽器が鳴り止んだ。いままで星が瞬く声で歌っていた吟遊詩人は激しく咳き込んでいる。喉に唾液でもつまったのだろうか。
聴衆は、急な自体に戸惑いと失望を見せている。すぐに立ち去ってしまう者、心配そうに見上げる者など様々だ。
いまだ咳を続ける吟遊詩人にクレズニは近づいた。黙って、蜂女から分け与えられた蜜の瓶を置く。顔を上げた吟遊詩人は、瓶を取り、クレズニへ掠れた声で言う。
「こ……れ、メリット。ハニーで、は、ないか! こんな、こきゅひ。かはっ」
「そういうのはいいですから、使うのでしたらどうぞ」
「すまなひ」
吟遊詩人は持っていた水筒を開けて、口をつけてからメリットハニーという蜜を飲み込む。それからまた水筒を傾けた。
ふう、と周囲からも安堵の声が上がる。
「ありがとう。喉のしこりが溶けたようだよ」
「どういたしまして。それでもあなたは唄っていたのですね」
「ああ。医者にかかる金もないからな。喉が焼き切れても唄うしなかった。お礼に、こちらを。私の最後の宝だ」
手渡されたのは、小指の爪の半分ほどの大きさをした青い宝石がはまっているネックレスだ。金具はすり切れていて一度でも外すと砕けてしまいそうだった。
ここで、いただけませんと辞退したら美しかっただろう。
だが、今日は物が渡り歩く日だ。ハーブはあめに変わり、あめは蜜に変わり、蜜はネックレスへと転じた。
それを謙虚で遠慮するのは反対に傲慢な気がした。
「ありがとうございます。よい歌を」
帰ってきたのは、蜜に乗らされたのか夜空を滑らかに滑る星のきらめきだった。これで聴いていた人々も安心するだろう。
そうして、クレズニは沈黙の楽器亭へ帰還した。
「おかえり。いつもより時間かかったな」
「ええ。寄り道をしていました」
最初に出迎えてくれたカクヤに小さく微笑みを向ける。
今日は誕生日で、買い物に出かけて、何も自分のためには手にしなかったが思い出深い一日だった。
宿の広間へ行くとレクィエがソファに座っている。顔を向けると首をかしげた。
「何か、もらったのか?」
「もらったと言えばいいのか、交換したと言えばいいのか。レクィエは何か感じますか?」
無音の楽団で正体のわからない物の鑑定と分析も担当しているレクィエの勘の鋭さを信じて聞けば、首は縦に振られた。
向かいのソファに座って、吟遊詩人に渡されたネックレスを見せると、レクィエはポケットから小さな道具が収納されているケースを取り出した。そこから、魔法針と呼ばれる触れた物の属性によって色を変える針を選び、近づける。針は青から白へと色を変えていった。クレズニがもらったネックレスに興味があるのか、後から来たカクヤもソファ越しにのぞき込んでくる。
「ナクスタの加工石だ。効果は、身につけていると魔術を使用するときに効果が増幅するってところかな。北東の地にあるナクスタ山で見つかった鉱石に乙女の祈りが込められていて、それをネックレスに加工したんだろうよ」
「解説ありがとうございます」
思いがけず役立つ物を最後に得たらしい。
「そのまま使うのか?」
「いまの状態だと持ち歩くだけで壊れそうなので、本にはめ込みます」
「あら。兄さん、おかえりなさい」
カクヤに展望を話したところで、サレトナも来た。手にしているものを見て、すぐに魔力を感じ取ったのか、感心している。
「いろいろと手に入れたみたいね」
「失った物も同じくらいあるさ。それでも、最後には何かしら残るみたいだよ」
「なら、兄さんは手に入るのなら何が欲しかったの?」
問われて、考える。欲しいもの。欲しかったもの。それらは沢山あるはずだというのに、あったはずだというのに、言葉にしようとすると全てが儚く消えてしまった。
だから、言う。
「ないみたいだ」
無欲なことだと呆れられるが、仕方ない。
それに、己が無欲でないことはクレズニが一番知っている。心から欲して、つかみたいものをまだ見つけられていないだけだ。だから願えない。それは、臆病と怠惰の表れでもあった。
叶うのならば。いつか私にも譲れないものが見つかればいい。
いまはそれが、無音の楽団というものなのだろうけれど。
仲間たちを見つめてクレズニは微笑んだ。
万事流転の誕生日

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