君は可愛くて会いたくなる

 夏の夕方。蝉の鳴き声も少しずつ遠くなっていって、冷房の稼働する音ばかりが大きいリビングの一人用のソファに座って本を読んでいる。
 サレトナのスマートフォンが鳴った。
 テーブルの上で振動する小さな長方形を手に取って、通話相手を確かめてから耳に当てると挨拶のあとに本題がすぐに来た。
「花火見ようぜ!」
「いいわよ」
 聞き慣れた声の相手はカクヤ・アラタメだ。
 カクヤはサレトナの同級生で。
 恋人だ。
 高校三年生であるカクヤとサレトナの毎日は受験へとたぐられるように近づいていき、新たな思い出を作るのも難しい日々を過ごしている。だから、カクヤから久しぶりに出かける用事に誘われて嬉しかった。問題が一つあるとしたらサレトナは素直な性格ではないため、弾む心を口に出すことはできない。あと一欠片の可愛げがあったら、「ありがとう」と恥ずかしがりながらも言えたはずだった。
 カクヤから待ち合わせの場所などを説明されつつ、何度も言おうとした。
 ありがとう。嬉しい。私もあなたに会いたかった。
 伝えるべきだと分かっている言葉なのに舌の先で止まってしまう。結局は、会えたときに言おうと先延ばしして終わってしまった。
 サレトナは通話の終わったスマートフォンをテーブルの上に置いて、空のコップに茶を入れるため冷蔵庫へ向かった。

