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三冠夏さん(@moru0101)
時は十九時三十分の手前の頃だ。三冠夏を志乃川邸の広間に案内した後に、志乃川古蝶の父、志乃川知史と母、志乃川二三代は古蝶に最後の確認を行っていた。
「ならば、三冠夏さんは」
普段から重い父の声は古蝶の知らせを聞いて一層に苦い色を帯びていた。
だが、いまさら嘘はつけない。
夏さんを巻き込んではいけない。
古蝶は責任感と使命感、これまでの夏との思い出を抱きしめながら静かに告げる。
「はい。あの方は刀遣いとしてはとても優秀な方。ただ、志乃川家に相応かどうかを考えますと、あまりにも、平穏な方です」
知史は頷いて、先に案内していた夏のところへ向かう。その背中を眺めていると二三代に尋ねられた。
「古蝶は、いいの」
「何がかしら」
「夏さんとの婚約が流れてしまっても、本当にいいの?」
その時の母は、社に仕える物ではなく、一人の母であり女の顔をしていた。
自分と同じく父とは見合い結婚だったと聞く。慎んで嫁ぎ、古蝶を産み、後の一生を志乃川に捧げてきている。
自分も同じだ。志乃川の血に囚われている。
だから、夏に惹かれたのだろう。名前と同じく命の盛りを生きていく眩い青年の隣に、叶うのならばずっといたかった。彼と結ばれた時は嬉しかった。
それでも、最近の煩悶から抜け出せない夏を見ていて、隘路を付き合わせられないと気付いてしまった。
夏は平凡ではない。非凡の才を持つ刀遣いだ。
だが、精神構造はごく穏やかな青年のものなのだ。自分の闇に巻き込んで夏の光を溶かしたくなかった。
古蝶は胸の痛みをこらえながら、母の心配に正直な気持ちを伝える。
「私と夏さんの婚約を、流れさせたりはしたくない。だけれど、父さんをごまかすことはできないわ」
「なら一つ。夏さんが、あなたに婚約したときにお話ししたという言葉を、もう一度だけ思い出してごらんなさい」
「え?」
母も背中を向ける。夏との会食の場に行くのだとわかり、慌ててついていった。
その会話を廊下で聞いていた青年には気付かないまま。
志乃川家と夏の会食は和やかな雰囲気で進んでいった。
専属の調理人の手によって、丁寧に作られた膳を机の上に四つ並べ終えた後から、食事と会話は順調に弾んでいく。
古蝶はその光景をどこか遠くから眺めていた。父である知史が幾重にもかぶっている皮の数はもう十を越えているというのに、夏は生来の人の良さからか一挙一動を真剣に受け止めている。殺気には鋭いというのに、人の狡猾に張り巡らされた悪意には鈍い。
そういうところを支えていきたいのに、と膝の上に置いた手の力が強くなる。
夏の傍にいてその強さを十全に振るうための支点になりたいというのに、自分と結ばれることがしがらみとなる現実がもどかしかった。
志乃川家というものが、なければ。
「失礼します。お茶をお持ちいたしました」
届いた声に一気に水を被せられた。本来なら聞こえるはずがないように、厳重に隔離されているはずだ。
それなのに、突如として現れた給仕服の男性は、見知っているどころではない顔をしている。
自分と同じ青い髪に緑の瞳の青年は志乃川新鳥という。
古蝶の、兄だ。
知史も狼狽を見せかけたが、まだ被っている皮に余裕があるらしく、やんわりと言う。
「ありがとう。だが、まだ早かったようだ。お下がりなさい」
「いやだなあお父上。大切な妹の嫁ぎ先の方に挨拶の一つもさせないつもりなんですか?」
「妹?」
夏が呟く。そういえば、いままで兄の話はしていなかった。
昔から何を考えているかわからない人が、場の主導権を握っていく。茶の注がれた湯飲みを、夏、古蝶、二三代、知史と順に置いていく。わざとらしい挑発だ。
そうして、立ち上がると夏を見下ろしながらじっくりと見分する。夏もようやく向けられた敵意に気付いたのか、眉を寄せて隙のない姿勢を取る。
にこっ、といきなり新鳥が笑った。
「そんなに緊張しないでくれよ。俺は、古蝶と君のために一肌脱ごうとしているんだから」
「何か、あるんですか」
「うん。はっきり言うと、父の判断で君と古蝶の婚約は破談の方向に舵を切っている」
夏の視線が古蝶に向く。どうして、という困惑に襲いかかられるがいまは話すことができない。容易に動けない状況を作られてしまった。
「なんで破談になるかって? そりゃ簡単さ。君が、想像されていたよりも、普通の人だったからさ!」
「……俺が、普通だと?」
「へえ。そこで怒るくらいの自負はあるなんて、さすが天照の壱段だ。まあ実際に君と戦ったら、俺は為す術なく打ち負けるだろう。それくらい強いことは、理解できるよ! でもさ」
ふと新鳥の顔が変わる。軽薄さが薄れて、能面みたく表情が読み取れない不気味さをたたえたまま、冷酷に告げる。
「君の強さは結局、喧嘩のためだけなの?」
その声は不穏を告げる鳥の鳴き声のように聞こえてしまった。
「っ!」
