四月を迎えて二日目の朝だ。
サレトナは沈黙の楽器邸の自室で目を覚まし、枕元に置いてある白い目覚まし時計を手に取った。時刻は六時で、起きるのに遅くも早くもない。
窓の右側にあるカーテンを開ける。今日は快晴だ。まだ強くのない日差しがサレトナの白い頬を照らしてくる。隙間程度にまた戻して、着替えを始めた。最近になって衣装を替えたライムグリーンのワンピースに体を通して、リボンを締める。
ある程度の余裕ができてから、買い換えた化粧台の前に座る。鏡の中にいる少女の顔は緊張と期待でちぐはぐだった。部屋に備え付けてある洗面台で顔を洗い、また戻ってから日焼け止めと薄い化粧を施して、長い橙の髪を梳いていった。頭の上にあるくせっ毛はいつも通り元気で言うことを聞かない。
くるり。一回転をして全身を確かめる。おかしなところはない。特に、気を張っているところもない。
いつも通りのサレトナ・ロストウェルスがそこにいる。
けれど、昨日までとは少し違う。それを気づかれたいような、気づかれたくないような。
内心で複雑な呟きを一匙すくいながら、息を吸い、吐く。
サレトナは部屋を出た。くう、と軽い声で空腹を訴えられる前に食堂へ向かう。その足取りもいつもより硬くて、意識しすぎていることが恥ずかしい。
でも、だって。初めてなんだもの。ときめくことくらいは許してもらいたい。
「サレトナ。はよ」
「あらソレシカ。珍しく早いのね。おはよう」
赤い衣装が派手な快男児は呑気なあくびを一つする。サレトナの隣に並ぶことなど滅多にしないから、並んで歩くのは新鮮だった。
その後は会話を交わさずに食堂までの真っ直ぐな廊下を歩いていくが、扉に手をかける前に止められた。ソレシカが塞ぐ。
「なによ。ご飯食べたいんだけど」
「心の準備は十分か」
「……そんなに、すごいの?」
「わりと」
聞いているだけでは何のことかさっぱりわからない会話だが、ソレシカもサレトナも話題の焦点を理解していた。
今日は、サレトナの誕生日だ。
だからどうなることかとサレトナはそわそわと落ち着かずにいたのに、落ち着いた振りをしていて、ソレシカはこれから待ち受ける祝福に対する心構えを持たせてくれた。
それだけだ。
サレトナも良家の息女であるため、誕生日を祝われることに慣れている。だけれどそれは公的な格式張ったもので、友人たちと喜び合った経験がない。初めてのことだから嬉しいけれど、うまく喜べるか不安だ。
サレトナの些細な躊躇を、ソレシカはあっさりと無視してノックする。
「サレトナ入るぞー」
「「「はーい!」」」
何人いるのかわからないくらいの声が聞こえてきた。
楽しみを越えた恐怖で逃げ出したくなるというのに、ソレシカは扉を開けると、ぽいっと気軽にサレトナを投げ入れた。
「誕生日おめでとう、サレトナ!」
「…………」
食堂は、いつもと変わらなかった。違う点を上げるとするのならばテーブルクロスが緑と橙に変わっていることや、酒宴の際に使われる楽器が置かれているところ、あとはパンケーキを中心にしてサラダ、付け合わせのローストビーフや甘い匂いをさせているオニオンスープなどが所狭しと並んでいる。
サレトナがいままで祝われた会場を炎と例えるしたら、目の前の光景は蝋燭の灯火のようにささやかなものであったけれど。
熱は、同じくらいにあたたかだった。
クレズニに手を引かれて席の中心に案内される。周りを見れば、無音の楽団の仲間たちだけではなく先輩にあたる「銀鈴檻」の人たちもいた。青緑の長い髪の女性、ネイションと目が合うと微笑まれる。
「座りなさい。皆、お前のためにがんばってくれたのですよ」
「わかってるわ。何を、言うべきかも」
ならいいと、頷かれる。クレズニは左端の席へと移動して、あとはタトエに任せてくれる。隣に座る一等星はにっこりと笑って、立ち上がった。他の人たちも各々の席に座っている。
「今日は四月二日! 僕たちの大切で、少しわがままだけれどがんばり屋のお姫様。サレトナの誕生日だよ。たくさん、お祝いしよう!」
拍手が上がる。
それに対して、うまく笑ってありがとうといつもなら言えたのに。優雅な淑女としての振る舞い方は教えられているのに。
どうして何も出てこないの。
困惑して、一層に感情が心を責め立ててくる。ここには好意しかない。サレトナを祝いたいという純粋な思いしかない。