 夏の夜、臨海公園の広場にある大時計の下でカクヤを待つ。
 期待はしながらも、カクヤのことだからいつも一緒にいるタトエやソレシカあたりは連れてくるだろうと諦めてもいた。ただいつも行動を共にする一人である兄のクレズニが別の人と花火を見に行く約束をしていると聞いたため、カクヤと二人きりになれる確率は上がった。もし一緒に来たのがタトエだとしても、気が利く彼に「カクヤと二人きりになりたい」と頼めば、自然な流れで別れて行動できるように協力してくれる。ソレシカはタトエに引っ張られてくれるだろう。
 それにしても、兄のクレズニが自分を置いて別の誰かと出かけるというのは意外だった。見た目は整っていて気遣いもできるがクレズニは不器用な兄で、それでも兄にしか分からない交友関係もあるのだと初めて気づかされた。本人にそう思わせるほど、クレズニはサレトナに過保護だ。
 サレトナは薄い緑のワンピースに白いカーディガンを羽織り、麻のサンダルという格好だが、まだ暑い。人も増えてきて歩くのも大変な中で、カクヤは自分を見つけてくれるだろうか。楽しそうに声を上げながら通り過ぎていく人の流れをくるくる見ていると、後ろから声をかけられた。
「サレトナ」
「あ、カクヤ……浴衣?」
 最後の言葉は小さな独り言になった。
 すぐ傍にいるカクヤは、珍しく季節に合った格好をしていた。普段は寒がりなので夏でも上着を持参している。その上着を着るか着ないかは場合による。
 サレトナはまたカクヤを見つめた。染めてなどいない青黒の髪はいつもと変わらず、赤い瞳も常の通り鮮やかだが、濃紺の浴衣を着ていると普段はあまり見えない肌の白さが際だっている。首筋のあたりからほんのりと漂う艶に、自分の趣味を疑ってしまった。
 カクヤなのに格好良い。普段から少しは思っているけれど、浴衣という姿で来るのは予想外だ。
 好きな人の見慣れぬ姿に動揺していると、カクヤはからから笑った。
「じいさんが着てけっていうから着せられた。にしても動きにくいなー。これ」
「ならいつもの格好で来れば良かったじゃない」
「逆らえなかったんだよ」
 穏やかな顔で言うカクヤに、冷めきれないときめきが残りながらも悔しくなった。
 浴衣を着たかったわけではないが、もう少しだけでもお洒落をしてくれば良かった。普段の仲間の集まりだと思って、油断してしまった。
「行くか」
 サレトナの怒りなど知らずにカクヤは歩きだす。サレトナは、一瞬止まった。すぐに自分を取り戻して、隣に並んで尋ねる。
「他の人たちはいないの?」
「どうして俺とお前のデートなのに、他の奴らを連れてくんだよ」
「聞いてない!」
 なおさら可愛い格好をしてくるべきだった。だが、後悔しても遅い。
 サレトナは自分の服装に落ち込んでしまい、まともにカクヤを見上げられない。せっかくのデートなのに気持ちが破った紙のように乱れる。突然の二人きりは想像していたよりも素直に喜べず、自分の抜かりがただただ憎かった。
「ほら、サレトナ。わたあめとか、かき氷とか。イカ焼きもあるぞ」
 広場を抜けて、道の両端にある屋台を示される。食欲をそそる醤油が焦げる匂いや、甘い蜜の香りが漂うが、カクヤの目の前で口を大きく開けてぱくつくわけにはいかなかった。サレトナの乙女心は強い。
「カクヤは食べたいものはないの?」
「じゃあかき氷。祭といったらこれだろ」
 言ってカクヤは前に進んだ。
 小さな頃は、百円でも安いところを見つけるために屋台を制覇する勢いで歩いたものだが、流石に高校生であるためかそれとも人混みを往復するのが億劫なためか、カクヤは最初に見つけたかき氷の屋台で二つ買ってきた。戻ってくるときに手にしているかき氷には、ブルーハワイと、みかんのシロップがそれぞれ上にかけられていた。
 言うまでもなく、シロップが何を示しているのかはすぐにわかる。
 カクヤは食べたい色ではなく、好きな色を選んで買ってきた。カクヤの青色と、サレトナの橙色が並ぶかき氷を。
 そういった気遣い、というよりも発想にサレトナはまだ慣れない。格好をつけるのとは違う。カクヤから注がれる愛情がくすぐったくて、顔を隠して変な声が出そうになってしまいそうになる。
「ありがと」
 それでもなんとか、平静を装って礼を言う。
 指名するまでもなく渡されるブルーハワイを受け取りながら、腰を落ち着けられる場所を探した。道の途中でちょうど、目の前の人が立ち上がって空いた三人がけのベンチがある。カクヤとサレトナはそこに座った。
 すでに溶けかけている、砕かれた真っ青な氷を口に運ぶ。しゃり、と口の熱に負けて崩れていき、甘い液体の味が広がっていった。
 こういうとき、かき氷はただの氷の部分と甘いシロップがかかっている部分をいかに調和させられるかが重要だ。わりと真剣に調整していると、隣で気にせずがりがり口に運んでいるカクヤが言った。
「あのさ。サレトナ。今日も可愛いな」
「はあ?」
 いきなりの発言に眉をしかめる。こんな、少し離れた百貨店に出かけるくらいの服装と、それに合わせて薄い化粧をしたくらいの自分は、わざわざ褒めるくらいに可愛いものなのだろうか。
 カクヤは唇を尖らせた。
「なんだよそれ。最近、制服しか見られなかったから久々の私服だー。やっぱりいいなあって思ったから言っただけだぜ」
「制服は可愛くなくて悪かったわね」
「制服も可愛いけどな。夏になると靴下になるのが可愛い」
 変なところを見られていた。サレトナはもう、言い返しても響く言葉が分かっているので黙る。
 カクヤはいつだって、サレトナのことを「可愛い」と言ってくれる。他の女子には、女性にはそんなことほとんど言わないというのに。タトエには言うが。
 普段なら照れ隠しとして怒るだけですむというのに、さらに悔しいのは、この祭の雰囲気のせいだろうか。
 海の夜の祭。人々が発する熱気と祭に乗じての混乱が入り交じって蒸し暑い空気だというのに、カクヤの甘い言葉に込められた熱でのぼせてしまいそうだ。
「この中にソレシカとタトエもいるのかな」
「知らないけど、なんで今日は誘わなかったの?」
「サレトナと二人きりになりたかったから。夏休みに入って、おまえ勉強ばっかだったじゃん。俺もわりとしてたけど」
「受験生だもの。そんなに私に会いたかったの?」
「会いたかった」
 ぱーんと、音がする。
 花火が上がった音だというのは、周囲の人たちの声でわかったけれど、サレトナは目に入らなかった。聞こえなかった。
 カクヤはベンチに置かれたサレトナの手に手を重ねて、真剣な声で言う。紅の瞳は胸の中心を真っ直ぐに射貫いて、呼吸もできない。
「サレトナに会いたくて、二人きりになりたくて、今日は誘った。どうせ夏休みが終わったらまた会えるけど、でも。俺はサレトナに会いたかったよ」
「私、は」
 同じ気持ちなのに、どうしていつも素直に言えないのだろう。
 手の中のかき氷の容器が汗をかいて濡らす。冷たい。その冷たさで、いつもみたいにカクヤをはねのけたくなくて、がんばって、サレトナは言った。
 それは当たり前のことだろうけれど、サレトナが口にするにはとても努力が必要だった。
「私……も、カクヤに会いたかった」
「なら良かった」
 カクヤはすでにかき氷を食べ終えたのか、湿った手を重ねて指を絡めてくる。すでに暗くなっているため、その様子はよほど近くに寄らないと見えないだろう。
 だからサレトナも指を絡め返す。自分以外の熱に、どきどきした。心臓が跳ねる。カクヤは真っ直ぐ前を見ていた。
 強く、痛いほどに指をつかまれながら、言う。
「離れるなよ」
「放さないでよ」
「うん」
 また、空で大きく弾ける音がする。
 青と赤の花が星の見えない夜に咲いた。


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