絢都アルスには沈黙の楽器亭という人気の宿泊施設がある。
料理の都トルストにある三つ星レストランで修行したとされる主人の料理を皮切りに、清潔と快適さが凝られた寝具と粋を感じさせる調度品の数々といった住居の居心地の良さに加え、特客という珍しさが揃えば興味を持つなとたしめる方が無理だろう。さらに宿賃も特価とまではいかないが、平民が少し見栄を張れば容易に一泊二日は楽しめるときている。
特客。
それは、絢都と姉妹都市である爛市メロリアの限られた宿に所属する、問題解決業ともいえる。客の依頼に浪漫を感じられたら相応の対価を要求して、一時の旅と人生を快適にするものだ。
沈黙の楽器亭の特客は「無音の楽団」といい、名乗りの通り普段は楽団である。だが、ただの演奏家ではなく、宿に持ち込まれた厄介事を落ち着き、時に武力で解決する。
リーダーはカクヤという。滑らかな青い髪に赤い瞳の熱血漢。
知略担当はサレトナだ。長い橙の髪と杏の瞳の凜とした少女。
神事を執り行うのはタトエになる。特徴的な茶の髪と琥珀の瞳の聖職者。
荒事仕切りはソレシカが務める。赤い髪と瞳の整った顔立ちをした斧使い。
調停役はクレズニに一任されている。紺灰の髪に青い目の真問官。
情報収集はレクィエの右に出るものはそうそういない。緑の髪と瞳のいなせな器用屋。
といった面々が普段は揃って宿に集い、仕事をし、遊び、探求を深めるなどしているのだが。
カクヤの誕生日である八月十七日の朝には誰もいなかった。
それを、サレトナは沈黙の楽器亭の広間のソファに座りながら、一人で悩み続けている。
仲間達はどこにもいないが、いつもクールなラーメン屋の店長によく似ていると評される宿の主人はいた。食堂に顔を見せると、昨日と変わらず美味しい豆のスープとサラダ、焼きたてのパンに腸詰めといったメニューなどを用意してくれて、全て美味しく味わった。
だけど、仲間達のことを聞いても首を横に振られるだけだ。
せっかくのカクヤの誕生日なのに。
ふう、と溜息を一つ。自分の誕生日の時にはあれほど豪華に祝ってくれたのに、カクヤだからと手を抜くのはあんまりではないか。
自分一人で何ができるか、考えていると階段を下りてくる足音が聞こえてきた。真っ直ぐに左へ曲がって広間へやってくる。
「はよー」
呑気に挨拶をしてきたのは、今回のサレトナ会議の議題に上がっているカクヤだった。
「お、おはよう」
「なんかいつもより眠くてな。んー。まだぽやぽやする」
カクヤは起床も早いし寝覚めも良い。ということは、誰かが一服盛ったのかもしれない。直感的に考えるが、何のために盛ったのだろう。
もしかすると。
「誰もいないのか?」
「う、うん」
私たちを二人きりにするためなのだろうか。
否定したいが、否定できない。サレトナのカクヤへの好意は無音の楽団全員にあっさりと露見しているし応援までされているのだ。兄であるクレズニは複雑そうな顔をしているが、それでも止めるまではしてこない。
一気に緊張してきた。
カクヤはまだ眠たげな眼差しで周囲を見渡すが、依頼を書くための書類には「本日休業」の札が貼られている。
これも誰かの策略だろう。じわじわと追い詰められている。
「あのさ」
「あの、今日がカクヤの誕生日ということをみんな、忘れているわ」
サレトナの唇の前に、カクヤの指が一本だけ立てられる。むぐ、と塞がれると楽しげに言われた。
にっこりと笑って。
「デートしよう」
つい、こくんと頷いてしまった。
心臓が爆散しそう。
公園を歩きながら、サレトナは隣に立つカクヤを見上げ、またうつむいてしまう。
だって、カクヤと正式なデートをするなんてこれが初めてだ。二人きりになることや買い物に出かけることはあっても、カクヤからの誘いでデートだなんて。
まあ、カクヤは初恋も済ませているから、ただの軽いお出かけ程度の認識で誘ったなら服の裾を引っ張ってやろうと決めていた。
カクヤの気持ちの正体ははっきりとわからないのだが、サレトナはカクヤに十分、恋をしていた。誰かの王子様でも、万人の英雄でもないけれど、自分のことを絶対に守ると誓約してくれた、唯一の人だ。
一緒に旅をし、いまは沈黙の楽器亭で特客として落ち着いているが、そのあいだに何度もときめいて何度も恋に落とされた。
いまだって、隣で歩いているだけなのに。
手をそっとつかまれた。