「兄さん、もうやめてください」
ようやく声を出して兄を制止することができた。それを待っていたのだろう、新鳥はにんまりと笑って、手を振って出て行く。その後を二三代が続いていった。
「三冠さん、折角の席にすみません。私も少しせがれに注意してこなければ」
鷹揚に笑いながら知史も足早に出て行き、会食はこのまま流れてしまうだろう。望みもしない騒動ではあるが、古蝶はこの瞬間に二人きりになれる場所を作ってくれた兄の好意に感謝する。
母の言葉も、思い出す。
夏は言ってくれた。自分が道を過つ時は叱ってくれと。ただ、自分はそうすることによって夏に煩わしく思われることがいやで大切な約束から逃げてしまった。
だけど、もう逃げない。
「夏さん」
「は、はい」
古蝶は深々と正座をして頭を下げる。夏のことはもう視界に入らないほど、深い謝罪だ。
「この度は見苦しいところをお見せして誠に申し訳ありません」
「いえ! 頭を上げてください。ただ……破談、とは」
「兄の言うとおりです。母は、私だけでも志乃川の戸籍から逃がそうとしてくれましたが、父がそれを許しませんでした。兄がああいった人ですから、私に志乃川を託したいみたいで。だから、婿に入ってくれる人を今更あてがおうと画策しています」
「そんな、ことは。ひどいでしょう」
真っ直ぐで常識を持って育ち、自分も現代の常識を得て生きていた人だ。
だから、説明しなくてはならない。志乃川という家の暗部を、さらさなくてはならない。その結果として見るに堪えないむごさに夏が逃げ出して、なにもかもなかったことになるとしても、しなくてはいけないことがある。
それは夏を叱ることだ。
せめて、婚約者として約されたそれだけは果たして、夏を軛から解放して別れなくてはならない。
愛しているから。
「夏さん。あなたの家は刀遣いとして、とても優秀で、だけれどそこまで強くなるのにとても大変な思いをしたことは、想像できます。ですが、志乃川家は術、呪いに長けるだけあって、心の面で深い淀みを抱えて育っていきます。それは、私も例外じゃないんです」
「いえ。古蝶さんは優しく、素晴らしい人だと」
「そう思ってくれるのは嬉しくて、怖いです。これまでの私を知ったときにがっかりされるから」
「なりません」
「絶対に?」
間を、作られた。夏は古蝶の赤紫の瞳から目をそらさずに言う。
「絶対に、です。俺は古蝶さんのこれまでよりも。過ごしてきた時間を信じたい」
ああ。そう言ってくれる人だから。
泣きたいくらいに切ない思いをこらえて、がんばって微笑んだ。
「では、今から少し。夏さん。志乃川の家の澱というのは」
それは、少しだけおぞましくて沢山の悲しみでできたおとぎ話だった。
夏の表情が硬くなる。顔は青ざめて唇を噛んでいた。震える指に、そっと自分の指を重ねるが、弾かれないのは幸いだった。
「……志乃川、というのはそういう意味です。夏さんの戦い抜いてきた死線とは別に私たち一族は亡滅の河を越えてきました。ねえ、夏さん。普通じゃない、というのはそういうことなんです。それを知っている私には、あなたを怒る資格なんてないと思っていたけれど、言います」
すっと、息を吸い、言葉がなるべく柔らかくなるように慎重に選んでいく。
「あなたは、あの討伐戦の時以来、ずっと鍛錬に集中しながら悩んでいました。それはまた強くなりたいからだと思います。ですが、夏さん。あなたにとって、強さは、天照の刀遣いとして壱段であることだけなんですか?」
酷いことを言っているのは自分に刺さるくらい痛いから、伝わる。戦うのならば生き残らなくてはならない。生き残るためには強くならなくてはいけない。強くなるのならば何かを捨てなくてはならない。
その理屈はわかる。だが、納得はできない。
「夏さん。いま、あなたが手にしているものを捨ててまで、強い壱段であることは、大切な意味があるんですか?」
夏はいまだ答えない。
最後に、言う。
「私はいまから残酷なことを問います。これまでの強いあなたと、私の未来でしたらどちらを選べますか」
夏の手がこわばり、緊張を伝えてくる。それを感じながら小さな声で付け加えた。
「……もしも、私を選んでくださるのでしたら、誠心誠意、お側にいたいです」
伝えたいことは全て言葉にしたから、ここからは、夏の選択を待つしかない。不思議と怖いのに穏やかな気持ちでいたら、夏が言う。
「一つだけ、聞かせてほしい」
「はい」
「古蝶さんはまだ俺と別れたくないんだな」
いまになっても、そんなことを気にしていたなんて、とおかしくなって古蝶はつい笑ってしまった。
「当たり前じゃないですか。お慕いしております。三冠夏さん」
夏の表情はまだ揺るがない。
どういった答えが返ってこようと、この冬からいままで夏と過ごした時間は古蝶にとって最も光り輝いた時間だと確信できた。
それは、夏の結晶だから。
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