無音の日常

 絢都アルスの宿泊街に、近頃有名になりだした宿がある。
 その宿の名は「沈黙の楽器亭」という。元から丁寧な接客と清潔な環境を提供し、立地も安全な地域に属しているため利用客は多かった。さらにその名を広めたのは一般の客層ではなく「特客」と呼ばれる宿にて街の依頼を承る一団によるものだ。
 特客である彼らは、自分たちのことを「無音の楽団」と称している。
 無音の楽団が提供する飲食や演奏がもたらす安らぎの一時は襤褸で旅する人の癒やしに、絹の上に外套をまとう一時の客の楽しみとなった。
 さて、ここから始まるのは、無音の楽団が送る平穏と嵐に彩られる日常だ。

 沈黙の楽器亭、昼下がりの団欒室にて。
 ソファの上で無音の楽団のリーダーであるカクヤが、紅一点である凍夜魔術を使うサレトナを膝枕していた。青い髪を下ろしながら、カクヤの赤い瞳はサレトナだけを映し出し、サレトナは橙色の髪を散らして杏色の瞳はいま閉ざされている。
 それを見かけたのはレクィエだった。暑いのにべたべたぺたべたくっついていて、よくやると苦笑してしまう。ソファの背もたれに腕を置きながら、言う。
「お熱いねぇ」
「サレトナは冷たくて気持ちいいぜ」
 そう言って橙色の髪に一筋触れる。熱帯でも冷気で囲うことによって暑気を逃させることができるサレトナだから、この暑さでもくっついていて気持ちいいというわけでは、なさそうだ。愛しい人の傍にいられることが嬉しいのだろう。だからこんなにも油断しきっている。
 ごちそうさまと内心で手を合わせた。
 二人の関係が特別なものから、唯一のものになるのもあと少しだろうなあ。
 レクィエは二人に関わるのはそこまでにした。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてなんとやら、だ。
 代わりに通りがかった、茶色い髪に耳のような癖が特徴的なタトエの後をついていくことにする。カクヤとサレトナから離れて、一歩後ろに立つと、聞かれる。
「あてられた?」
 熱源は当然、いまも穏やかにソファで微睡んでいる二人のことだろう。
「まあね」
「はは。すごいよね、あの二人。でもさ、レクィエだったらああいうのする側? される側?」
 美少年として理想的な面立ちを向けられながら、年頃の少年らしい無邪気な問いに対してしばし考え込む。そのあいだに目的地としているのは厨房だ。
「俺はするけどされたい側」
 相棒というか、悪友というか、憧れというかのサレトナの兄であるクレズニはしてくれないだろうけれど。言い出したら端正な面差しから呆れた目を向けられそうだ。
「タトエはどうなんだ?」
「させられそうな側」
 納得できる答えだった。タトエに恋をしていると公言してはばからないソレシカは、自分から膝枕をするだろう。たまに「して」とタトエにねだるかもしれないが、それはそれできもちわるい。
 他愛もないことを話しているあいだに厨房に着く。タトエはてきぱきと花のシロップをトニックウォータで割りながら、ハーブをさらに足してレクィエの前に置いた。それから自分のためのアイスティーを用意して、小さなテーブルに座る。レクィエもその向かいに座る。
「まあ、こんな日々が続くといいね」
「そうだな」
 英雄でもなく、悪鬼でもない。凡庸でもなく、天使でもない。
 無音の楽団は平らかな日常を謳歌する人たちで結束されている。


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