「え、か、カクヤ!?」
突然の熱を感じたことに困惑しているのに対し、カクヤはどこ吹く風といったところだ。
「ん?」
「て。て、てー!」
「砲撃でもするのかよ」
からから笑われると、また恥ずかしさがぶり返してくる。
サレトナはカクヤが好きでカクヤもサレトナのことを好きでいてくれているけれど、まだ互いに告白はしていない。思いは通じ合っていても、想いを確かめあったことがない。それは自分の意気地のなさと、相手の鈍感によるものだ。
前に進みたいけれどその先に終わりがあったら怖くて進めない。
だから、いまみたいに本当に恋人らしいことをされると混乱してしまう。わたわたするサレトナを見て、カクヤは手を放さないまま立ち止まったあとにさらに、とんでもないことをしてきた。
きゅ、と指先を絡め合うようにして一本ずつ折りたたんでくる。肌が触れあうたびに走る痺れに、限界を迎えそうだった。
「ふぇ!?」
「放さないもーん」
傍から見たら生ぬるい恋人同士だということには欠片も気付かないまま、二人は他愛もないやりとりを繰り返していく。サレトナが距離を取りたがれば、カクヤは瞬時に距離を詰めて腕を回す。
その光景を、前に無音の楽団に出張演奏をしてもらった病院の患者が見ていたが、声をかけることもできないほどだ。
滅多にないカクヤの触れあい具合に混乱を越えて、困惑を超えて、惑乱どころか錯乱しかけたサレトナは、言う。
「カクヤの偽物!」
「本物だよ。ほら、クレープおごってやるから」
ようやく手以外は解放されたサレトナは、唇を尖らせながらカクヤについていった。
公園にあるクレープの屋台で、カクヤはキャラメルマキアートを、サレトナはストロベリーシフォンをそれぞれ注文する。
「大丈夫? 持てる?」
「大丈夫っすよ」
カクヤは器用にサレトナとつないだ手を放さないまま、二個のクレープを受け取って、サレトナにストロベリーシフォンを渡そうとするが恨みがましい視線に当たって、ようやく手を解放してくれた。
サレトナは両手でクレープを抱える。そのまま、公園のベンチに座った。
黙々と食べながら隣にいるカクヤを見る。
今日のカクヤは、いつもと違う。
普段から陽気で爛漫な性格をしているが、ここまではしゃいだりはしない。リーダーとしての自負なのか、前に聞いたが長兄だからか、面倒見良くまとめる側だ。
もしもこれがカクヤの本来の性格で自分の前でなら見せられると、無邪気な明るさを出してくれたのなら。
嬉しい。
サレトナはそろそろ心臓が甘く跳びはねるのを止めたいのだが、うまくいかない。
先にキャラメルマキアートのクレープを食べ終えたカクヤは、口元をナプキンで拭いて、捨てに行く。戻ってくる。
まだサレトナは、苺をかじるので精一杯だ。
「サレトナ」
返事ができない。それを知っているからか、カクヤは言う。
神も天使も悪魔もいるけれど、それらに祈ることなどないのに、切なげに、言葉にする。
「ずっと、一緒にいたいな」
いまは同じ場所に立っていられるけれど、旅が終わったら。次の目的地へ向かって手を振るのかもしれない。それとも、帰るべき場所へと別れて終わる可能性だってある。
私たちはきっと、いつかどこかで別れなくてはならない。
それはいやだ。
サレトナはクレープを食べる手を止めた。
「私も……カクヤとずっと一緒にいたい」
肩に腕が回される。距離が縮まる。寂しかった空白が、消えた。
一緒にいたい。
それがどういった未来に繋がるのかはわからないけれど、カクヤの傍にずっと、いたい。
カクヤも同じことを願ってくれるのなら私はそれを、叶え続けたいから。
こてん、と頭を預けるとクレープを少し囓られた。
さて、宿を留守にしていた無音の楽団の仲間達はというと。
「ここのビュッフェの割引券、今日までだったけど。本当にカクヤとサレトナには言わなくてよかったのかな」
「二人きりが一番のプレゼントだろ。なにより、ここに来てまで砂糖を飲みたくない」
「まあ確かに」
「桃まんうまいなー」
「……兄としては、複雑ですけどね」
そのようなことを放しつつ、カモノハシの涙亭にあるスイーツビュッフェに勤しんでいたのだ。
このことを知ったカクヤとサレトナがどういう反応をするかは、想像に任された。
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