それが、辛くて。苦しくて。
涙がすっと、流れ落ちた。一度こぼれると止まらない。止めようと口に手を当てるのに、肩が震えてしゃっくりあげてしまう。
「サレトナ?」
タトエが声をかけてくれる。首を横に振って、大丈夫だと伝えようとするが、全くそんなことはなかった。
場の空気にわずかな惑いが生まれる。主賓が泣いているのだから当然だ。いますぐに抑えなくてはいけないのに、場を振り切ることもできなくて、サレトナは涙をこぼし続ける。
クレズニが席を立ち、サレトナにハンカチーフを黙って差し出した。普段なら咎めるはずの青い瞳に憐憫が宿っている。受け取れない。
息苦しい時間が続く。誰も席を立たない優しさが、辛かった。
「ただいまー」
ぱりん、と重い空気が軽やかに割れる。帰ってきたのは席にいなかったカクヤだ。手に袋を提げて、入り口で周囲を見渡す。
「どうしたんだよ。これ」
「あなたのお姫様が、泣き出しちゃったのよ」
銀鈴檻のリーダーであるハシンが言い放つ。突き放す響きが少しだけ、サレトナを楽にしてくれた。
どうして泣いたのかは自分だって理解が追いつかない。嬉しくて、だけれど家族でもない人たちに祝福されることは自分にはとても罪深いことに思えて、苦しかった。
サレトナは自分を愛した人が災禍に遭うことを何よりも恐れている。
カクヤはぐるりと周囲を見渡したあと、サレトナに真っ直ぐ近づく。中腰になると視線を合わせた。
いつものように優しい笑顔で。
「嬉し泣き?」
聞かれたので、首を横に振る。
「それじゃあよくないな。誰も、ここにはサレトナをいじめになんてきてないし、俺がそれを許さない。大丈夫だよ。サレトナ。何が怖いんだ?」
「わる、いこと。だもの……私、を祝福してくれる神様はもう、いなくなって、しまったのに……こんなにみんなに……」
祝われる。感謝される。喜ばれる。
全てがあてはまって、嬉しいのにじわじわとサレトナの首を、四肢を締めていく。
「そっか。サレトナを守ってくれていた神様はいないんだな。だったら、それは俺たちへと譲ってくれたんだよ」
顔を上げて、カクヤを見る。
赤い瞳。見ようによっては苛烈な印象を与えそうだというのに、カクヤの瞳はいつだって穏やかで、確固とした情熱を宿している。
指が伸びて、サレトナの涙を拭う。
「神様はいない。だけど、俺たちはいる。それは神様がサレトナは俺たちと出会って大丈夫になれると知っていたから、いなくなってしまっただけなんだ。サレトナ。幸せになってはいけない人なんて、いない。そんな人を決めてはいけないから。俺たちは、サレトナを何度だって祝福するよ。二度と一緒にいられなくなっても、この日が来るたびに君を思い出す。だから……大丈夫だ!」
カクヤの腕が伸びて、サレトナを包み込んだ。胸に押し当てて泣き顔を隠し、涙を拭わせながら言う。
「生まれてきてくれて、ありがとう。サレトナ」
「……うん」
いつしか、涙は止まった。それでもカクヤは離さない。
「あ、他の人たちは食べててくれ。俺とサレトナは落ち着いたら入るから」
「はいはい」
「うーん、悔しいなあ。僕だとやっぱり役者不足なのかな」
タトエは切り分け始めながらも、唇をとがらせる。サレトナはカクヤに抱きしめられたままだが、もごもごとしゃべった。
「ううん、違うの……ごめんなさい」
「べつにいーよー!」
「リブラスが答えてどうするの」
呆れた声でネイションが口を挟んだ。
「ま、あの二人をおかずにしながら食べましょ」
ハシンは器用にパンケーキのトッピングを重ねていく。他の面々も、サレトナのための料理にスプーンやフォークをつけていった。クレズニは、心配そうにサレトナを見るがレクィエに顔の向きを変えさせられて、仕方なく料理に集中する。
「……サレトナ」
「ん」
「もう、大丈夫だな」
「うん。でも、もう少しだけ。このままでいさせて……」
返事はない。
カクヤの手がサレトナの指を探して動き、見つけるとつないで、指を一本ずつ折りながら絡まっていく。
それが答えだった。
優しい手の動きに身を預けていると少しずつ素直になれる。
サレトナの誕生日はこれからだ。
神様からのバトンタッチ

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